私評 『 魏延 』

悲しいまでに、誇り高く。

せつなく ひるがえるは、反逆の旗。
 

 はっきり言います。
 この人、諸葛亮の被害者です。なんも悪くありません。


 ……いやね、その。
 ここで個人的な好き嫌いについて書くのは恐縮ではあるのですけど……。

 実は自分、諸葛亮が大っ嫌いなんですよね〜。(←あーあ、言っちゃった)

 まぁ、好き嫌いは人それぞれですしね。
 諸葛亮が後世の人々に過大評価されよーが、愛されよーが
 「まぁ、好きにしてくれ」てな気分でもあるのですけど……。

 ただ、さぁ。

 「諸葛亮に嫌われていた」という理由だけで、
 魏延が悪く評価されちゃうのは我慢ならない


 うん。こればっかりは、どうにもね。
 無関心を装う気分にはなれないんだな。

 そんなワケで。
 ♪ならば、いっそのこと開き直りの居直りで♪

 このコーナーでは、魏延を擁護しつつ、諸葛亮とその取り巻き連中を
 こきおろしてみようかと思います。
 
 ( ええい、文句があるヤツは読まんでよろしッ )


 個人的に諸葛亮を好きになれない理由のひとつが、魏延に対する陰険な手口。
 もー、諸葛亮ときたら演義でも正史でも魏延を目の仇にしているんだから。


 とりあえず、演義における諸葛亮は、それはもう露骨に魏延を嫌っている。
 初対面で、諸葛亮は魏延を一目見ただけで

 「劉備殿、この魏延というヤツは反骨の相があります。
 将来、絶対 謀反を起こすでしょうから、今のウチに殺してしまいましょう」

 とか言っているくらいだ。
 
 オイオイ、諸葛亮。
 なんぼなんでも、上司を殺してまで劉備のもとに馳せ参じ、
 城を明け渡してくれた相手に、そりゃーないだろ。

 北伐での対司馬懿戦にいたっては、なんと敵兵を焼き殺す火計の中に置き去りにしてまで
 魏延を殺そうとするのだから恐ろしい。
 んで、しぶとく生き残って帰ってきた魏延に問い詰められると、

 「いやー、馬岱が勝手にやったことだからさぁ。
 馬岱のヤツを鞭打ちの刑にするから、許してちょーだい」

 とか、言いやがる。

 ちょっと待て、諸葛亮。
 あんたのやっていることは、360度 どっからどー見ても、卑怯者そのものじゃないかッ!?
 あんたみたいな外道は、見たことがないぞッ!!


 ……ま、上記は三国志演義という小説の中の話だけど。
 実際の正史でも大体 似たようなものだったりするんだ、これが。

 諸葛亮はとにかく魏延が嫌いだった。もーどーしよーもなく、魏延が嫌いだったのだ。

 ……で、魏延を嫌うあまり
 「魏延の軍事的才能」を充分に活かさなかったのだから救い様がない


 政治家として諸葛亮が優れていたことまでは否定しないけど、
 軍師としては、すっごく問題あると思う。


 では、そんな二人の関係を踏まえて、以下 魏延の人生を紹介していこう。


 魏延のデビューは、劉備が劉璋から蜀をブン取った入蜀における戦い。
 荊州からついてきた新参の武将であった魏延は、
 ここでいきなり手柄を立てまくり、そのまま牙門将へと昇進する。

