孫堅を討ち取り、甘寧を冷遇したおかげで
呉のファンからは嫌われまくってる黄祖。
しかし、史実においては
なかなか見事なオヤジだったのではないかと思う。
個人的に孫呉陣営はかなり好きなのだけど、
この黄祖に対しても 『敵ながらアッパレ』と思っちゃうんだよね。
そんなこんなで、ここでは孫呉陣営から目の仇とされた
黄祖というオヤジについて紹介しましょう。
まず、この黄祖。一般的には、劉表と争っていた孫堅を討ち取った武将、
すなわち『劉表の配下』という印象が強い。
しかし、調べてみたところ、どっちかってぇと 史実では
『劉表の協力者』とか『劉表の盟友』といった表現をした方が、正解に近いみたいだ。
その根拠は、以下。
黄祖とは、もともと江夏で勢力を誇っていた豪族。
劉表が荊州に赴任してきたのが、西暦190年。
西暦190年といえば
北の中原では、董卓と反董卓連合の諸侯が、バチバチとにらみ合っていた時期である。
んで、黄祖が劉表に敵対していた、孫堅を倒したのが、その2年後の西暦192年。
こうやって彼らの立場と、時間的な流れを整理してみると。
劉表が荊州に赴任して間もなく黄祖を屈服させ
孫堅に当たらせたと考えるのは、やや無理がある。
黄祖のスタンスは、劉表の依頼を受けて
孫呉との戦いの矢面に立ち、江夏の地を守っていたと考えた方が、しっくりくるのだ。
では、この江夏とはどんな場所だったのだろう?
結論から言えば、
荊州と揚州の国境に位置する、軍事的な最重要拠点、ってな地域だ。
どれだけ この江夏が重要な拠点だったか、に関してはその後の歴史が物語っている。
黄祖の死後、赤壁の戦いにあたっては、当時の呉の筆頭武将 程普が守備を任されているし。
その後は魏の文聘が乗り込んできて、数十年にわたり孫呉と激闘を繰り広げているくらい。
よーするに、江夏って場所は、
長江の下流域に属する揚州で勢力を誇っていた孫呉が、
長江の中流域の荊州を獲得するにあたって
絶対に押さえておかなければならない戦略的拠点
であったと、考えていいだろう。
では、なぜ呉はそれほど荊州を欲しがっていたのでしょーか?
これまた答えは明快。
呉という国は、結構 人口が少ない国だったのだ。
もーちょい、詳しく補足するなら
孫呉の本拠地 揚州が
広い国土の割にはあまり人が住んでいなかった土地だった、
というワケ。
今さら言うまでもないことだが
国家にとっては、『人口』 イコール 『生産力』 だ。
揚州に勢力を構える群雄にとって
人口が多い荊州はとっても魅力的な土地として目に映ったのも
必然的な話であったと言えるだろう。
……んで。
欲しいモノは、持っている人をブッ殺してでも
手に入れるのが乱世の習い。
江夏の地に住んでいた人達には同情するしかないのだけど
江夏とは、荊州をめぐる諸勢力によって、
いやがおうでも戦乱にさらされる運命にある土地、であったのだ。
コトの発端は、西暦192年。
当時、揚州にて勢力を誇っていた袁術・孫堅連合は、荊州を治めていた劉表に対して、
それはそれはあからさまな形で、喧嘩を吹っかけたそうな。
「おい、コラ、劉表ちゃん。荊州、よこせや」
袁術・孫堅の言い分は、以下。
「オイ、劉表ちゃん。最近、オメーのとこの荊州ってば、人口が増えてるらしいじゃんよ?」
「そんな美味しい土地、
オメーみたいなインテリボーヤにゃもったいねーぜ。俺達が、もらってやる!!」
……ファローする気すらおきません。
完璧な カツアゲ じゃないですか、コレ?
