「三国一の親不孝者」
この称号を、馬超には是非とも捧げたい。
そりゃー、三国時代には、馬超の他にも親不孝者はたくさんいる。
父親の偉業を無駄にしてしまった親不孝者の例は、枚挙にいとまがないくらいだ。
劉禅、袁尚、劉璋、諸葛格などなど。……まぁ 腐るほどいてキリがない。
しかし。彼らの場合は、まだマシである。なんせ
馬超ときたら、
親不孝を通り越した自分勝手をやらかしたあげく、
父親を死なせちゃったんだから。
馬超は、……いや この際、
こいつのことは「馬鹿息子 ばちょん」と呼ばせてもらおう。
「馬鹿息子 ばちょん」に比べたら、
三国時代における他の親不孝者達など、可愛いものだ。
むろん、この「馬鹿息子 ばちょん」は父親にだけ迷惑をかけたわけではない。
それこそ、行く先々で、メチャクチャをやらかしている。
まぁ、前置きはこのへんにして。
ここからは、馬鹿息子の活躍を紹介させていただくとしよう。
「親の顔を見てみたい」という言葉がある。
馬超のような人間を育てた、馬騰とはどんな男だったのだろうか?
……結論から言うと、こいつもまた とんでもないロクデナシだったりする。
三国志演義では、漢王室に忠誠を誓い、曹操の専横を憎んで暗殺計画に加担し、
それがバレて殺されるというなかなか渋い悲劇の男を演じているのだけど。
むろん、そんなの ぜぇーんぶ 演義の作者 羅間中が創作した嘘っぱち。
実際の馬騰は、戦乱の世に便乗して涼州で暴れまわったり、
中央に対して反乱を起こす正真正銘のゴロツキであった。
んで、韓遂ってオヤジと縄張りあらそいの結果、自分の妻を殺されている。
まー、よーするに馬騰ってヤツは、
カミサンを不幸にしてしまったロクデナシな亭主だったわけだ。
んで、馬騰の奥さんと言えば、とーぜん 馬超のオフクロ様。
そう、馬超は幼い頃に父親のせいで母親を失っているのだ。
「 くそー、オヤジめ。俺は大きくなっても、あんな男にはならないぞ」
……普通なら、そう考えて、家庭を大事にする立派な父親になるハズなのだが。
しかし、ここは『三国一の馬鹿息子 ばちょん』。
成長してからは、父親を超える規模で好き放題をかまし
家族に迷惑をかけることになるのだ。
しかし、まぁ、これは後の話。
話を馬騰に戻そう。
馬騰も年を取ると、それなりに安定した生活がしたくなったのだろう。
西暦208年、自分から願い出て都に戻り、
宮中の衛尉、すなわち皇帝のガードマンになる。
んで、その際に自分の領地は馬超に任せ
馬超の弟の馬鉄と馬休もいっしょに連れて行ったわけだが……。
結局、彼らは二度と故郷の土を踏むことは出来なかったのである。
そう、すべては馬超のせいで。
では、そのあたりの経緯を詳しく紹介していこう。
西暦211年、3月。
曹操は漢中で宗教国家を築いていた張魯の征伐に取りかかる。
んで、その際に対西部戦線のエキスパート、夏侯淵を出撃させるのだが……。
これに、馬超はびびった。
「うげぇ、夏侯淵っちゅーたら異民族征伐の専門家やん!?」
「……そ、そうか。漢中を攻めるフリして、俺のいる涼州に攻めこむ気だな?」
「く、くっそー。上等じゃんか、殺られる前に殺ってやらぁあああッ!!」
……被害者意識が強いとゆーか、なんとゆーか。
そりゃー、曹操や夏侯淵にも、涼州に対する牽制の気持ちはあったであろう。
しかし、まさか馬超達が涼州を飛び出して自分達の勢力圏の深くまで
侵攻して来るとまでは、思ってもいなかったに違いない。
そう。馬超は「漢中十部」と呼ばれる長安以西の豪族たちをまとめあげ、
いきなり長安と洛陽を結ぶ要地、潼関に攻めこみ始めたのである。
むろん、
オヤジの馬騰は宮中に仕えているのに、息子が攻めこんできたら、反乱である。
反乱としか、呼び様がない。
……で。
結論から言えば、馬鹿息子は見事に曹操に撃退された。
曹操をいいとこまで追い詰め、講和を持ちかけられるまで戦ったりしたのだが。
……馬超ときたら、そこで曹操を暗殺しようとしたり、
許楮にびびって諦めたりと、相変わらず頭が良くない。
特に、自分の母親を殺した韓遂なんかと組んだことが大失敗。
最凶軍師 賈詡の『偽書の計』
別名 『悪魔のラブレター大作戦』にコロリと騙され、韓遂と大喧嘩。
まあ、もともと仲良くできる相手ではなかったのだから、仕方ないっちゃぁ仕方ないのだが。
結果的には、その大喧嘩のスキを突かれて無念の敗北。馬超は涼州まで逃れることとなった。
しかし、潼関の戦いでは、何度も曹操をブチ殺しかけたくらいに、
相手の総大将を追い詰めたことも事実である。そんなこんなで、馬超は大満足。
「いやー♪ やっぱ、俺様って強いのな〜」
「……うーん、しかし。なんか、忘れているよーな気もするんだけど。……なんだっけ?」
いや。
「なんだっけ?」じゃねぇだろ、この親不孝者。
西暦211年、9月。
曹操はようやく、都に帰還。
むろん、何度もブチ殺されかけた曹操のハラワタが煮え繰り返っていないワケがない。
そもそも、馬超と戦うのに精一杯で、
当初の予定の漢中攻撃を諦めなければならなかったのだ。
曹操の怒りは、いかばかりか。
「 うぉのれぇい……。
あの馬鹿だきゃあ、いつか必ず殺してやるッ。
馬鹿と同じDNAを持ってるヤツにも容赦せんからなぁあ!!」
潼関の戦いの翌年、馬騰・馬鉄・馬休の三人を死刑にしてしまったのでした。
しかし、これに関しては曹操が残酷とは言えないだろう。
昔から、反乱罪は一族 皆殺しと相場が決まってるんだから。
まぁ、このときばかりは曹操も迷わなかっただろうけど。
んで。当然、そのニュースは馬超の下にも届く。
「お、おのれ〜ッ!! 曹操、ヤツだけは許さーん!!」
「再び、戦ってやる。…これは…復讐戦だぁッ!!」
……ええい。この『馬鹿息子 ばちょん』め。
三人が死んだのは、アンタのせいだろーが。
よりによって父親と弟が曹操のもとにいるときに
反乱を起こしておいて、何が復讐だ。
そう思う人が多いのではないだろーか?
