私評 『 劉表 』

「 私共には関係のないことでございます!」

徹底して乱世に背を向けた、政治の怪物。
 

 劉表って人について考えるたびに
 日本の政治家の、ある人物の名前が脳裏に浮かぶ。

 その人の名は『吉田茂』。

 そう。

 第二次世界大戦の敗戦の後に首相となり、
 占領軍GHQの大ボス、かのマッカーサー元帥閣下様ともわたりあった、
 あの吉田茂サンだ。

 この吉田茂って人、けっこう劉表と似ているところが多いのである。


 とりあえず、ここでは先に吉田茂について軽く紹介してみよう。

 後に『ワンマン宰相』と呼ばれるほどの
 強力なリーダーシップを発揮して
 戦争によって荒廃した日本を立て直し、
 後の経済大国の基礎を築く事に大きく貢献した、吉田茂。

 なんせとにかく、豪気な政治家サンだったんよ。

 公衆の面前で、小生意気な質問をしてくる記者に対して
 「バカヤローッ!」と怒鳴りつけて物議をかもした事もあったりするくらいだ。(笑)

 しかし、そんな吉田茂の多くの名台詞の中でも
 もっとも痛快な発言は、朝鮮戦争の際にやらかしたあの一言だと思う。


 「私共には、関係のないことでございます!」


 うん。

 北緯38度戦で、朝鮮半島が真っ二つに分かれて
 「アメリカ万歳 資本主義」と「ソビエト最高 社会主義」が
 殺し合いをおっぱじめた、あの時。

 吉田茂は断固として参戦を断ったんだな。

 しかしながら。
 当時の日本は、アメリカの半占領下にある状態の敗戦国。
 普通に考えれば、ご主人様の意向に一も二もなく従うべきところだ。

 あの偉そうに司令官ぶった
 サングラスとコーンパイプをこよなく愛する
 いけすかないノッポのアメリカ軍人に言わせりゃ、

 「ガッデム、ジャッープッ!
  急ニ、何ヲ言イ出シヤガル、デスカーッ!?」

 ……てな、感じだったんじゃないかなぁ。

 事実、再三にわたって出兵要請をしてきたらしいし。

 
 しかし。それでも、なお。
 吉田茂は断固として、同じセリフを繰り返したのでした。


 「私共には、関係のないことでございます!!」


 その言葉が、意味しているのは以下。

 「大国同士の縄張り争いだの、イデオロギーの戦いだの。
  ……そんなもん、我々の知ったことか。
  おまえら、そんなに殺し合いがしたけりゃ、勝手に殺し合え。
  しかし、巻き込もうとするのは勘弁してくれ。
  わが国の大事な国民を そがぁな戦争で
  死なせたくはないんだよ。マジで 」

 さらに続ければ、こんなカンジ。

 「とにかく、俺達は戦わねーからな。
  まぁ、どーしても協力して欲しいってんなら、同盟国のよしみ。
  物資だけは調達してやってもいい。
  ……ていうか、大いに儲けさせてもらうつもりだけどね。
  朝鮮特需だ、やっほぅ!!」


 うわー。頼りになるぜ、吉田茂。政治家の鏡だぜ♪

 日本国憲法 第九条という大義名分を振りかざしつつ、
 当時の日本の首相はおおいに『自国だけのエゴイズム』を優先させたワケだ。

 まぁ、この時、日本がこの他人事の戦争で大儲けし、
 その後の高度経済成長やら貿易黒字に繋げたのは、周知の事実として。


 ……何が言いたかったか、ってぇと。


 似てると思いません? 
 吉田茂がやったことと、三国時代に劉表がやったこと。

 劉表も、まったく同じスタンスだったんですよ。
 自国の繁栄のために、戦争なんかしない、ってあたり。

 確かに、劉表もそこそこ戦争はしてる。
 特に孫呉からの侵略に対しては、断固として抵抗している。

 しかし、対孫呉に対しても、黄祖っていう古強者を江夏、いわば対呉の前線に配置して
 徹底的に守備を固めさせた、といった具合に
 対孫呉の戦略方針も、基本的には『防衛』路線。

