私評 『 董卓 』

『 手に入らぬなら、壊すまで 』

狂気と暴虐こそが、我が答えと知れ!!

 『悪王』

 畏敬の念を込めて、董卓にはこの称号を捧げたい。

 『悪王』。

 書いて字のごとく、『悪の王様』って意味ね。

 英語で言えば『KING OF EVIL』
だ。


 いや、真面目な話。

 曹操が『悪のヒーロー』として評価されるならば
 董卓は『悪の王様』として畏怖されるべきだと思うのだ。

 あまたの悪役が登場する三国志の世界においても、
 この二人は別格的存在。

 まさに『役者が違う』という表現がピッタリだ。

 ……とは言え。

 こんなふうに書くと、

 「董卓なんて、ただの粗暴で下品で、強欲かつ低俗な
  アブラぎった成り上がりオヤジだろ? 
  曹操と並べるなぁッ!」

 と、怒り出す曹操ファンの人もいるかもしれない。


 しかし、個人的な見解を言わせてもらえば、

 『 悪のスケール 』 及び 『 悪の美学 』において、
 曹操と並び立つことができるのは董卓しかいないと思うのだ。


 ……いや。

 悪役としての評価に徹するならば、
 董卓の方にこそ、軍配が上がるかもしれない。


 とにかく。なにはともあれ。
 異論をお持ちの人も多々いるでしょーが、ここは我慢して続きを読んでちょーだい。
 ちゃんと根拠は述べますので。


 さてさて。

 とりあえずのところ、
 能力の優劣とか人格の評価とか、
 そーゆー面倒くさい考察は後回しにして、
 ここでは純粋に『悪役』としての二人を比較してみたい。

 そう。

 『悪役』として二人がどのように『三国志』という物語に絡んでいるか?

 このようなテーマで両者を比較し考察してみると、なかなかに興味深い。

 曹操と董卓は確かに三国志きっての悪役なのであるが、
 悪役としてのタイプは全然違うことが明白だと、わかるからである。

 『曹操とある意味で対極に存在する悪役。それが董卓』

 と言い換えてもいいかもしれない。
 ……いや。はっきり言おう。この際、言ってしまおう。

 『 董卓に比べると、曹操は甘い。
   甘っちょろい。悪としての覚悟が全然 足りない!』


 董卓に比べると、曹操なんてハチミツでコーティングされたチョコレート菓子だッ!


 悪に徹していない

 悪の分際で、
 『実は優しいところもあって……』だの
 『理想のために手を汚し続ける悲哀……』だの、
 そーゆー甘ったるい感傷的ムードを漂わせて
 どうするというのか。

 まったくもって情けない。
 士道不覚悟、もいいところである。

 同情を引こうという魂胆が見え隠れしてしまった時点で、
 もはや曹操を悪の中の悪と評価することはできない。

 せいぜい『悪のヒーロー』という安っぽい呼ばれ方が
 お似合いの人物なのだと言わざるをえない。

 そー言わざるをえないのだ。

 ふはははは!!

 ( ……今、かなりの人数の
  曹操及び魏のファンを敵に回したような気がするが……。
  ま、いっか。董卓の話を続けよう)