しかしながら。劉表ちゃんはインテリボーヤではあったが、根性ナシではなかった。
「ふざけないでくださいよぅ♪ この腐れヤンキー共がッ!」
……と、それはそれは喧嘩上等な内容で、返事を突き返したわけだ。
しかし、考えてみると、劉表の拒絶は当然の反応だったように思える。
いくら荊州が豊かな土地だからって、
雨の日の後のタケノコみたいに、人間が湧いて増えるわけではないのだから。
荊州の人口が急激に増えたのは、他の土地からの流入が原因。
劉表が、治安と経済の問題を必死に解決していったからこそ、なのである。
この場合に限って言えば、どーやら孫堅の方が悪役っぽい。
人が必死こいて育て上げた土地を、いきなり横からかっさおうなどと
恥知らずもいいとこだ。
『喧嘩番長』 とか 『正義の不良』 の名が泣くぞ、孫堅!!
しかし。どこぞの学級委員みたいな勉強好きのインテリボーヤ 劉表ちゃんに、
なめた口をきかれた孫堅は、見事にブチ切れて荊州に侵攻開始。
「なめんな、オラァ!! おとなしく袁術クンに荊州をプレゼントしろやぁッ♪」
ああ、しょせんコイツもヤンキーだ。道理が通じないったらありゃしない。(笑)
しかしですね、孫堅パパ。
……アナタの場合、組んだ相手が間違っていやしませんか?
いくら喧嘩相手が欲しいからって、
好んで敵を作りまくるような袁術クンを神輿(みこし)に担ぐなんて。
そう。
生まれついての疫病神、あの袁術と手を組んだことが孫堅にとっては大失敗だった。
孫堅自身の運やらツキも、見事に剥がれ落ちてしまうハメとなったのである。
まず、ケチのつき始めは劉表陣営に強力な味方が参上したことだ。
そう。江夏の有力豪族だった黄祖が、劉表に肩入れしたのである。
まぁ、有力豪族と言ったところで、この当時の情勢下においては
地方でブイブイいわせている地元ヤクザみたいなもんだが。
しかし黄祖の場合、古いタイプのヤクザというか、
なかなか道理を重んじるタイプだったらしい。
「……劉表クンといったかの。
安心しろ、ワシが、オヌシを助けてやるわぃ!」
丁寧に補足すると、以下な感じ。
「ワシもなんてーか、好き勝手やってる極道じゃけんどよぉ」
「あの孫堅やら袁術っちゅうヤツら。……あいつらは、極道どころの話じゃねぇ。外道だ!!」
「スジが通ってないんじゃよ、アイツらは! これだから、ヤンキーという人種は好かん!!」
とかなんとか闘志を燃やしつつ
ここにおいて、江夏の古強者 黄祖が出撃する。
「クソ餓鬼がッ! キレイに掃除した人の家に、土足で踏み込むようなマネをしくさってぇ!」
黄祖の言い分は、ごもっとも。
無法地帯だった荊州を、必死こいて豊かな土地に育て、それを守ろうとする劉表。
美味しいところだけをかっさらおうとする欲張りな袁術と、喧嘩マニアな孫堅。
どっからどーみても、この場合 正義は劉表、その味方である黄祖にあるのは事実。
し・か・し。
「ジジイ!! 言っておくが、俺様は強ぇーぜ?」
……正義があろーとなかろーと、
孫堅が無敵の喧嘩番長であることも、事実だったりするんだ、これが……。
あっさりと黄祖の軍をボコボコに叩きのめし、
山中に逃げ込んだ黄祖を追いかけまわす狂いっぷり。
「うっきょぉおおお!! 山狩だぁああ!! ハンティングだぁあああッ!!!」
大喜びで山中に突撃をかます孫堅。
この人、
『こー見えてもオレ、かの有名な兵法家 孫子の末裔だったりするんスよ』
とかなんとか、常々 口にしていたらしいけど……。
あれ、絶対に嘘をついていたんだと思う。
んで。孫堅の運も、どーやら このあたりで尽きていたらしい。
飛来した流れ矢が、見事にクリティカルヒット!!