 さらに、劉備が成都に本拠を構えた際には
 魏から蜀を守るための最大重要拠点である漢中郡の太守に任命されている。

 ……で。
 実のところ、これが凄い大抜擢だったりするんだな。

 劉備の立場になって考えてみると、わかりやすいかもしれない。

 30年以上、自分についてきてくれた張飛にではなく、配下になって間もない魏延に
 「事実上 関羽につぐNO.2武将」
 という重責を与えたわけだからね。

 ありていに言っちゃえば、地味な趙雲や乱暴者の張飛より、
 魏延の方が大将の器だと判断したってコト。

 もちろん、この異例の大抜擢にあたっては、劉備もそれなりに手順を踏んでいる。
 多くの重臣達を集め、その席であらためて魏延に覚悟のほどを語らせたのだ。

 「魏延将軍。今、私は君に重責を与えようとしている。
  ここで、将軍の考えを聞いておこうか?」

 そんな劉備の問いに対し、魏延は

 「曹操が天下の兵を、ありったけ率いて進軍してきたら、これは防ぐしかありません。
 しかし、曹操の副将が十万の兵を率いて進軍してくる程度なら、
 そいつらは皆殺しにしてやるつもりです」

 ……と、それはそれは頼もしい言葉で返したそうな。

 むろん、そんな魏延の返答を劉備が見事と評したのは言うまでもない。

 実際、魏延は劉備に漢中を任されてからは、魏からしっかり漢中を守り抜いたし、
 その土地の運営を滞らせたりはしなかったのだから、劉備の目は正しかったと言える。
 欠点だらけの劉備ではあるが、人材を見る目に関しては天下一品なのだ。


 しかし。そんな魏延に対して、諸葛亮は面白くなかった。

 「ちくしょう、魏延め。
  ちょっと蜀を取る時に手柄を立てたからって生意気なんだようッ!」


 そう。
 ここんとこは、けっこう重要なポイントかもしれない。

 実は、諸葛亮って
 蜀を取る戦いには連れていってもらえなかった人なのだ


 伏龍と鳳雛で有名な、諸葛亮と統であるが、軍事的才能は統の方がずーと優れている。
 ……と言うより、劉備は諸葛亮に対して政治面以外ではあまり頼りにしていなかったと言っていい。

 荊州で劉表が死んだときに、「劉表の子供をぶっ殺して荊州を手に入れましょう」などと、
 とても現実的と言えない策を進言した諸葛亮を
 劉備が戦場で使う気になれなかったのも無理はない。

 しかし、自らを古代の名将 管仲・楽毅にたとえるほど自尊心の強い諸葛亮が、
  「戦争では頼りにならない」
 という劉備の評価を、内心おもしろく感じていなかったのは間違いない。

 そして、魏延が武将としての能力を高く劉備に評価されている様子が、
 羨ましくて憎らしくて仕方なかったのではなかろーか?


 んで。
 やがて劉備も、西暦223年の夷陵の戦いでボロ負けし、
 失意のうちに死亡する。

 劉備は死に際に、わざわざ

 「諸葛亮。おまえが信頼している馬謖は言葉が中身よりも先走っている。
 ちょっと危なっかしいから、決して重要な任務にはつけるなよ」


 ……と言い残したわけだが
 後に諸葛亮は見事に劉備の言葉を無視することとなる。


 しかし。考えてみれば、劉備も罪なコトをしたものだ。
 諸葛亮という、ろくすっぽ実戦経験のない男に
 軍事の全権を与えたまま死んでしまったのだから。

 この時点における、諸葛亮の軍事的実績は以下である。

 −−−−−−−

 赤壁の戦いでは、孫権を説得しただけで戦場の指揮はしていない。

 蜀侵攻作戦では、荊州でお留守番

 曹操との漢中争奪戦では、法正に活躍の場を取られてしまう

 夷陵の戦いでは、成都でお留守番
 ちなみに劉備を止めたのは趙雲であって孔明ではない。

 −−−−−−−

 ……そう。
 諸葛亮って北伐の前まではろくに戦争の経験がない人だったのだ。
 
 一応南蛮平定戦では自分で指揮を取ったとあるけど、
 蜀の南部の一豪族であった孟獲がそれほど強敵であったとは考えにくい。
 あくまで北伐の前の小手調べみたいな戦闘を経験しただけだと思われる。