 許容もなく慈悲もなく、
 有象無象の区別なく。

 破壊し殺戮し陵辱し蹂躙し。

 絶対的な恐怖と暴力の具現者として
 ただただ畏れられた、狂気の暴君。

 まさに悪の中の悪、
 悪の王として君臨せし者。


 すなわち 『悪王』

 その称号は董卓にこそふさわしい。


 曹操に比べて、董卓は徹底している。
 徹底的に悪なのだ。

 悪党にそぐわない優しさ、など見せたりはしない。
 そもそも、優しさなど持ち合わせていない。

 理想のために悪事に手を染める、という哀しみもない。
 なにせ、理想なんて持ち合わせていない。

 創造のために破壊する、なんて言い訳じみた事など口にしない。
 もともと、創造なんかする気もない。


 そう。そうなのだ。

 董卓の凄いところは、破壊が手段でなく目的であったことなのだ。



 曹操がおこなった数々の破壊には、
 『創造のための破壊』というニュアンスが漂う。

 しかし、董卓がおこなった破壊は、『破壊のための破壊』なのである。

 
 共に『時代の破壊者』であっても、
 両者の立ち位置・視線の先にあるモノはあまりに違う。

 実のところ、
 二人はまったくの対極に位置する悪役だと言えるかもしれない。

 そして、それゆえに
 後世における両者の評価にも、大きく差異が生じている。

 破壊者でありつつも、新時代の開拓者でもあった曹操と違い、
 最後まで破壊者であり続けた董卓が好意的に評価されることは、
 ほとんどないからだ。

 しかし。しかしながら。

 董卓がおこなった数々の非道、
 その発端が何であったのか、についての
 考察は充分におこなわれてもいいと思う。

 最初から『人の世の理(ことわり)』から逸脱した人格破綻者で、
 良識に倫理にまったく束縛されないケダモノであった、
 いうならば話は早いのだが……。


 実のところ、事は
 そう簡単に説明がつくものでもないんだな、これが。



 実のところ、
 董卓にも最初はあったのだから。

 理想も。創造の意志も。

 しかし、あるときを境に、キレイすっぱりそれらを捨てて、
 以後は悪の道をひたすらにつっ走ったのである。

 ……破滅への道を、まっしぐらに。



 では、前置きはここまでとして。

 ……そろそろ本題に入るとしましょう。

 『悪王』 董卓様の壮大なる破壊劇、

 その紹介を始めさせていただくとします。


 
 董卓の生まれは涼州の地。

 
中国の一番はしっこにある北西部、まぁ典型的な辺境だと言っていい。

 後に馬超とか韓遂が反乱を起こす地でもある。
 異民族がバリバリに幅を効かせている、かなり荒っぽい土地だ。

 ……で。
 そんな土地で名を売るには喧嘩が強いのが一番、だったりする。

 後に漢王朝の権威を完膚なきまでに破壊することになる董卓が、
 若い頃 この涼州で名前を売ったのは当然、『喧嘩が強いから』であった。

 とにかく、武芸の腕は並ではなかった。
 腕力が人並みはずれて凄い、ってのもあったんだけど、
 それだけではなく騎射も得意だった。
 いや、得意ってもんじゃない。

 左右両方に、同じ様に矢を放つことができたらしい。

 ちょっと試しに、
 馬に乗りながら弓を構えて、左右交互に矢を放つ事を想定してみて欲しい。

 実際に、弓を引く真似をしてみると、
 右利きの人間が右方向に、左利きの人間が左方向に、
 弓を放つことはほとんど不可能だと理解できるハズだ。

 
 おそらく董卓の場合、
 両利きだったと推察できるのだけど、
 たとえ両方利きだからって、弓の技術がそれに伴うわけじゃない。

 こんな狩猟民族としてのDNAの優秀さを証明する特技を持っていた董卓は、
 当然の事ながら、狩りをなりわいとする騎馬民族の血が濃いこの地では尊敬された。


 んで、姜族と呼ばれる異民族の顔役とも、若い頃からタメ口をきく身分であった。
 今で言えば、ヤクザの親分にも顔が効く暴走族のヘッドである。

 しかしながら、ひとくちに不良といっても
 三国時代 呉を中心に生息していた
 『 合い言葉は、気合いと根性!! 』てな感じのヤンキー連中とは
 違う種類の不良であったと言える。

 ありていに言うと、オツムの出来が違うのだ。
 ただの乱暴者ではなく、悪知恵のまわる乱暴者と言えばいいだろうか。

 ……そう。
 凄くタチが悪い不良の一種である。

 (この点、曹操と似ているかもしれない)



 しかし、董卓も成人した頃には
『さすがにいつまでも不良をやっているわけにもいかねーよな』 という
 認識を持ち合わせていたようだ。

 西暦167年、田舎から飛び出して并州の反乱を討伐する武官として就職。

 その後も、きっちり軍功をあげて昇進を重ねていく。

 ……が、やがてクビになってしまう。
 このあたりの原因ははっきりしないけど、まぁ 不良の董卓のことだ。
 おそらく余計な問題でも起こしたのだと思われる。


 しかし、その後 なにをうまくやったのかは不明だが、
 いつのまにやら、并州刺史・河東太守という、ちょっと考えられないくらいの
 要職にまで出世する。

 ( ※ 現代日本でいうところの、県知事みたいもんです )

 ……ところが、184年の黄巾の乱で、討伐軍を指揮して敗退。
 それが原因で、またまたクビになってしまう。

 ようするに、若かりし頃の董卓とは、けっこうデキる男で、
 相当に苦労も重ねた男でもあったわけだ。


 しかし、187年。
 韓遂が涼州にて反乱を起こすと、
 土地柄に詳しい董卓に再度お呼びがかかる。

 ここで名誉挽回に挑めばよかったのだけど……。


 どーやら董卓はすっかりイヤになっていたようだ。


 以下、董卓の言い分。

 「やってらんねぇぜ。
  いくら頑張ったところで、
  評価されるのは努力じゃなくて結果なんだぜ?
  どーせ失敗したら、すぐにまたクビになるんだしさ……」


 んで。
 そーゆー董卓の心情は、
 けっこう理解できるものであったりする。

 確かに、ね。
 成果主義って厳しいもん、実際。
 モチベーションを維持するのも大変なのだ。


 「だいたい、さー。
  ちょいと考えてみたんだけど、な。
  黄巾の乱やら、辺境での反乱やら。
  クソッタレにボロボロになってる漢王室に忠誠誓って、
  なんか いいことあんのかよ? 
  遠い中央の地でふんぞり返っているエリート連中の御機嫌を取るよか、
  地元の豪族連中と仲良くしといた方がよくね?」


 ……うーん。
 そうだなぁ。それも一理あるなぁ。


 「韓遂とかの反乱軍は、それなりに地元で人気あるし。
  かといって、討伐軍の俺が、奴らの方に味方すると、
  これまた面倒になることもあるだろーし」


 で?
 どーするのだ、董卓?