あーあ、袁術なんかと組んだばかりに。
……そんなこんなで。
あの董卓すら恐れさせた無敵の喧嘩番長 孫堅は、あまりにあっけない最期を遂げたのでした。
しかし。
「おっのれぇえ!! 黄祖の外道がぁああ!! ヤツだけは、ゼッテーにコロスッ!!!」
黄祖にとっては、一難去ってまた一難。
そう。
かの有名な戦争狂いの馬鹿アニキ 孫策が、黄祖を第一ターゲットに確定したのである。
正直、どっちが悪いんだよ、とツッコミを入れたくて仕方ないのだが……。
しかし、孫策にとっては黄祖は親の仇。
まぁ、彼の気持ちも、わからないではない。
んで。
ここから、実に十六年に及ぶ黄祖と孫呉陣営との抗争がスタートしたのだ。
とは言え。
孫策の時代は、黄祖にとっては比較的 守りやすい時期だったかもしれない。
と、いうのも。
孫堅の死後、事実上 孫呉陣営はいったん解散となり、
孫策は勢力を回復させるために地元の揚州を主戦場に暴れ回っていたからだ。
実際、孫策も黄祖征伐の軍を起こしたりはしているのだが、いかんせん 地元
揚州で事件が起きたりすると、そっちの方を優先して、軍を引かざるをえなかったようである。
黄祖の方から水軍を派遣するも、返り討ちにあってしまい
三万もの兵士を皆殺しにされるという、シャレにならない激闘も展開されているのだが、
両軍ともに 互いの本拠地まで攻め込まれるような状況には至っていない。
戦争の天才である孫策と
総力戦にならずにすんだのは、黄祖にとって運が良かったと言えよう。
…んで、幸運は重なり。
西暦200年、孫策もまた、暗殺によって父親同様あっけない死を遂げる。
黄祖としては、心底 ホッとしたに違いない。
「ふははははッ♪ ようやく江夏にも平和が訪れそうじゃのう♪
孫呉のヤンキー共に対しては、ワシが手をくだすまでもないわッ。
勝手に自滅してしまうがいいッ!!」
普通に考えれば
圧倒的なカリスマ性を誇る君主 孫策の死によって、
孫呉政権は求心力を失い、滅亡していたハズ。
黄祖としても、これ以上は無理に
自軍の兵士を戦争に駆り立てたくはなかったのだろう。
なんせ、相手は今にも内部分解を起こして、崩壊しそうな状態なのだ。
もはや、孫呉政権など恐るるに足らず。
自分も老後は平和に過ごせるだろうと、疑っていなかったに違いない。
し か し。
ここで、孫策とは別の意味で危険な男が呉に出現し、
再び 江夏を戦争の時代へと導いたのである。
その男の名は。
『人間劇薬』 魯粛。
孫呉以外の人物にとっては、コイツは本当に厄介な人物だ。
己の野心のためだけに危険な戦略を練るこの男が動くとき、
間違いなく孫呉に敵対している勢力は大きな災害をこうむることになるからだ。
西暦200年。
張昭・呉夫人などの必死の働きによって、
かろうじて崩壊を免れていた孫呉政権において
この新参者の腐れ外道は、口八丁で新たな君主 孫権に取り入ることに成功。
「うふふ。孫権サマ……。アンタは、皇帝にもなれる男だ!!」
「目指すは天下! そのために、まず江夏の黄祖をブチ殺し、かの地を押さえましょう!」
そう。
この当時、誰よりも明確に黄祖を討つ戦略を主張したのが、魯粛だったのだ。
では、なぜ魯粛は、黄祖の討伐を主張したのか。
ひとつには、孫呉陣営内の意志の統一化。
孫策の死の直後の孫呉政権に対し、具体的な戦略指針を提示することで、