 そんな諸葛亮が、後に北伐を成功させることが出来なかったのは無理もない。
 ……ていうか、ろくに戦争の経験もないまま、北伐という困難きわまる行為を繰り返したあたり、
 はっきり言って無謀極まる。


 しかし。そんな無謀な北伐にも、一度だけチャンスがあった。
 勝利への、きわどい方程式が。

 そのチャンスを作り出したのが魏延で、
 そのチャンスをブチ壊したのが諸葛亮なのである。

 
 
 第一次 北伐。街亭の戦い。

 この唯一の勝機に、魏延は賭けた。

 だいたい、人口・兵士数・生産力を総合して考えたら、
 10倍以上もの国力差がある蜀と魏の間で、まともな力比べができるハズがない。
 奇襲・奇策あるのみなのだ。

 魏延が提案したのは、漢中から長安の間に横たわる山脈を踏破しての、長安奇襲攻撃

 太平洋戦争で日本がアメリカに痛撃を与えた真珠湾奇襲作戦と同じである。
 しょっぱなから、相手の痛いところを突くのが狙いだ。

 自称「漢王朝の正統継承国家」である蜀王朝にとっては
 「漢の高祖 劉邦の覇業、その始まりの地」
 である長安は、是非とも手に入れたいところ。

 もし長安を落とすことができれば、涼州・雍州の豪族達に対しても絶好のアピールとなる。

 つまるところ、この当時の長安という都市は
 戦略的にのみならず、政略的にもおおいに意義がある都市であったと言える。

 
 んで。

 「選りすぐりの兵士で構成された機動部隊で、一気に長安を陥落させる」

 魏延が立案したこの作戦は、きわどい作戦ではあったが
 勝算も十分にあった。
 長安を守る魏の将軍、夏侯楙は臆病で策のない将軍として知られていたからだ。

 後世の戦史研究者も、魏延の作戦について
 「成功するか失敗するかは五分であっただろう」と分析している。

 五分。
 すなわち、50パーセント。


 逆に言えば、魏延の作戦は
 無謀きわまる北伐の勝率を一気に50パーセントまで引き上げたと言えるのである。


 しかし。やっぱり。よりによって、ここで。

 諸葛亮は反対した。

 「そんな危険な賭けはできん。
 天水・街亭を迂回して、じっくりと長安に迫るのだ」


 確かに堅実である。

 もし夏侯楙の配下に優秀な指揮官がいたとしたら。
 魏延の提案した長安急襲作戦は、かなりの危険をともなう作戦となりうるからだ。

 長安を攻めあぐねたところを、魏の援軍に包囲され
 袋叩きにあうという事態も充分に想定できる。

 しかし。じっくりと長安に迫るということは、
 魏にとってもじっくりと迎撃の準備をすることができるということ。

 大国 魏にとって、そんなまっとうな作戦が怖いわけがない。


 案の定、魏は蜀軍が北伐を開始したというニュースを聞いて、万全の布陣を整えてきた。

 漢中方面に、曹真本隊と、曹真配下による遊撃隊。

 街亭方面に、張郤隊。

 とどめとばかりに、長安に魏の皇帝 曹叡が親征する。

 まさに、そうそうたるメンバーだ。
 曹真も張郤も魏では屈指の名将だし、曹叡は若く戦意旺盛な皇帝。
 兵力・人材ともに最高の状態で、魏は蜀を迎撃したわけだ。



 魏延が提案した奇襲作戦とは、まさにこういった事態を避けるためであったのだが……。
 しかし、もはや是非もなし。
 こうなったら、正面から全力で魏軍と戦い、打ち破るしかない。最善の努力あるのみ。

 そう、そのハズだったのだけど。

 なんと、諸葛亮ときたら魏延を後方において、使わなかったのである。

 ……な、何考えてんだ? この当時、蜀で一番 有能な将軍を使わないなんて!?