 「サボり、だな。こりゃ。

  戦わなくても、被害が出なければ負けじゃねーしー。
  怒られる筋合いもないわけよ♪」


 なるほどねー。

 ……うん、それはいい考え……、じゃなくてッ!!

 待てや、おい!!
 この給料泥棒ッ!!(怒)


 そう。そうなのだ。

 董卓は、ここであっさりと仕事を放棄して、自分の子飼いの軍勢を維持したのである。

 お上から預かっている官兵を、すっかり自分の私兵と化して、
 さらに異民族のゴロツキ共までスカウトし、バリバリの戦闘集団を育成し始めたのだ。

 『ふはははは! 
  董卓様の、董卓様による、董卓様のための軍隊さぁッ♪』


 おそらくは、そんな感じで調子こいていたのであろう。

 ……しかし。


 当然、そんな董卓の姿を見て、
 真面目に反乱軍と戦っている人達がムカつかないわけがない。
 当時、韓遂の反乱鎮圧に遠く呉の地から単身赴任していた、孫堅もその一人であった。

 「 あの董卓っていう腐れ外道、ぶっ殺してやりましょうぜ?」

 と、上司の張温に具申する孫堅。さすがは『江南の喧嘩番長』というべきか。

 戦争は大好きだけど、曲がった事や卑怯なヤツは許せない!

 同じ不良と言っても、孫堅は『直情熱血タイプ』。
 董卓のような『欲望狡猾タイプ』とは違うのだ。

 ここにおいて、『悪王 董卓』 vs 『江南の喧嘩番長 孫堅』という、
 なかなかの好カードが実現しそうになったのだが。


 「……ちッ。
  うざってぇヤツもいたもんだぜ。
  まぁ、いいけどよ。
  ほっときゃ、そのうち帰るだろーし」

 孫堅に対して、董卓は相手にしなかったのである。
 案の定、孫堅の上司が喧嘩を許可しなかったため、孫堅もしぶしぶ帰国せざるを得なかった。

 対決はまたの機会に持ち越されることとなったのだ。


 んで。
 
 困った事に、董卓はこの件で味をしめてしまったらしい。
 よりいっそう『 軍隊を私物化 』に精を出すことになっていくのである。

 「 ぐへへへへ♪
  このまま、異民族征伐という任務は
  適当にサボタージュをかまし、力を蓄えていくとしよう。
  剽悍をもって知られる涼州騎兵で身を固めているのだ。
  まず、くだらない難癖をつけられることもないだろうな。
  孫堅のような戦争マニアは、極めて特殊な例なのだからな♪」


 そんなこんなで、いつのまにやら すっかり地方軍閥の仲間入りを果たしてしまった董卓。

 まさに『ミイラ取りがミイラ』である。
 


 んで。
 董卓自身は、このまま辺境の田舎で、他のヤクザ者と適当に抗争を繰り広げながら、
 その土地の顔役として、ブイブイ言わせて楽しく過ごす人生プランを描いていたのだろうけど。

 ……運命の女神様は、やはり董卓に そんな平凡な人生を許してはくれなかったのだ。


 中平六年(西暦189年)。

 当時、当時の中央における最高権力者の一人だった、
 大将軍 何進が董卓にラプコールを送ったのである。

 これによって、董卓は激動の人生を決定づけられるのだ。

 
 後漢の第十一代皇帝であった霊帝が死去して、
 その息子の劉弁(少帝)が14歳で即位した、この年。 

 宮中は、大きく分類して三つの勢力が争っていた。



 * 一つは、何進を代表とする、外戚チーム

 本来なら、皇帝の母親の親戚という、
 『皇室の血を引いていない野郎共』にすぎない存在なのだが。

 後漢王朝には早死にした皇帝がかなり多かったため、
 外戚には伝統的に権力が認められる傾向があった。
 まぁ、王朝において外戚が幅を効かすのは古今東西 変わらないことではあるけど。
 ……日本の藤原道長とかもそうだし。


 * 二つには、十常侍を代表とする、宦官チーム

 本来なら、皇帝と宮中の女達を世話する下働きが仕事の、
 去勢された『玉ナシ野郎共』にすぎない存在なのだが。

 後漢末期では皇帝から頼りにされて、けっこうな権力を持っていた。
 外戚に対抗するには、皇帝といえど身近な宦官を味方につけるしかない、
 という背景があったからだ。


