演義では大活躍の趙雲であるが、史実ではあまり評価されていた武将ではなかった。
……はっきり言ってしまえば、地味な武将であったと思われる。
実は趙雲自身が大人数の兵を率いて、敵の有名武将を倒したり領土を切り取ったことはほとんどないらしい。
目立った戦功も「味方の敗走を救う」といった危機回避的なものが多いあたり、どうやら大将というよりは副将として力を発揮するタイプだったようだ。
実際、劉備が入蜀した後、トップ武将を任命した「前後左右将軍」の選考からもはずされている。
演義の作者、羅間中は超雲と同郷だったため、とかく彼を贔屓した描写が目立つ。
有名な「五虎将軍」も、「前後左右将軍」に超雲を加えた創作である。
結局、劉備の生前に超雲が華々しい手柄を立てたのは
*「長坂橋で劉禅を救出」
*「孫夫人が呉に逃げ戻る際に、人質に連れ去ろうとした劉禅を奪還」
……といった具合に、子供がらみが多いあたりが、なんとなく寂しい。
……とは言え。超雲自身が無能な人物であったかというと、これも違う。関羽が殺された際、劉備が無謀な遠征を呉にしかけようとしたときに、それを止めようとしたのは超雲である。
諸葛亮が、荊州に対する未練から劉備を止めることが出来なかったことと比べても、
超雲は非常に冷静な戦略眼と勇気をもった人物であったと言える。
劉備の死後、ようやく諸葛亮に大きく重用されるようになったのであるが、間もなく死去している。
なお、若武者というイメージが強い趙雲であるが、実年齢は劉備とほぼ同世代。(年上説すらある)
けっこうな年齢のオッサンであったのは事実であるが、呂布同様、史書で容姿について誉められている数少ない人物でもある。
なんだかんだ言って、花も実もある素敵な武将だったらしいことは、認めざるをえなかったりする。 |