 荊州の南方に兵を差し向けたのも、荊州を完全に治めるため。

 荊州から出ての戦争には、積極的ではなかったのだ。


 劉表の肩書きは、『荊州刺史』。

 だから、荊州は完全に制圧して見せた。
 そして、守って見せた。

 でも、そっから外に出て領土を拡大する事には、
 あまり熱くはなれなかったようだ。


 まぁ、そんなこんなで。

 大陸全土で起きている不毛な戦乱に対し、
 劉表はひたすら無視を決め込み、
 きっちりと自国の平和・経済・文化の育成に専念したわけ。


 ある意味、政治家としては理想的ですら、ある。
 荊州の民にとっては、劉表は神にも等しい存在だったかもしれない。


 そうやって考えてみると、なかなかに
 あなどれない人だったようにも思えてくる。

 えぇい、この際だ。
 わかりやすい一例を挙げてみようか。

 ちょいとばかり三國志をかじっていると、こう考えがちじゃない?

 『なんか劉表ってヤツは、荊州ですげぇ実力者だったらしいけど。
  もともと、生まれながらに広大な土地をもっていた人と違う? 
  劉姓ってことは、皇族なんでしょ?』

 とか、なんとか。

 事実、自分もそうでした。
 
 ……ところがぎっちょん。


 どこぞの耳と手の長い、身分詐称っぽい劉姓を名乗る人と違い。
 劉表って人には、確かに皇族の血は混じっていたけど、
 それをおおっぴらに利用したことはなかったのだ。

 よーするに、皇族でござい、などと大きな声で言えるほどの血統の持ち主ではなかったわけ。

 んで、例の悪名を振りまいている、宦官の孫野郎と違って、
 父祖代々蓄えた金を持ち出して、好き勝手やれる立場でもなかった。


 劉表って人は、徒手空拳で荊州に乗りこみ、
 そこで王様まで成り上がってしまった御方なんだよね。
 マジな話。



 劉表が赴任してくる前までは、
 荊州もご多分にもれず、後漢の腐敗やら黄巾の乱の影響やらで
 しっかり、荒廃して混乱している地域だった。

 しかし、同時に土地としては豊かな土壌と交通の要地としての条件の整う
 経済的潜在能力の高い土地だったわけ。

 事実、三国時代をさかのぼる事 百年の昔。
 後漢の創立者 光武帝が前漢を滅ぼした反逆者 王莽をブチのめした時にも
 南陽を中心とする荊州の経済力を背景にしている。

 
 「磨けば光る」
 まさに、荊州とはそんな土地だったと言える。


 そんなこんなで。
 刺史として赴任してまもなく、光武帝の例にならい
 劉表も速攻で荊州の鎮圧に乗り出している。
 経済よりも学問よりも、まずは治安の問題を解決すべきだと考えたのだろう。

 その際に、劉表が味方につけたのは
 蔡瑁って言う武闘派の豪族のオヤジと、越・っていう知的なインテリ有名人。

 地元でも有名な文武の両参謀をゲットした劉表は、彼らの進言に従い、

 反乱分子な豪族の頭共55人を酒宴を名目に呼び出し、
 全員 騙まし討ちのぶっ殺しを敢行する。


 いきなりの反則技で、なにはともあれ荊州内の鎮圧に成功してしまったわけだ。

 その後は、ひたすら領土内の充実を図ったのは先に述べたとおり。


 ここで注目したいことは、
 このとき劉表が特に力を入れた事業が、学校の建設知識人の招聘 であること。

 自らも学者として有名だったし、何より学問が好きだったし。

 ある意味、劉表自身の趣味も兼ねた政策ではあったのだが
 目のつけどころは見事だった。


 『どーも、劉表って人は戦争を好まず、学問を好む人らしい。
 戦争は、攻めて来る敵としかしていないしな』


 『荊州では、戦役から逃れ、飯が食える生活ができるらしい』

 などという噂が広がったのである。

 荊州こそは、『学問と経済の楽園』って噂だ。


 ……んで、この噂が、実際に ほぼ事実だったんだからたまらない。

 来るわ、来るわ。

 まず、全土から民衆が荊州になだれこむ。
 関中地方からだけでも、十万余家
が流入してきたってんだから、凄い。

 んで、お次は知識人共だ。有名どころでは、かの諸葛亮・徐庶。んで水鏡先生こと司馬徽。
 他にも、後に曹魏政権に仕える知識人の多くが、とにかく荊州を目指してやって来る。