 * 三つには、何太后を代表とする、幼帝母親チーム

 本来なら、皇帝だった夫を早くに亡くし、
 幼い子供を抱えて途方にくれる『悲劇の女性』にすぎない存在なのだが。

 この女の場合、そういうタマではなかった。
 自分の美貌ひとつで皇帝の妻にまでのし上がり、兄貴の何進を大将軍にしたほどの女である。


 ……ちょっと、説明が長くなったけど。

 董卓が何進に呼び出された当時、
 中央政府は こういう権勢欲でドロドロな人達が互いに睨みをきかす、
 かなり危ういパワーバランスの上で成り立っていた、というわけ。

 
 さらに。

 先に述べた第十一代皇帝だった、霊帝って人がとにかく救われない道楽野郎で、
 遊ぶ金が欲しいために皇帝自ら官位を売却するほどのバカボンで、
 しかも皇帝らしい仕事をまったくせず、後世の人からも
 『別にあの人がいなくても誰も困らなかっただろーなー。
  はっきり言って、幽霊と同じくらい役立たずな皇帝だった』

 と低評価され、その結果『霊帝』という極めて不名誉な称号をいただいた、
 どーしよーもない人だったのだから、救われない。


 そんな劉禅もハダシで逃げ出すような『 お馬鹿さん皇帝 』が死んだ後に、
 残った人達が熾烈な権力争いを繰り広げたのも至極 当然の結果だったと言える。


 んで。普通に考えるならば、何進と何太后が肉親同士で仲良くするところなのだけど。

 ここで何太后、なんと宦官の方についてしまう。

 
まぁ、確かに外戚として権力を振るいたがる兄貴よりは、
 宦官共の方が使いやすいと思ったのかもしれない。
 なんせ、宮中を守る近衛兵は宦官の直轄にあるのだから


 宦官といえど、なめちゃいけないのである。


 ……で。何進は考えた。

 「近衛兵が宦官に押さえられてるなら。
  こっちは、勇名を誇る董卓を味方につけて対抗してやろうじゃねぇか。
  董卓の抱える無敵の涼州兵なら、近衛兵だって蹴散らせるってもんだ!」


 宦官勢力を一掃するために、董卓の武威を利用しようとしたのだ。

 確かに目のつけどころは悪くなかったのかもしれない。
 しかし、いきなり無敵の軍勢を呼び寄せるなんて、やはり無茶しすぎ。
 宦官達にとってはたまったもんじゃない。

 「ええい、何進め。殺られる前に、殺ってやる!」
 
 董卓が洛陽に来る前に、宦官達は大いに奮起。
 何進は彼らの手にかかって暗殺されてしまうのである。


 ……で。

 宦官達は目論み通り、敵の総大将をぶっ殺して、ご満悦だったのだけど。

 「ええい、宦官共め♪ 何進殿の仇だ、殺ってやる!!」

 と、絶好の口実を手に入れた何進の部下であった袁紹の手によって、
 これまた気合いの入った反撃をくらい、めでたく皆殺しのジェノサイドとなったのでした。


 結果的には、
 何進と宦官達は惚れ惚れするほどの
 共倒っぷりを見せてくれた、といえる。

 そんなこんなで、
 董卓が洛陽に到着したときには、
 何進も宦官達も既にこの世にはいなかったわけだ。

 さすがの董卓も、これには途方にくれたであろう。


 「う、嘘だろ。戦うべき敵も、守るべき味方も、既にいないとは!?」

 まったくもって笑うに笑えない話である。

 なんという、腐った連中ばかりなのやら。
 皇帝が死んで間もないというのに、
 朝廷の最高権力者達が、互いに争って殺し合いを繰り広げ、
 挙げ句の果てに共倒れ。

 まったくもって見ちゃいられない。
 そもそも、権力ってものは
 それなりに責任がともなうものでねーの?
 まがりなりにも為政者なら、他にすることがあるだろーに。

 このように思う人も、少なくない事だろう。


 『あんな連中よりは、
  自分の方がよっぽどマシな政治ができるに違いない』

 そう思う人も多いのではないだろーか。



 ……で、董卓もそう思っちゃったんだな、これが。(笑)


 「いっちょ、俺がやってやる。
  あの腐った連中よりは、俺様の方がよっぽどマシな政治が出来るに違いねぇからな」


 ここで、董卓は決意する。

 自分が、この腐った国を救ってやるのだ!! ……と。


 幸い、洛陽に来た矢先に、宦官ジェノサイドの流血沙汰から逃げ出した
 皇帝である劉弁(少帝)と、その弟である劉協を保護している。

 彼らを抱えて、董卓は意気揚揚と入朝したのであった。

 しかし。

 どっから、どー見ても、少帝よりも弟の劉協が優れていたのには、
 董卓も 悩んでしまったに違いない。
 明らかに弟よりも、賢くなさそうな兄を皇帝にしておいていいのだろうか、と。