 「だって魏延、嫌いだもん。
 長安奇襲作戦なんて派手なコトをいう魏延なんかに、手柄を立てさせてたまるもんかッ!
 大好きな馬謖と、使いやすい趙雲を使うんだもんねぇーだッ!!」


 諸葛亮、あんた子供か? 

 だいたい、趙雲なんて劉備の生前は大部隊を率いた経験がない武将じゃないか!? 

 馬謖にいたっちゃ、戦争経験が皆無なんだぞッ!? 
 ……ていうか、劉備の遺言を忘れたのか!?

 そう。そうなのだ。
 諸葛亮は、自分の息のかかった配下に手柄を立てさせ、
 軍における自分の立場を強化したいがために、劉備の遺言も、
 魏延のような有能な人材も無視しやがったのだ。

 そりゃー、馬謖に手柄を立てさせたい気持ちもわからんでもない。
 諸葛亮にとっては、馬謖は政権内における貴重な荊州派なのだから。

 蜀では、

 *魏延を始めとする、武闘派。

 *孔明・馬謖を代表とする、荊州派。

 *費詩など旧劉璋配下で豪族出身の、益州派。

 ……以上の、三つの派閥が睨み合っているのだから、
 諸葛亮としては荊州から連れてきた子飼いの部下に軍功をたてさせ、
 軍に対する影響力を強化したいのは、やまやまであっただろう。

 しかし。しかしである。人物の好き嫌いとか、政治的な下心をもって、
 軍における指揮系統の配置を決めるってのは、どーゆーことですか? 

 諸葛亮さん、あなた 本当に魏を倒す気があるのですか!?


 ……案の定。諸葛亮の目論みは見事に粉砕された。

 まず、魏の曹真が趙雲をボコボコに撃破する。
 演義では諸葛亮に不幸の手紙を送られて馬鹿にされ、
 悔しさのあまり死んでしまう道化な曹真であるが、実際には凄く有能な将軍だったのである。

 なんせ、若い頃は「虎豹騎」と呼ばれる曹操軍屈指のエリート部隊を率いていたほどの人物。
 しかも、この北伐を迎撃した時点では40代の働き盛り。

 ハッキリ言って、老齢の趙雲には荷が重い相手だったと言わざるを得ない。
 
 「趙雲が囮役を引き受けて、魏の本隊を釘付けにした」
 という見方もできないことはないが、負けは負け。

 だいたい、このとき趙雲の方が曹真よりも
 多くの兵を率いていたという説さえあるくらいなのだ。

 街亭の戦いの後、諸葛亮が劉禅にあげた上奏文には、
 「それぞれの地で、多数をもって寡兵に敗北し……」とある。

 「充分な期待を受けて一方面軍を指揮しつつも、あっさり撃退された」
 そう考えた方が、むしろ現実的というものだ。

 趙雲ファンには申し訳ないが、
 史実における彼はあまり大部隊が似合う人物ではなかったと言えるだろう。

 いっそ趙雲のかわりに魏延が曹真と戦っていたら、と思わずにはいられない。
 大勢の兵を率いる経験なら、魏延は漢中の太守をしていた時代に充分に積んでいたのだから。


 んで、街亭を守っていた馬謖は、有名な
 「山の上に陣を構えて水を断たれて大失敗事件」
 
を引き起こして、それはもう見事な負け戦を演じる。

 黄巾の乱から、戦争経験を積んでいる歴戦の将軍 張郤を相手にできるタマではなかったのだ。


 ……で。
 結局、第1次北伐は蜀軍の大敗という結果に終わる。
 本来なら、敗戦の最高責任者は諸葛亮である。

 馬謖のような青二才を張郤にぶつけなくても、
 魏延や呉懿のような戦争経験豊かな将軍はいくらでもいたのだ。
 しかし、諸葛亮はここで見事な離れ業を演じた。

 泣いて馬謖を斬る。

 有名な故事ではあるが、馬謖からすると手の平を返されたとしか思えなかったであろう。
 利用価値がなくなったら、斬る。
 んで、自分は厳しい処断をする私心のない公正な政治家として、名声を上げたわけだ。

