献帝、という名は極めて不名誉な諡(おくりな)だったりします。
「帝位を献上した、情けない皇帝」ってトコロでしょうか。
しかしながら。
実際のところは、少なくとも曹操暗殺計画に関わっていたようですし、
ただ、いい様に利用されてばかりの惰弱な人物ではなかったようです。
単純に、操れるような人形でもなければ、
ハイハイと言うことを聞くロボットではなかったワケでして。
曹操にとっても、
油断できない存在であったと言えるでしょう。
そもそも、あの董卓ですら認めた聡明な少年だったのです。
年齢を重ねるごとに自分の境遇を呪い、それに対して
必死で抵抗しようとしていたであろうことは疑えません。
しかし。
もしも運命というものが、
『人が生まれる前に、神様が用意したシナリオ』
で、あるのならば。
献帝に用意された運命とは、
もう「神様の嫌がらせ」としか言い様がない最悪のシロモノでした。
幼いころに母と祖母を、義理の兄の母親に殺されるわ。
9歳の時には、あの董卓に捕まって目の前でキ○ガイじみた暴政を展開されるわ。
12歳から15歳にかけては、董卓亡き後のヤクザ共の抗争に晒されるわ。
15歳で、最悪の奸雄 曹操に騙されて見知らぬ土地へ連れて行かれるわ。
20歳の時には、最初の曹操暗殺計画に失敗、腹心の董承達が三族にわたって殺されるわ。
34歳で再度挑戦した曹操暗殺も失敗、長年連れ添った妻を殺されるわ。
35歳、先妻の死から二ヶ月しか経っていないのに曹操の娘を後妻として押しつけられるわ。
40歳になって、ようやく曹操が死んでくれたと思ったら、その息子に帝位を譲らされるわ。
54歳の死にいたるまで、元皇帝として ひっそりとした生活を送ることになるわ。
……31年間も形ばかりの皇帝に祭り上げられて、
その後は14年間の飼い殺し。
そうなった原因の大部分が、
本人の責任によるものではなく、
周りから祭り上げられたり、責任を押しつけられたワケなのですから……。
耐えられたもんじゃないです。マジメな話。
しかし、そんなヒドイ境遇にもかかわらず。
孤独と不安の31年間の最後まで皇帝を勤めあげ、
強要されたとは言え禅譲という平和的な方法で
帝位を曹魏に渡したという点は大きく評価できると思うのです。
もし献帝が死をもって抗議すれば、魏王朝は簒奪という手段で帝位を奪ったことになり、
大きな混乱が中国全土を襲ったことは疑いようがありません。
献帝は確かに帝位を魏に「献上」する形となりましたが、
しかし同時にその行為によって多くの騒乱が避けられたのも確かなんですよね。
漢王朝400年という歴史の重みをただ一人で背負わされたあげく、
それに幕を下ろすことは献帝にとって死よりもつらい行為であったでしょう。
もっとはっきり言えば、
31年間の皇帝としての生活そのものが苦痛の連続であり、
恐怖との戦いの日々であったのかもしれません。
董卓・袁紹・曹操達の争いの帰趨次第では、
いつどのような形で死をむかえるかわかったもんじゃありませんから。
しかし、彼は
その苦悩に耐え続け、最後の時まで皇帝を勤め上げ、
天寿をまっとうするまで生き続けました。
己の責任からは決して逃げなかったのです。
献帝は皇帝としては立派ではなかったかもしれません。
無力だったかもしれません。
しかし、人間としては、どうでしょうか?
自身の運命に背を向けず、最後までソレに向き合い続けた
立派で強い精神の持ち主だったのではないでしょうか?
なお、帝位の禅譲後も献帝には、
*漢王朝の暦を使うこと
*天子の儀礼を行って天を祭ること
*魏の皇帝に上書する場合は「臣」と名乗らなくても良いこと
……以上が許されています。
曹丕は、あくまで儀礼上の事とは言え、
献帝に対して「最後まで天子としてあること」を認めていたことになります。
これって実は、破格とも言える温情措置だったりもするんですよね。
色々と悪く言われる事も多い曹丕ですが、
平和的な形で帝位を移行させるために
ずいぶんと心をくだいたようです。
この禅譲劇ひとつとっても、
魏とは、なかなかに革新的な王朝であったと言えるでしょう。
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