 だいたい、この時点における少帝はまだ幼く、
 事実上、母親の何太后の操り人形。

 何太后ってのは、後継者争いで邪魔な劉協の祖母を暗殺したり、
 実の兄である何進の暗殺に関わっているような、とんでもなく危ない女。
 こんな女に好き勝手をさせては、ろくなコトがない。


 「よっしゃ。いっちょ、皇帝を交換してやれ」

 国のトップである皇帝たるもの、より優れた方がなるべきだ。
 ついでに、謀略好きな危ない女も殺してしまおう。何事も思いきりが肝心ってもんよ。

 そんなこんなで、189年の九月、董卓は少帝を廃して、弟の劉協を皇帝にする。

 後の献帝である。


 ( 確かに、皇帝のすげ替えは乱暴な手段であったかもしれん。
   しかし腐敗しきっている後漢の王室には、
   このくらいの荒療治も仕方がねぇってもんさぁ)


 おそらくは、董卓にも
 さすがに強引なやり方だという自覚はあったに違いない。
 

 しかし、大切なのは経過ではなく結果。
 波瀾の後は、善政に繋げればいい。
 そうすれば、みんなも、わかってくれるに違いない。

 ……このように、考えていたのではなかったか。


 んで。

 こっから先は、あまり知られていないのだが。
 意外なことに、董卓も けっこう善政じみたことに挑戦しているのである。


 「まずは、えーと。
  有能で真面目なヤツらにこそ、力を発揮できる場を与えないとな。
  無実の罪で、宦官共に投獄されていたヤツらを登用してあげよう」

 てなわけで。かつて『党コの禁』と呼ばれる知識人の弾圧によって
 冷や飯を食らっていた多くの士大夫を積極的に登用。


 「そーゆー政治な分野では、とにかく能力主義を徹底しないとな。
  俺と仲のいいヤツらには、低い官職で我慢してもらおう。
  公私混同はしないのだ!」


 てな感じで、董卓自身が親愛する者には、決して高い官職にはつけようとしなかった。


 ……そう。董卓も、最初は真面目でクリーンな政治を目指していたのだ。


 ところが。ところが、である。
 董卓の期待は、ものの見事に裏切られてしまったのだった。

 知識人達は、全員 董卓に総スカンで、まったく相手にしようとしなかったのだ

 
 まともに董卓と付き合ってくれたのは、董卓が是非にと頼みこんで
 司空という最高職のひとつを引き受けてくれた荀爽(荀ケの叔父)とか、大学者の蔡くらい。

 その他の知識人は、ほとんど 董卓には非協力的。
 いや、それどころか敵対行動までするのだから、洒落にならない。

 大勢でチームを組んで、
 董卓と対立して中央政府から出ていった袁紹を
 渤海の太守に任命するように強要したりする始末



 さすがに、これには董卓も腹を立てたに違いない。

 「な、なぜだ!? 
  なぜ、どいつもこいつも、俺の言うことを聞いてくれないのだ!?」


 董卓の言い分は、以下。


 い、いったいオマエラ、どーゆーつもりだ?

 冷や飯を食ってるところを同情して、取り立ててというのに。
 存分に力を振るえる活躍の場を与えてやったというのに……。

 彼らの言い分は、以下。

 
 「まぁ、なんていうんですかねぇ……。
  董卓殿は、しょせん辺境の出の軍人くずれ」

 「政治とは、理念。
  すなわち、国の上に立つ者は、
  儒教の教えと礼節を身につけた方でないと務まりませぬ」

 「そうそう。だいたい、董卓殿は生まれからして、
  どこの馬の骨かわからない方ですし」

 「やっぱりね、
  袁紹殿のような名門の方にこそ、お仕えしたいというものですよ」


 「そもそも、董卓殿のように醜く太った方など、内面も醜いにきまっております!!」


 ……ちょっと、待て。おまえら……。

 つまり、何か? おまえらが、俺の言う事を聞いてくれないのは、
 俺が田舎者で無教養で武骨な男だから、なのか?

 じゃぁ、何か? 今から、儒教の教えとやらを必死に勉強すればいいのか?

 醜く太った自分は、必死にやせる必要があるのか?