 はっきり言って、
 馬謖を街亭の戦いで重用した時点で、私心がないも公正もへったくれがないのであるが……。

 本当に、諸葛亮って立派な政治家だ。

 いえいえ、イヤミじゃありませんとも。

 人心のコントロールが巧みなことや、
 都合の悪いことをうまく誤魔化すことだって、政治家には大切な資質ですからね。(笑)


 しかし。

 世の中には、たとえ相手がご立派な政治家様であろーが
 そうおいそれと頭を下げようとしない男だって、いるもんだ。

 このときの魏延が、そのいい例である。

 「ふざけるな! 長安奇襲作戦さえ、採用されていれば
 こんなことにはならなかったんだッ!! 
 俺の作戦を、危険だとか言って使わなかった諸葛亮殿は臆病者だッ!!」


 パチパチパチ。よくぞ、言ってくれたぜ、魏延殿。

 そう。長安奇襲作戦、それ自体の是非はともかく。
 魏延が、街亭の戦いにおける諸葛亮の作戦をひたすら否定したのは事実なのだ。

 むろん、諸葛亮がそんな魏延にムカつかないわけがない。

 ( あんのクサレ軍人がぁああッ!! 
  よりによって、この私を否定するとは!?  いったい何様のつもりだ? )


 だが、魏延にムカつきつつも、魏延まで馬謖のように殺したりはできなかった。
 諸葛亮が頼りにしていた趙雲が、街亭の戦いの後ですぐに死んでしまったからである。

 既に、蜀には魏延以外に魏とタメを張る大物の武将がいなくなってしまっていた以上、
 魏延まで失うわけにはいかない。

 しかし。ここからが凄く陰湿な話なのだが。

 諸葛亮は魏延を重用しようともしなかったのだ。

 それ以降の北伐でも、魏延に総司令官をまかせたりすることは決してなく、
 つねに自分の指揮下における役割しか与えなかった。

 結局、北伐の総指揮は諸葛亮自身が取り続け、ひたすら負け戦を繰り返したのである。

 しかし。
 そんなパッとしない諸葛亮とは対照的に
 魏延は使いっぱしりのような役割でも、常に完璧に果たし続けた

 
 要するに、諸葛亮が指示した作戦は完璧に遂行し続けたのである。

 西暦230年には羌中に進入して郭淮を撃破。

 西暦231年には司馬懿を散々に苦しめ、兵糧不足からの撤退においては、
 追撃してくる張郤を打ち破って3000の敵兵を殺し、多くの武器を奪い取っている。

 とにかく魏延自身は手柄をあげ、失敗は決してしなかった。
 しかし、ただ黙って諸葛亮に従い続けたわけでもない。
 諸葛亮の命令に従いつつも、諸葛亮を非難することも忘れなかったのである。

 周囲の人間に愚痴を言う形で、諸葛亮に聞こえるように。

 「ホンット、うちの丞相ときたら弱腰だな。
 あの御方の下じゃー、俺の才能は生かされねぇよ。
 まったくもって不幸なこった。やってらんねーぜ」


 「あーあ。あのとき、長安奇襲作戦が採用されていたらなぁ。
 戦争に博打は付き物だろーが」


 「大体、長安奇襲作戦のために願い出た兵の数は、たったの一万だぜ? 
 それを遊軍として俺が指揮するだけで、
 孔明殿は本隊を率いて後からくればいい、って言ってやったのによ」

 「失敗したって俺が死ぬだけだろーが。諸葛亮殿が死ぬわけじゃねぇっつうの」


 諸葛亮の北伐は一向に成果が上がらない。
 正面から、大兵力を動員してひたすらぶつかって、兵糧不足のための撤退を繰り返している。
 勝てないだけならまだしも、大軍を動員するたびに、
 それだけの金がかかり、蜀の国力はどんどん疲弊していく。