混乱する陣営の意志を統一することを図ったのだと思われる。
たしかに、先々代 孫堅の仇である黄祖を討つという公約は、
孫堅以来から仕えてきた武将達の支持を集めるにはもってこいだ。
ふたつには、孫呉領内の経済・人口問題の解決。
当時の孫権陣営から見れば、この江夏は長江の上流。
江南の民にとっては、長江は北からの侵略を防ぐ天然の堀であると同時に、
交通・経済における巨大なライフライン。
長江流域を広く押さえることによる経済効果は計り知れないのである。
ついでに言えば、江夏を押さえれば荊州からの人口の流入も見込むことができる。
慢性的な人口不足に悩む揚州の豪族達にとっては、非常に魅力的な話なのだ。
このあたりのセンで説得すれば、豪族達に対しても 新政権への協力をアピールしやすい。
『情』と『理』、『野望』と『現実』、双方を踏まえた上での、黄祖討伐の提案。
まさに、稀代の戦略家 魯粛のデビューにふさわしい献策だったと言えよう。
……で。
ここにおいて、黄祖はそれまでに経験したことのない苦しい戦いに臨むこととなる。
孫権、周瑜、程普、韓当、
呂蒙、凌統、董襲、周泰、虞翻、胡綜。
呉の名だたる武将達が、怒濤の波状攻撃をもって、
黄祖の領土に攻撃を開始したのだからたまらない。
後世、彼ら 呉の武将達の列伝には
この黄祖との戦いにおける活躍が、実に多く記述されることになるのだが。
言い換えてみれば、若き猛虎達による、老いた獅子への袋だたきである。
三国時代を代表するようなトップクラスの武将達に、
よってたかって攻撃される黄祖。
しかも、その戦いの理由が 侵略戦争以外の何モノでもないときた。
……同情するしか、ねーよ。マジで。
しかし、この黄祖。
ただ、やられるだけのショボいジジイではなかった。
「ううおおおおおおお! ヤンキー共がぁあああああ!!
返り討ちにしてくれるッ! いっそ、この機会に絶滅させてやるわッ!!」
……そう。
そうなのだ。
世の中には、叩かれれば叩かれるだけ、
燃え上がる不屈の男という生き物が、確かに存在するんだよな……。
用兵家として、黄祖も絶妙の冴えを見せて応戦。
当時 孫権達の本拠地は長江中流域にあった扶桑。
ここの守備が薄くなったことを察知した黄祖は、
なんと扶桑の守備兵の5倍以上の兵士をかき集め、一気に攻撃させたのである。
電撃作戦の筋書きとしても見事の一言。
将軍としての黄祖の資質は水準よりも遙かに上だったようだ。
……もっとも、残念ながら(?)
孫権の配下 徐盛の獅子奮迅の働きにより、この作戦は成功しなかったのだけど。
このとき、扶桑攻撃の指揮を取っていた息子の黄射が
すっかり面目を失ってしまったことも、黄祖にとっては面白くない話だったようだ。
「 生意気なぁ! ええい、ヤンキー共めぇ! その存在自体が我慢ならんわぃ!!」
新興ヤンキー VS 地元ヤクザ の果てしなき抗争。
たびたび襲撃を仕掛けてくる若造達のせいで、
ますますヤンキーを目の仇にするようになってしまった黄祖。
こんなヤンキー嫌いの黄祖に仕える男に、ヤンキーがいたら、
それこそ悲劇とゆーより喜劇なのだが……。
…あ。
……あれ?
…………い、いたよ!?
三国時代のヤンキー達の中でも代表格と言えるヤンキー、
先天的快楽殺人者 生涯不良中年 甘寧 が!