 しかし、名門の生まれでない、ってのはどーしようもねぇじゃんかよ。
 一度 死んでから転生し直さないことには、解決できない問題じゃねぇのか、それって……。


 「つまり……。あくまで、俺様には従えない。そう、言ってやがるんだな……」


 そう。董卓が董卓である以上、董卓は死ぬまで 彼ら知識人には相手にしてもらえない。

 辺境でバリバリに兵士を鍛えて
 成り上がった董卓など、知識人にとっては軽蔑の対象でしかない、のだから。

 董卓が頼れるのは、自らの武力のみ。
 しかし、その武力が評価にされないときた。
 ……これは、かなり痛い。


 例えば劉備なら、身分詐称っぽくっても漢王室との血縁をアピールできる。

 孫堅も、これまた怪しげではあるが、孫子の末裔を売り文句にできる。

 曹操も、一応 オヤジは大尉という高官まで成り上がった男だし。
 漢の高祖に仕えた夏候氏の末裔でもある。
 宦官の孫、と馬鹿にされつつも、それなりのバックボーンはあるのだ。

 袁紹にいたっては、押しも押されぬ名門の出。


 現代の感覚で考えれば、本人の実力こそが大事であって、
 あまり家柄とか血筋とか教養とか外見とかは、重視すべきでないものに思えてくるのだが。

 三国時代の知識人が重視したのは、『家柄・血筋・教養・外見』。

 董卓のように、自分の腕一本で成り上がった男にとっては、
 やりにくくて仕方のない時代だったのだ。



 「……ふ……ふふ…、…ふはははははは……」


 プツリ。

 董卓の中の、何かが壊れた。

 (……上等だ……。上等だぜ、おまえら……)


 やってられるか、ってんだ。もと辺境の不良、をナメてんじゃねぇぞ、コラ?

 田舎モンだと思って、馬鹿にしやがって……。


 腐りきった漢王室、ってヤツを少しは風通しのいい場所にしてやろうと思ったけどよ。

 どうせなら、良い国をつくって、そこで王様を気取ってみたかったけどさぁ。


 俺様の好意に、皆が皆 サボタージュと抵抗で応えてくれるんだから。
 ……嬉しくて涙が出るぜ。


 いいだろう、ならば。


 こ っ ち に も 、
 そ れ 相 応 の 返 答 っ て も の が 、 あ る ん だ ぜ ?



 「こんな国、もう、いらん。……ぶっ壊してやるッ!!」


 ついに。ようやく。

 董卓、牙を剥く。『悪王』モード全開で、ブチ切れたのである。



 「まずは、略奪だ! 武器と財宝、めぼしいものは全部 俺のモノにしてやる!」

 「人民を統制するにあたっては、厳しい刑罰あるのみ!」

 「俺を馬鹿にしたヤツは、かならずお返ししてやる! 王侯貴族、民衆とわず、
  もはや安心できる生活は与えてやらねェからなぁ! ふははははははッ!」



 以上を、まずは基本として実行する。

 もはや、董卓の目に映るのは、殺すべき相手か、奪うべき相手か、どちらかでしかない。


 (むろん、俺様よりも嬉しそうに人生を楽しんでるヤツらなど、極刑に値するわッ! )


 祭りに集まって踊りを楽しんでいる男女の集団を見つけたときには、
 軍隊を率いて突撃し、思う存分 これを蹂躙する始末。


 男共は、これを全員 虐殺。その首を、牛車にぶら下げて、反乱分子と喧伝。
 女共は、かっさらって下女や妾にして、兵士にプレゼント。


 ( ああ、スカッとしたぜッ! しかし、もっと面白いコト ないかなぁ♪)

 ……そうだ。
 身分の高い、やんごとなき女性の方々を、好き放題にしてやるのはどうだろう?

 うむ、そんな素敵な男のロマンは、即 実行しなくてはッ! ……てなわけで、

 宮女や公主という、本来なら触れる事すらできない尊い身分の女性にまで暴行三昧


 ……まだだ。
 まだ、まだ 全然 足らない。……もっともっと、欲望をかなえなくてはッ♪


 「そうだ、どうせなら位人臣を極めてやろう。栄達こそ、男の価値じゃいッ!」

 というわけで、ただでさえ『相国』という立派な肩書きをもらっていたのに、速攻で返上。

 替わりに『太師』という古代の官位を復活させ、
 事実上の最高位である三公よりも上の立場として、それを位置付けることにした。
 むろん、その役職は董卓のために用意したもの。