 『 一万の兵だけなら、ダメもとで
 賭けに出ていてもよかったのではないか。
 失敗しても、死ぬのは自分と一万の兵だけ。
 全軍が瓦解するようなことには至らなかったであろうに 』


 そんな魏延の声を、諸葛亮はひたすら聞こえないふりをする。
 
 そりゃーそーだ、自分は数万の兵を率いても、
 魏の昭が たったの一千の兵で守る陳倉城を陥落できないテイタラクなんだから。

 諸葛亮の心境はいかばかりか。

 ( おのれおのれおのれッ! 魏延のゲス野郎めがッ! 
 楽毅の再来たる、この諸葛孔明を侮辱するとはッ!? 
 野郎、ゼッテー いつか殺すッ!!)


 ……たぶん、こんな風に思っていたんだろうけど。

 しかし、魏のたった一つの城を落とせない諸葛亮が、
 よくもまぁ 斎国の七十余の城を落とした名将 楽毅に自分を例えてみせたものだ。
 自信過剰もここまでくると、精神科医に診断をゆだねた方がいいと思う。


 魏延じゃなくとも、キツイ言葉を口にしたくなるってモンだよ。まったく……。

 まぁ、とにかく。

 おそらくは、魏延とて自分が諸葛亮に憎まれていることくらい、わかっていただろう。
 しかし諸葛亮からの指示には完璧に応え続けた、というあたりに彼の意地を感じる。

 魏延は自分の献策を無視されつつも、指示された戦いでは戦功をあげることで、
 諸葛亮の「戦争の手腕」を否定し続けたのではないだろうか?

 んで。
 当然のことながら、諸葛亮は魏延に対してますます憎悪を募らせる。
 しかし、魏延という駒を失うこともできない。
 魏延を殺したいほど憎みながら、それを態度に示すことはなく、魏延を使いつづける。

 ……いやー、なんとも心あたたまる関係であります。

 しかし、とりあえず魏延の方はまだ、見ていて すがすがしい。

 だって、諸葛亮に対しては聞こえるように「臆病者だ」と言い続けたのだから。

 そして、そんな魏延に対して、周囲の誰もが恐れはばかっていたという。
 そりゃーそうだ、蜀の事実上の最高権力者である諸葛亮を
 臆病者扱いする男は良くも悪くも魏延だけなのだから。


 いや、約1名。
 魏延に対して喧嘩を売る人物も存在した。文官の楊儀である。


 この楊儀ってやつは、「諸葛亮の飼い犬」の中でも血統書付きの部類に入る、
 それはそれは立派なワンちゃんであった。

 おまけに、ご主人様の敵に吠えかかる事で自分の忠誠心をアピールしたがるという、
 なんとも迷惑な習性の持ち主なのだから困りもの。


 しかし、魏延からすれば、そんなザコみたいなヤツにまで遠慮する義理はない。
 諸葛亮 本人にならともかく、その取り巻きごときには、それ相応の対応ってヤツがある。

 楊儀が議論をふっかけてくるたびに、
 魏延は楊儀の口元に抜き身の剣を突きつけたという。


 ……どーやら、魏延の方も心底 ムカついていたみたいだ。


 「あ? なんか言いてぇコトがあるんだろ? 
  言ってみろや、このコバンザメ野郎!!」


 そんな魏延の反則ワザを毎回くらい、
 毎回 顔をクシャクシャにして泣き出す楊儀くんであったが、
 それでも何度も魏延に喧嘩を売ったというのだから、学習能力のなさには頭が下がる。

 あるいは、後ろでご主人様が糸を引いていて、
 必死に魏延を罵倒させていただけなのかもしれないけれど、さ。(笑)


