袁紹というと、どうしても
「名門のプライドが高くて、油断しがち」
「優柔不断。いざというときの決断力がない」
といったイメージがあって、あまり評価は高くないようである。
確かに、「官渡大戦」では圧倒的な兵力を誇りながらも
勢力的に遥かに劣る曹操にボロ負けしてしまったのは、
彼の性格的な欠点がモロにでた結果といわざるをえない。
それはいかんともしがたい歴史的事実。
しかし。しかしである。
「つまるところ、袁紹は無能な君主」
と結論付けるのは、ちょっと気の毒ではあるまいか?
むしろ
無能とはほど遠い、三国時代でも屈指の有能な君主として再評価したいところだ。
確かに、
「袁紹が曹操との対決前に大勢力を築くことが出来たのは
宦官の孫である曹操と違って、彼が名門の出であったから」
という考え方も、間違いではないと思う。
袁氏が四代にわたって三公(漢王朝における3大トップ要職)を輩出するほどの
名門であったことが、袁紹の躍進に大きくプラスになったことは、否定できない。
しかし、血統の良さだけでいえば、
袁紹との争いに負けた袁術の方が上だったりもする。
袁術の母親が貴族の出であるのに対して、袁紹の母親は庶民の出なのだから。
いわば、袁紹は妾腹の子供であったのだ。
袁紹が、曹操といっしょにグレていた時代があったのは
袁紹もまた、それなりに複雑な家庭で育っていたからなのかもしれない。
少なくとも、温室育ちの御曹司ってタイプでは
なかったのは確かだ。
むしろ「名族出身」である事を声望へとつなげる
政治的才能に恵まれた野心家タイプ、と見た方がいい。
だいたい、当時は袁術をはじめ
袁紹よりも遥かに血統がいい人物なんて、他にいくらもいたのだ。
しかし、
「血統がよく、さらに実力をかねそなえた」人物となると
そう多くはいなかった。
つまるところ
「袁紹がのし上がったのは
それだけの根拠を彼自身が備えていたから」
と、考えた方が正解なのではないだろうか。
実際、袁紹は家柄がいいだけを売りにした小人物ではなかったらしい。
若い頃は曹操と共に花嫁泥棒をするくらいの不良だったし、
その後はキッチリ更正し官僚試験を受けて合格。曹操と共に政治家としてデビューしている。
(ちなみに劉備や公孫瓚は見事に試験に落ちている)
また、
「家柄を鼻にかけない態度で人に接したため、
多くの人物が彼のもとに集まった」
と記録にある。実のところ、結構 魅力的な人物であったようである。
エリート官僚なのに元不良。
おまけに、付き合いやすい性格ときた。そりゃ、人気も出るってもんだ。
そんな彼が大将軍 何進の側近として、
若くして抜擢されたのも、むしろ当然の成り行きだったかもしれない。
しかし、そんな彼の輝かしい「未来への階段」は、かなり早い段階でブチ壊されてしまう。
上司である何進が腐敗しきった漢王朝の権力争いに敗れ、
宦官達に暗殺されてしまったからだ。
「順調に出世して、父祖代々の伝統である三公の役職につく」
という彼の人生設計も、
就職して早々に修正を迫られてしまったというワケ。(苦笑)
しかし。
袁紹は、そんじょそこらに転がっているような、ガラスのエリート君とは違っていた。
逆境をもチャンスにしてしまう強靱なる精神を兼ね備えた、
まさにエリート オブ エリートであったのである。
「おのれぇ……ッ。宦官どもめ、薄汚い玉ナシ野郎の分際で
ふざけたマネをしてくれる……ッ。
よかろう、その挑戦 受けて立つ!!
この袁紹様のバラ色人生の、肥やしにしてくれるわッ!!」
そのまま勢いとノリにまかせて
袁紹は上官の仇討ちを決意。
まがりなりにも何進は、軍人最高の役職である大将軍であったのだ。
それが殺されたとあっちゃ、ある程度の無茶もまかりとおってしかるべき。
第一、どんなに軍が無茶をやらかしたところで、
責任を取る軍の最高責任者が、既にこの世にいないのだ。
ひょっとして。
いや、ひょっとしなくても。
軍事クーデターを起こす、最大のチャンスである。
上官の仇討ち。
国賊からの、帝の奪還。
統制を失った軍における兵士達を扇動して動かすには、おつりがくるほどの大義名分だ。
しかし、この場合 勝負カードは温存しちゃ意味がない。
あくまで、帝は宦官達の手の中にあるのだ。
詔勅など出されて、どこぞの誰かが新たな大将軍に任命されたらゲームオーバーである。
チャンスは、今 このとき。
出世競争に明け暮れる人生劇場などよりも、はるかにスリリングな流血のオペラ。
せっかく、その開幕ベルが鳴っているのに、手をこまねいていてどうするのというのか?
もはや、思考など無用。
決意の後は、決断あるのみ。
「ふはははははは♪
名族たる袁紹の名のもとに命ずッ!!