 ついでに、『尚父』と号し、古代国家 周における最大の功臣、太公望 呂尚に自分をなぞらえる。


 「しかし、まだ……何かが。
  何かが、足りない。もっと楽しいことがあるはずだッ!」



 ……そうだ、残酷趣味なんてどうだろう? うん、いいかもしれないな♪

 残酷な刑罰を考えるというのも、退廃的な芸術のひとつだ。
 これこそが貴族の趣味と言えよう。

 てなわけで、さっそく実行。宴席の出し物に公開処刑を導入して、おおいにウケを狙う。

 敵対勢力の兵士 数百人の、舌や手足を切断したり、目玉をえぐったり。

 あるいは、大鍋でグツグツ煮殺したり。たまに死にきれないヤツもいるけど、それもご愛嬌。

 死に損なった人間が苦しんでテーブルの間を転げまわっている姿を見ながらでも、
 平然と飲み食いできてしまう自分をアピール



 ……以上。

 三國志を扱った小説や漫画で描かれているような暴虐が、
 実は全て史書に記されているんだから凄い。



 
 しかし。さすがに、ここまでやらかすと、黙っていないヤツらも出てくる。

 ついに。

 初平元年(190年)、袁紹が盟主となって『反董卓連合』が結成。


 「おのれぃ、董卓の外道めがぁああッ! ヤツだけは、絶対に倒すッ!!」

 ……と、けっこう熱いハートの持ち主が集まってきたのだ。……しかし。


 (そして、董卓を倒した後は、俺が天下を取ってやるのだ♪)

 と、考えているオ調子者も多い、困った連合軍でも、あったのである。
 なんせ、董卓のように力だけで、のし上がれてしまう先例ができてしまっている以上。

 群雄達の心にも、イケナイ誘惑が芽生えていても、不思議じゃない。


 ……で。ここは、さすがに『悪王』董卓。

 
 「ふはははははッ! 面白いじゃねぇか? 
  やっぱ、ちゃちな遊びよりも戦争の方が、よっぽどスリルがあるってもんよ」

 「しかぁし!! 最強の涼州兵と、最強の武将 呂布を抱える俺様に
  挑む勇気のあるヤツが、果たして何人 いるのかねぇ?」


 ……と、いきなり自分から兵を率いようとはせず、まずは高みの見物。

 しかし、余裕をかましつつ油断はしなかった。
 連合軍が総攻撃に出てくる前に、戦争のための準備をきっちり整え始めたのである。

 
 ……とは、言え。その準備ってのが、かなり洒落になっていないのが董卓という男の怖さ。


 まず、一つには。献帝を連れて、首都 洛陽から長安への遷都を実行
 

 洛陽は確かに巨大で華やかな都だが、しかし戦争には不向き。
 守るには、隙が大きすぎる都市なのだ。その洛陽を捨てて、董卓が選んだのは長安。

 そこには、およそ30年分の兵糧を蓄えてある。
 どーせ敵と戦わねばならないなら、洛陽で戦うよりは長安で戦う方がずっといい。

 それに。帝さえ押さえておけば。どこに行こうが、董卓のいるところこそが国の中心なのだ。

 ここんところの思いきりの良さは、なかなか凄い。


 しかし、もっと凄いのは引越しの方法。

 遷都には、当然 金がかかる。

 その金を調達する為に董卓が選んだ方法は、なんと『 墓荒らし』。

 歴代皇帝の陵墓を破壊し、そこに納められている埋葬品をことごとく奪ったのである。


 「わはははははッ! 
  財宝など、生きている人間こそが有意義に使うべきなのだッ!」


 
 むろん、董卓の勢いはこれだけでは止まらない。


 「どーせ、洛陽を捨てるなら……。焼いてしまおう。
  後から来る連合軍には、石ころひとつ くれてやるつもりはねぇからなぁああッ!」

 
 そんなわけで、見事に洛陽は炎上することになる。

 ただでさえ、メチャクチャをやらかしているのに、さらにトドメとばかりの破壊劇。
 もはや、この段階においては、完全に破壊そのものを目的にしていたとしか思えない。
 
 ついでに、まだ生かしておいた前皇帝 劉弁(少帝・弘農王)をぶっ殺してしまったのも、この時期。


 そんなこんなで。連合軍の目の前で、徹底的な挑発行為とデモンストレーションをかましつつ。

 「さぁて♪ 準備は万端だぜぇ……ッ! かかってこいやぁ……ッ。
  まぁ、そんな骨のあるヤツは、何人もいねぇだろうがなぁ……ッ!?」

 と、舌なめずりをして、構える董卓。

 案の定、反董卓連合の群雄の殆どが、兵の損失を恐れて挑んではこなかった。
 野心が保身に結びついてしまったというか……。誰も動こうとはしない。


 そんな状況の中で。例外的な存在が、曹操と孫堅だった。

 曹操の場合は、もともと他の群雄と比べて兵士も物資も少なかったので、
 派手なスタンドプレイで自分をアピールするしかなかったし。

 孫堅の場合は、根っからの喧嘩マニア。ほとんど趣味で牙を剥いているようなものだ。


 「……ち。大層な連合を組んでおいて、出てきたのは小物が二人か!?
  俺様が出る間でもねぇなぁッ!」



 董卓は、ここで部下の徐栄と華雄を派遣

 徐栄は曹操をコテンパンに撃破する。
 もともと曹操の数少ない寄せ集めの兵では、董卓の精鋭に勝てるわけがなかったのかもしれない。

 しかし、華雄は孫堅に斬られてしまう。
 孫堅が率いるのは、何年にもわたって各地の反乱を叩き潰してきた自前の軍隊。
 董卓ご自慢の涼州軍団とも、充分 渡り合える戦闘集団だ。