そう。この甘寧。
長江流域で海賊をかまし、20年も不良生活を送っていた筋金入りのヤンキーだったのだが。
何を血迷ったか、「いつまでもこんな不良でいてもしゃーねぇしな」と一念奮起。
四十を過ぎてようやく更正し、学問を身に修め、黄祖のもとで就職していたのである。
んで、たびたびピンチに陥る黄祖の命を救ったり。
凌統の親父 凌操を射殺したりと。
なかなかの功績をあげているんだけど、
当然 すっかりヤンキー嫌いになってしまっていた黄祖には、可愛がられなかった。
……むしろ、思いっきり冷遇され、ろくに恩賞も与えられない始末。
「 はぁん? 信賞必罰も何も知ったことかぁ! ヤンキーは冷や飯でも食らってろ!!」
すっかりと頑固オヤジぶりに磨きがかかってしまっている黄祖。
「ワシは生意気なヤツは、大ッ嫌いなのぢゃ!!」
生意気な部下に悩まされる世のオヤジ共から
拍手喝采されそうな言葉を、しっかりと有言実行する黄祖。
そう。この黄祖という人は、
それはそれは『頑固オヤジの見本』と言える人でも、あったのである。
曹操・劉表のもとから流れてきた禰衡という、
やたらと口がまわるエセインテリの毒舌野郎にいたっては、
息子 黄射の友人であったにもかかわらず、あっさりと絞殺してしまったくらい。
黄祖の辞書に、博愛という言葉はなかったのだろう。(これはこれで、ステキなのだが)
結局、甘寧は悔し涙に頬を濡らし、203年に黄祖の元を立ち去ることになる。
「うはははははは! ザマーミロ、腐れヤンキー!! むしろ、せいせいしたわぃ!!」
甘寧失踪の知らせにも、どこ吹く風の黄祖。
しかし、結局 これが彼にとって命取りとなった。
黄祖のもとを去った甘寧は あろうことか、黄祖の敵 孫呉に仕えてしまったのである。
……いや。むしろ、当然のコトだったかもしれない。
甘寧からすれば、黄祖に恨みもあっただろうし。
なによりも、孫呉は折り紙付きのヤンキー国家。
先天的不良の甘寧にとっては、まさにそこはパラダイス。楽園のエデン。
喧嘩の天才、甘寧 の参入により、孫呉陣営は一気に活気づいてしまうのだ。
結局、長きにわたって孫呉との戦いに明け暮れた黄祖ではあったが
208年 赤壁の戦いの直前に
ついに孫権軍の鋭鋒の前に力つき、首を討ち取られることとなる。
このとき 全軍の指揮をとっていたのが、あの周瑜であり。
最終決戦で指揮官としてトドメを指したのが、因縁の深い甘寧であったことを考えても。
黄祖とは、最後の最後までドラマチックな仇役を演じてくれた、
なかなかに渋いオヤジであったと言えると思う。
実際の話。
黄祖という人物は、孫呉にとって非常に大きな存在感を持つ敵だったのは間違いない。
彼を捕縛した馮則っていう雑兵の名前まで残っているくらいだ。
これって異例中の異例なんだよね。
ただ。
これほどの敵であったにもかかわらず、黄祖の字(あざな)が残っていないのは、本当に不思議だ。
「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」
という諺があるけど、黄祖に関しては、本当に名前だけが残って、字は残っていないわけ。
でも、これはこれで格好いいんじゃないか、と思える。
『 江南の若き虎達の前に、立ちふさがった老いた獅子 』 黄祖。
勝利を収めることも叶わず、荊州の地を守ることもできなかった彼ではあるが。
しかし、彼との戦いを経て、孫呉の虎達は牙と爪を磨くことができた、とも言えるわけで。
そして、彼の死後、呉の歴史には、ただ『黄祖』という名前だけが刻まれて、今にいたるのだ。
そのあたりに思いを馳せてみると。
……華やかではないけど、確かな意地をもった男の息吹を、感じられて仕方ないんだよなぁ……。
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