者どもぉ、かかれぇ〜〜〜い♪」
そう。
袁紹の栄光に満ちたスーパーサクセスストーリーは、ここから始まったのである。
なんと宮廷に兵を率いて殴りこみ、
宦官達を皆殺しにしてしまうというジェノサイドを敢行。
この時、袁紹は時代を動かしたと言っていい。
後の官渡大戦からは想像がつかないほどの大胆さと決断力・実行力だ。
しかし結果的には、この勝負は彼にとって満足のいく結果にいたらなかった。
運悪く、宦官掃討の混乱の中で行方不明になった皇帝を董卓が手に入れてしまったからだ。
とは言え、宦官達を打ち倒した事が、袁紹にとって大きな自信になったのも確かだ。
「英雄記」という史書に記されている、
董卓との会談における袁紹は本当にカッコイイ。
まず、最初に口火を切ったのは董卓。
「袁紹よ、このこわっぱめ。天下をどうするか決めるのは俺だ。
いいか、さからうなよ? 俺の刀は、なまくらではないからなぁ♪」
さすがに、すでに百年も前から乱世と化していた辺境を勝ち残った怪物だ。
いきなり「服従か死か」の二者択一を迫ってくるのだから、おそろしい。
しかし、対する袁紹も負けてはいない。
陰謀と暗殺が日常と化した宮廷にて、命をさらしてきた自負がある。
貴族とは、高貴なる誇りあっての貴族なのだ。
誇りを捨ててまで、生き長らえるつもりもなし!
「董卓殿、天下は広い。あなただけが、英雄ではありませんぞ」
と言い放ち、剣の柄に手をかけたまま、横向きに会釈して席を蹴ったそうな。
董卓 VS 袁紹
その、知られざる一騎打ち。
これはこれで、三国志における隠れた名勝負のひとつだと思う。
やがて董卓が、献帝を擁立して洛陽で暴政を働いたときは、
いち早く脱出して故郷で挙兵する。
反董卓連合の盟主に任命されたとは言え、
この当時の袁紹は、けっして大きな勢力を持っていたわけではない。
しかし、それでもなお
董卓が恐れるほどの存在では、あったのだ。
自身の声望を最大限に活かすことができる、おそるべき政略家として。
董卓が呂布に殺された後は、冀州の牧 韓馥から領土を奪い、
董卓の立てた皇帝 献帝を否定して幽州の牧劉虞を新皇帝に立てようとするなど、
積極的な独立行動を開始する。
また、黄巾賊と共に恐れられた黒山賊という公称百万の反乱軍は
当時 洛陽から追い出されて放浪の身にあった呂布を使って平定。
黒山賊をブチのめした後は、もう用はないとばかりに呂布を追放。
さらに、勢いにのって公孫瓚との戦いに乗り出す。
白馬義従と呼ばれる
一騎当千の騎兵隊を持つ公孫瓚にはさすがに苦戦したが、数年をかけて攻め滅ぼすことに成功。
結局、袁紹はわずか10年前後で、河北の四州を我が手に収めてしまう。
ここまでの怒涛の進撃・領土拡張の手腕は、驚異的ですらあるし、
曹操との出世レースでも大きく差をつけていたといっていいだろう。
……だが。
短期間で一大王国を築き上げた袁紹ではあったが、
どうやら彼自身は「攻め」の人物であったらしい。
巨大な王国を築くことと、それを維持し運営していけるかどうかは、また別の問題である。
勢いと勘に任せて暴れまわるのと、
巨大な組織の采配をするのはまったく違う勇気を要するのだから。
結局、曹操との河北の主権をかけた官渡大戦では、
陣営内の派閥争いに悩まされ
指揮系統の統一に失敗し、勝負を急いだあまりに
曹操に大敗を喫することになる。
例えるなら、袁紹は乱世というボーダレスの時代の中で、その混乱に乗じて
自分の資本を何十倍にもしたベンチャー起業家というべき存在であったのかもしれない。
三国時代前半において 袁紹ほどのスピードで領土を広げた人物は
他に小覇王 孫策をあげることができるが、君主として比べれば袁紹が勝ると思われる。
晋代、つまり袁紹が治めていた頃より百年近く経過した後も、
河北の民は袁紹時代の政治を懐かしんだという記録が残っている。
すなわち、袁紹は領土の経営者としても優れた人物であったと言えるのだ。
結果的には、官渡の戦いで敗北した彼は その後、
領土回復を狙って再度戦いを挑んだりもしているがたいした戦果もあがらず、
2年後 失意のうちに死を迎えている。
その後、袁紹の築いた王国が、ほぼそのまま曹操に吸収されてしまっているあたり、
現代風に言うなら袁紹は
「社運をかけた一大プロジェクトに失敗して、会社を倒産させたベンチャー社長」
といったイメージが漂う人物だ。
……とは言え。
良くも悪くも、袁紹もまた乱世を体現した生き方をした人物として評価できる。
あくまで、個人的見解に過ぎないが、
曹操にとって真のライバルと呼べる存在は
劉備ではなく、袁紹であったと思えてならない。
曹操による数々の袁紹を貶める発言も、見方によっては
袁紹に対する彼の対抗意識の裏返しとして、受け取ることもできるのだから。
【補足】
もし、同時代に董卓のような暴虐の王や、曹操という天才が存在しなければ
天下は袁紹の手に収まっていたと考えていいだろう。
逆の言い方をすれば、
袁紹が「天下人」にいたるために決定的に欠けていたのは、運だったのではないだろうか。
何進暗殺の際に、おこなった軍事クーデター。
官渡大戦における、正攻法的戦略。
確かに、どちらも失敗に終わってはいるが、
目のつけどころは決して悪くなかったと言える。
むしろ、相手が悪かったと言わざるをえない。
確かに袁紹は
己の意志を曲げることを徹底して嫌う性格の持ち主であったが、
それに見合う実力は充分に備えた人物だったのだ。
結果的に敗北したとは言え、
ある意味では三国時代における
もっとも王者らしい王者という印象すら、受けるのである。
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