 「……けっ、やるじゃねぇか……ッ! 孫堅めぇ……」

 この時、董卓の心には、かつて涼州で異民族討伐をしていた時代に、
 孫堅と構えた因縁がよぎっていたのかもしれない。

 しかし。やはり、董卓はただの不良ではない。
 趣味で喧嘩をするような、孫堅と違って計算高いのである。

 「勝てる喧嘩しか、しねぇぜ? 俺様はよぅ……ッ!」

 孫堅とやりあうなら、勝てる場所で行えばいい。

 そう考えた董卓は、あっさりと戦線を撤退し、洛陽から長安へと帰還。


 孫堅も追ってはきたが、しかし洛陽にきたとたん、またまた困った番長ぶりを発揮。

 「ううむ。洛陽が灰燼に帰してしまったとは聞いていたが。
  これほど、ひどいありさまとは!?」


 そう。
 『自称:正義の不良』である喧嘩番長 孫堅は、困った人達を見るとほっておけないのだ。
 董卓を追いかけるのを諦め、物資と兵士を、復興作業に使ってしまったのである。

 普段は戦争で散々、人殺しを楽しんでいるくせに、
 焼け出された人達を助けて、復興に協力するというのは
 偽善でしかないのではないかと言いたくもなるが。

 本人は真面目に善行を積んでいるつもりなのだから、突っ込むのは野暮というものかもしれない。


 ……まぁ、間違いなく董卓あたりは笑っていただろうけど。


 んで。

 曹操はコテンパンに敗れ、孫堅も追撃を中断。

 残る連合軍の諸侯も、互いに疑心暗鬼になり、本国に帰還。
 長い間、本拠地を空けておくことに不安を感じたのであろう。


 そんなこんなで、結局のところ、最大のピンチを乗りきってしまった董卓ではあったが。


 さすがに、運命の女神様も、
 彼の徹底した『悪王』ぶりには、
 笑えない気分になってしまっていたのかもしれない。

 反董卓連合の解散から、数ヶ月後。

 王允の謀略に乗せられた呂布の手により、董卓は殺されてしまうのである。


 まぁ、呂布が董卓の命を狙ったのも、
 ある意味では董卓の董卓らしい性格が災いしたとも言える。


 董卓が以前 機嫌を損ねたときに、
 呂布を短戟で殴りつけようとしたことがあったこと。

 また呂布自身 董卓のお気に入りの侍女と不義密通していたので、
 いつ董卓に それがばれるか不安で仕方なかったこと。



 呂布に言わせれば、
 裏切りというよりも自己防衛だと主張したいところであっただろう。


 なにはともあれ。
 本当に董卓という人物は、徹底した暴虐の男であったとしか言い様がない。


 あの呂布ですら恐れた男、董卓。

 そして、後漢王朝を完全に乗っ取り、かつそれを破壊しつくした男、董卓。


 彼に対しては、人それぞれ 多くの意見はあるだろうけど。しかし、

 あれだけ、好き放題 やらかしたなら、
 満足して死ねたんじゃないかなぁ……。


 と、ある種の憧憬・羨望を感じてしまうのは、多分 管理人だけではないハズだ。(笑)

                                      (特に、男性諸君には多いハズ……)





 【 総括 】


 三國志における、董卓の担った役割は大きい。

 後漢王室を事実上 乗っ取った董卓によって、
 後に三國志と呼ばれる群雄割拠の騒乱の時代の幕が開いたからだ。

 董卓が洛陽に入るまでは、腐敗と衰退の色が濃かったとはいえ、
 まがりなりにも漢王室の権威は人々の心を支配していた。

 しかし、董卓の徹底的な権勢欲と暴虐によって成された『皇帝の廃立』によって、
 漢王室の権威は完全に失墜してしまう。

 涼州という辺境の一軍人に過ぎなかった董卓すらも、
 天下人になれるという事例が、多くの群雄達の胸に野心を芽生えさせたのであろう。

 『董卓 対 反董卓連合 』という戦いの図式は、
 董卓の専横に対する諸侯達の義憤による戦いというよりは、
 多分に『董卓と、第二の董卓を夢見る群雄達の戦い』であった。

 極端な話、董卓の死後、
 天下をかけて争った曹操・劉備・孫権、袁紹・袁術・公孫瓚などの男達ですら、
 「董卓の屍から生まれた、祝福されぬ息子達」
 と呼ぶべき存在でしかなかったのかもしれない。