 経済の基盤たる、多くの民衆、すなわち労働力。
 さらには、政治の基盤たる有能な人材。

 劉表は平和路線を徹底することで、この二つを同時に集めて見せたと言える。



 しかし、劉表はただのエセ平和主義者でもなかった。

 せっかく育てた豊かな土地を狙う外敵には、断固とした姿勢で臨んだのである。

 まずは袁術。その子分をしていた孫堅
 さらに、彼らに少し遅れる形で曹操

 まさに 『美味しいところだけ狙い』の外道共が、後を絶たなかったのだ。

 んで。
 そんな連中からの魔の手を逃れるべく、劉表が選んだ手段は『外交』。


 敵の敵は味方、よーするに自国をつけねらう外道共と敵対している勢力と仲良くしたわけね。

 袁術や孫家と対抗するには、袁紹。

 曹操に対抗するには、張繍。

 ……なんて具合に、
 うまいこと外交をもって敵とは極力 戦火を交えず、睨みを効かしていたわけだ。


 いまひとつ派手さには欠けるものの、ここまでは
 とにかく戦争を避け、有利な状況で自国の発展を着々と進めていった劉表。

 ある意味、その政治手腕は怪物的ですらある。


 もっとも、西暦200年の官渡の戦いの後は、最大の同盟相手である袁紹が落ち目となり、
 なかなか難儀していたようだ。

 袁紹の死後は、あろうことか天下無敵の疫病神である劉備を迎え入れているくらいである。
 同盟相手を探すのも、相当に難しい状況だった様子。


 しかしながら、 いかに自勢力にとって不利な状況になろうとも
 「曹操とは組めない」
 というスタンスを貫いた劉表の姿勢は、評価したいところだ。

 あんな戦争好きの領土拡大マニアの傘下に入った日にゃ
 大事な国民が根こそぎ戦争に狩り出されるのは目に見えてるのだから。


 さらに点数を加えるなら、
 曹操に対しての牽制に、傭兵隊長として劉備を招き入れつつも
 不必要に劉備に力を与えなかった、というあたりかな。

 ここんとこも、けっこうポイントが高い。


 たぶん、どーしても曹操からの侵攻が防げなくなったときには、
 生贄として差し出すつもりだったのだろう。

 劉備の存在も、外交カードとしては価値が大きい。

 自国に有利な講和条件を結ぶことも考えつつ、
 しっかりと劉備一党を数年間に渡って飼い殺しにしていた、とも受け取れるのだ。


 そうこう、考えると。
 劉表って、かなり凄みのある人物だ。

 だいたい、あの劉備を。

 その生涯に渡って、十数回も裏切りを繰り返した希代の梟雄を、
 およそ6年近くも飼い慣らしていたのである


 逆らう事も、逃げ出すことも許さずに。


 ある意味では、けっこう恐ろしい人物だったと言えるだろう。


 ……とは、言え。
 傑出した政治家で、たくみな外交手腕をもった怪物的な男ではあったが。

 しかし、そこまでが彼の限界だったのかもしれない。

 いや、もう少し好意的にとらえれば。

 時代の流れが、『政治・外交』を徹底させるという劉表の戦略を、
 劉表自身を縛る呪いの鎖に変えてしまった、とも言える。



 他者の血を流す事はもちろん、自らの血を流す事もいとわない曹操という覇王を前に
 劉表の『専守防衛路線』も、やがてその効力を失っていくのだ。


 事実、曹操は劉表を評するにあたって
 『自守の賊』 という痛烈な表現をもちいている。

 
 曹操に言わせれば

 『確かに、劉表の勢力は侮りがたい。
  しかし、それが眠れる獅子であるならば恐ろしいが、
  いつまでも目覚めぬ獅子ならば、怖くはないわ』