 しかし。やっぱり。

 いつまでも、こんな美しい友情の時代が続くわけでもない。

 西暦234年、諸葛亮は五丈原で陣没した。

 そして、この諸葛亮の死こそが
 魏延にとっての、『終わりの始まり』だったのである。


 まったくもって救われない話では、あるが。

 実のところ、死に臨んで諸葛亮が
 蜀の未来よりも優先して懸念していたのは、
 魏延の処置についてだったらしい。

 ( ふふふ、魏延め。もうじき私は死ぬが、貴様だけは許さぬ。
  貴様には最悪の死をくれてやるぞ。不名誉で惨めな最期をなぁッ!! )


 死の床で諸葛亮がひたすら
 悪魔の笑いを浮かべていたことに関しては、もう疑い様がない。
 ……ていうか、遺言に魏延に対する悪意がドップリと満ちている。

 楊儀、姜維、費らに対して残した言葉は以下。

 「私が死んだら、五丈原から兵を撤退させろ。その際、殿軍は魏延。
 姜維は、その先を行くこと。魏延が撤退命令に従わないなら、置いていけ」


 よーするに、大嫌いな魏延に危険な任務を与え、
 かわいい姜維達には安全に帰還させようというわけ。

 諸葛亮の画策は、さらに続く。

 あるいは戦意旺盛な魏延のこと。撤退には応じないかもしれない。
 ……まぁ、そーなったら、それまでのこと。
 その場に置き去りにすればいい。魏の兵にぶっ殺されれば最高である。
 たとえ、仮に魏の兵に殺されずに帰還してきても、
 撤退に応じなかったという事実を使って、処断すればいい。
 できることなら、反乱分子に仕立て上げて、後世に千年まで残る汚名を着せたいところだ。
 ははははは。


 そんなろくでもない暗黒色の夢を見ながら、
 偉大なる諸葛亮孔明様はこの世を去ったのでした。

 ほんと、この人に関しちゃ
 「最後の最後で、正体を見せた」って感じがする。

 わざわざ一騒動 起きるような命令を
 死に際になって口にするのだから。

 組織の指導者以前に、人としてどうかと思うんだよなー。マジで。


 諸葛亮の撤退命令が魏延に対する罠であった事は、まず間違いない。

 普通に考えれば、撤退命令を出す際には
 それに反対しそうな魏延には直接告げて、
 勝手なまねをしないように言い含めるハズ。

 …しかし、それをしなかったってことは…?

 もう、魏延を陥れようとしていたとしか思えない。


 もし、諸葛亮が天国に行けるとしたら、
 世界人類 全員一人残らず天国に行けると思って間違いないだろう。


 もちろん、そんな最高のチャンスを生かさない楊儀ではない。
 姜維でも費偉でもなく、楊儀がわざわざ撤退命令を出したのである。
 
 むろん、魏延は猛反発した。
 諸葛亮の取り巻き連中による、悪魔のトラップが発動したのを露知らず。

 「馬鹿なッ!! 丞相が死んだからといって、なぜ撤退する必要があるのだッ? 
 この魏延が指揮を取ればいいだけのことであろう。
 我々は、漢王室復興のため、賊である魏と戦っているのだろう? 
 一人の人間の死によって、天下の大事を止めていいものではあるまいッ!?」


