実は正史においては、
張飛が酒乱であったという記述は残されてはいません。
……てコトは、つまり。
夷陵の戦いの前に
張飛が部下に恨みを買って殺されたのは、
張飛が普段からしらふの状態で部下に暴力を振るっていたことが原因
ということになります。
実際、劉備に常日頃から
「張飛、おまえは部下に暴力を振るいすぎる。
それに、痛めつけた部下を側近に置いているのもよくない。
恨みを買った人物を身近に置くのは無用心だぞ」
……と注意をされていたりするのですから。
結局 張飛は劉備の忠告を聞かずに部下に殺されてしまうのですが、
やはり張飛の死に関しては張飛自身の責任によるところが大きいようです。
また、官渡大戦の前後に、
魏の夏侯淵の娘を誘拐して自分の嫁サンにしてしまったのも笑えません。
当時13歳だった少女と張飛の年齢差は親子以上だし、
少女が夏候家の領地内で薪拾いをしているところをさらったというのだからヒドイ話。
……ていうか、これ、立派な少女誘拐事件じゃないでしょうか?
その気の毒な13歳の少女と張飛の間に生まれた二人の娘は、
後に劉禅の皇妃となるのですけれど……。
これもまた、あまり救われない話かもしれません。
相手が劉禅ってのはイヤだもの、絶対。
また、意外に思われる話ですが、史実における張飛とは
けっこうインテリな連中に弱いタイプだったようです。
益州時代、張飛が名士の劉巴に無視されて腹を立てつつも、
手を出せなかったという逸話も残っているくらい。
この劉巴って人は諸葛亮・法正らといっしょに
『蜀科』という法律を作った能吏なのですが、けっこうプライドが高い人だったようです。
張飛につれない態度を取った事を、劉備にたしなめられても
「武官ごときと席を一緒にしちゃ、私の名誉がすたります」と言ってのけたとか。
もっとも、この時代、実は文官の方が武官よりも上等であるという価値観があったので、
劉巴が張飛にとった態度は仕方がなかったのかもしれませんが……。
しかし、張飛ともあろうものが「武人コンプレックス」が理由で、
なんの反撃もできなかったのは情けない気がします。
ぶっちゃけ、権威に負けたと言うか。(苦笑)
関羽の「兵卒は大切にしたが、士大夫には傲慢であった」という歴史家の評価に対し、
張飛は逆に「士大夫は尊敬したが、兵卒には乱暴を働いた」と評価されています。
結果的には二人ともそれぞれの欠点によって死を早めることになるのですが、
どうにも張飛の場合は見劣りがすると思うのは自分だけでしょーか?
劉備が漢中王となったときに
張飛をさしおいて魏延を漢中郡太守に抜擢したことも無視できないエピソードです。
三十年近く苦労と共にした張飛にではなく
新参者の魏延を要地の司令長官に任命したのは、張飛自身に色々と問題があり、
「張飛には任せられない」と劉備が判断したからに他なりません。
……思うに、張飛は人の上に立つにはあまり優れた人間ではなかったのでしょう。
とは言え。
そういった欠点を補ってあまりあるくらい、
張飛が武将として有能であったことは間違いありません。
長坂橋で曹軍数万を相手に仁王立ちしたのは史実に明記された逸話ですし、
蜀攻略の際には厳顔を降伏させていますし、
魏との漢中争奪戦では敵の名将 張郤をボコボコに粉砕してます。
一言で言ってしまえば乱暴者そのものかもしれませんが、
そんな彼だからこそ多くの人物が登場する三国志のなかで
一際 目立つ存在であることも確かなのでしょう。
張飛が後々まで民衆のヒーローとして愛されたのは、
ひたすら強いのに多くの欠点を持った人物として
人々の共感を買ったからかもしれませんね。
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