 と、いったところだったのだろう。


 袁紹死後の、数年間における曹操の戦略は
 あからさまなくらいに「劉表 恐るるに足らず」で一貫している。

 徹底して劉表を無視し、ひたすら北方への領土拡大に努めているのだ。
 
 つまるところ、劉表が攻めてこないならば
 劉表の持つ勢力を一気に飲みこめるまでに、安心して自勢力を伸ばすことができるということ。

 
 曹操が絶対的な信頼を置いていた天才軍師 郭嘉もまた、
 主君と同様の見解を示し「北方制圧」を主張。

 この郭嘉の進言で、曹操の意志は決定したと言えるだろう。
 

 そんなこんなで。

 なかなか攻めへと方向転換できない劉表を尻目に
 曹操は旧袁紹領土を次々と併呑していったわけだ。


 んで。

 劉表自身は幸か不孝か、自国が滅びるのを見ずして死ぬ。
 赤壁の戦いに先立つ、曹操の荊州侵攻作戦の直前に病死したのだ。

 後継者を、長男か次男かしっかり決めておかなかった、ってのは後々まで笑い草となっているが。

 しかし、それとてあまり劉表を責めるのも酷な気がする。
 彼自身が大きすぎる存在だっただけに、残る息子共などどちらを選んだところで
 荊州は曹操に降伏するしかない、と死の際で悟っていたのかもしれないから。


 劉表の存在の大きさを示す、一つの面白いエピソードがある。

 諸葛亮が劉備に出仕した直後。さっそく諸葛亮は劉備に

 『劉表の息子は凡愚ばかり。彼らの城を攻め、これをのっとれば。
  荊州はそのまま劉備殿の物。曹操に対抗するのも、不可能ではありません』


 ……と、進言したのだが。劉備は、あっさりソレを無視している。

 当然と言えば、当然かもしれない。
 当時 荊州の民にとって、劉表は神にも等しい存在。
 その死後、いきなり荊州を奪うような真似をしたところで、
 曹操よりも先に荊州の民にフクロ叩きで、ぶっ殺されるのが目に見えてる。

 この当時は、諸葛亮もまだ青いというべきなのだろうか。

 どうやら、劉備も諸葛亮に対し

  ( いきなりトンデモ発言しでかすヤツだ。
   少なくとも戦争には使えんな。あぶなっかしすぎる )

 といった感じの印象を抱いていたようだ。

 事実、その後も政治面では諸葛亮をフルに活用しながらも
 戦略・謀略面で劉備が重用したのは、統と法正。


 諸葛亮が、自身で戦争を計画し、
 思う存分に負け戦を繰り返すことができるようになったのは、劉備死後のコトなのだ。



 なお、そんな諸葛亮とは好対照的に、
 荊州における劉表の影響力を充分に評価していた人物が呉の魯粛だ。
 
 赤壁の戦いの後、
 彼が周瑜・孫権の反対を押し切る形で、荊州を劉備に貸し出したのは
 長年に渡る『劉表と孫呉の戦い』による
 荊州住民の反孫呉感情に対してクール期間を設けようとした、
 という見方もできる。


 
 「三国時代におけるパワーバランスの中心地域」
 として位置づけることができる荊州だが、それだけに難治の地、であったとも言える。

 経済的にも発展した豊かな地域ではあったが、
 逆に言えば、治めるにあたっても相応の実力を要求されるということ。

 武勇一辺倒の将軍を派遣して、どうにかなるような土地ではなかったわけだ。
 


 ……こーやって見ると。

 『 天下を争う機会を見逃しつづけた無能』として見られがちな劉表ではあるが。


 生前・死後を通して、おおいに荊州の民の心を支配し、

 その後の歴史にも少なからずの影響を与えた人物として
 評価することもできるのである。