 「そもそも、なぜ俺が楊儀の命令に従わねばならぬッ?」

 理と情の両面から、魏延は納得できなかった。


 そんな魏延に対し、『諸葛亮の取り巻き その2』である費は、

 「では、私が楊儀を説得して、撤退を踏みとどまらせましょう」

 と嘘をついて、あっさりと楊儀と共に魏延を置き去りにして撤退を開始する。2重3重の罠である。


 しかし。さすがは魏延というべきか。

 戦争が下手クソな諸葛亮の取り巻きごときに、好きにさせたりはしなかった。
 そもそも、戦場で生きてきた魏延を、戦場で出しぬこうなどと思いあがりも甚だしい。

 速攻で、戦場から離脱して、さらに楊儀達の先回りをし、
 成都に帰還するための、吊橋を破壊しまくったのである。

 「成都に楊儀共を帰還させぬ。やつらのような敗北主義者には、死あるのみッ!!」

 魏延部隊の矛先は楊儀達の部隊に向けられる。

 だが、あざやかに ひるがえる魏延の旗は、反旗にあらず。
 魏延は、成都の劉禅に楊儀達の罪状を訴え、劉禅からの攻撃命令を待っていたのである。


 しかし。

 ここで楊儀達を問答無用でブチ殺さなかったことが、魏延のミスであった。
 楊儀もまた、劉禅に魏延の罪状を訴えていたのである。

 成都の劉禅は、まったく趣旨が反する二つの罪状に悩まさることになるのだが……。

 結果は見えていた。孔明が死んだ後は、劉禅の回りは皆が皆 孔明派。
 董允をはじめとする劉禅の側近達は、口を揃えて楊儀の味方をするに決まっている。

 「劉禅様。魏延は、謀反者ですぞッ! 
 孔明殿の撤退命令に従わず、あまつさえ皇帝陛下に忠誠を誓う楊儀を
 殺そうとしているのです。これを謀反と言わずして、なんと言いましょうや!?」



 なしくずしに、魏延は反乱軍を率いる賊将となってしまう。
 派遣されてきた王平など魏延にとっては怖くもなんともない将軍であったが、

 「おのれ、魏延め。貴様、我らが丞相の死体が冷めぬうちに
  反乱するたぁ、いい度胸だなッ!!」


 と、いう彼の言葉は、想定の範囲外であったであろう。
 魏延の配下の兵達はびびりまくり、皆 散り散りとなって逃げ去ってしまったのである。
 悲しいかな、兵がいなければ戦えない。

 魏延は息子達ともども、たったの数人で漢中に逃げこんだが、
 やがて追撃してきた馬岱に首を斬られ、その首は成都に送られることとなる。



 ちなみに、楊儀は魏延の首を前にして

 「このクソ野郎めッ!! こんな惨めな姿になっていい気味だッ!!
  首だけになっちまったら、悪いことはできねぇよなぁ♪」


 と、嘲笑したという。

 記録によると
 嬉々として生首を足で踏みつけながら笑いこけた、
 
というのだから、たいした人格者だ。
 

 こんなヤツを信用していた諸葛亮も、さぞかし素敵なお方だったに違いない。



 なお、魏延が死に臨んでどのような言葉を口にしたかは、記録に残っていない。
 ただ、間違い無く、こう思っていたであろう。

 「俺は、反逆者に、させられたのだ」

 ……と。

 実際、正史三国志の作者である陳寿も

 「魏延は楊儀を取り除こうとして兵を挙げたのであり、
 自分は諸葛亮に代わって蜀軍を率いる身であると信じていた。
 蜀に反逆するつもりは無かったのだ」
 (蜀書・魏延伝)

 と、わざわざ魏延伝の末尾で説明している。

 歴史に対して公平な立場であろうと努力した陳寿でさえも、
 擁護せざるを得なかったほど、魏延の最後は痛々しい。

 武人としてのあまりに純粋な誇りの持ち主ゆえに、
 文官達との政治的確執によって死ななければいけなかった男、として。



 ただ、まぁ。
 当サイトの管理人 天猿は、別に歴史家でも何でもないので。
 はっきり、言わせてもらいます。

 「 魏延は諸葛亮達によって、はめられた悲劇の武将。
 反逆者とか裏切り者とか言われるのは、気の毒で仕方がないと思うのですが。
 皆様のお考えは、いかに?」





 ところで。

 諸葛亮の内政面での右腕とも言える存在であった楊儀。
 その後日談について、ですが。

 諸葛亮の死後は、その能力を鼻にかけた傲慢な態度が災いし、劉禅によって解雇されています。
 んで、最後は悔しさのあまり自刃。
 いや〜。彼に関しては個人的に、全然 同情できませんなぁ……ッ!! (笑)