……んで、当時の人達も多くが、そう思った。
西暦212年前後、涼州の少数民族を抱きこんだ馬超は
涼州刺史 韋康が守る冀城を攻撃。
なんとか城を落とすも、むろん、韋康が馬超に協力するハズがない。
……誰が協力なんかするもんか。
「オヤジと弟が殺されたのは、オマエのせいだろーが。この親殺し野郎ッ!」
韋康の反応は、世の多くの人々を代表する
ごく当然のものだったのだが……。
馬超ときたら、問答無用で韋康を殺害。ついでに、その家族も殺害。
復讐という甘美な酔いで頭がイっちゃている男に、正論は通じなかったのである。
しかし。むろん、こんなメチャクチャが許されるワケがない。
韋康の旧部下の楊阜が、立ち上がる。
「お、おのれ〜ッ!! 馬超、ヤツだけは許さーん!!」
「再び、戦ってやる。…これは…復讐戦だッ!!」
……ここで多く語る必要はないだろう。
こっちの言い分は、まったく正しかったりする。
命をかけた楊阜の説得と奔走により、
ついに冀城周辺の豪族が決起し、馬超を攻撃するにいたるのだ。
んで。
ときとして、凡人の気迫が天賦の才を凌駕する事は、あるもので。
楊阜の反撃により、馬超ほどの才能を持つ戦争家が
ついに敗走せざるをえなくなったのだ。
さらに悪いことは重なり、
敗走の際に、妻子を含む一族を楊阜達に殺されてしまう。
先に韋康を殺したのは馬超だから、仕方ないと言えば仕方ないのだが……。
馬超の家族に対しては、ホントに気の毒としかいいようがない。
それにしても、このあたりの涼州争奪戦は、本当に血みどろというか、血で血を洗う争いというか。
記録を読んでいても、暗い気分になってくる。
しかし。まだまだ馬超は諦めない。
涼州から、漢中へ逃げ、再び 兵をまとめて反撃を開始。
……が。ここで。
曹操軍 「最強の攻撃力・最速の機動力」 を誇る夏侯淵が再度 出撃する。
『典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、五日で千里』
この売り文句は、伊達ではない。
急襲作戦を得意とする夏侯淵の、本領発揮。
いきなり馬超の部隊の近くにまでせまり、
驚いた馬超が兵を返すと、今度は北上して韓遂を叩きのめす。
さらに韓遂が逃げ込んだ略陽城を攻めきれないとみるや、
反転して韓遂軍の本拠地を攻撃し、
慌てて城から出てきた韓遂を完膚なきまでにブチのめす。
馬超と戦う前に、他の反乱分子を制圧することで、
またたくまに馬超包囲網を完成させてしまったわけだ。
……す、すごいぜ、夏侯淵。
そう。後にオイボレ黄忠に斬られたせいで、
いまひとつカッコイイ印象はない夏侯淵であるが、生前はそれはそれは強かったのである。
……んで。戦う間もなく、包囲網を完成されてしまった馬超は、兵を引くしかなかった。
その後は漢中の張魯を頼り、そこでも厄介者扱いされ、命まで狙われ、
ついには劉備のもとへと落ち延びていかざるを得なくなる。
しかし、負け続けの馬超ではあるが。
べらぼうに強い、のも事実。
そう、馬超は強いのだ。頭が悪いだけで。
西暦214年 劉備のもとに帰順した馬超に、ようやく晴れの舞台がやってくる。
おりしも劉備は
『同族で恩人の劉璋から国を強奪しちゃおう大戦争』
……という、聖戦の真っ最中であり、
ついでに成都城包囲のメインイベントを展開していたのである。
んで。劉璋からすると、
『曹操に三度までケンカを吹っかけたイカレ野郎の親殺し』
『三国最強の馬鹿息子 ばちょん』
……が、劉備の味方についたと聞くと、生きた心地がしないのである。
ただ、敵が強い、という状況なら、いい。
それはそれで、なんとか戦うこともできよう。
また、敵の頭がイカレている、という状況でも、救いはある。
なんとか対処すればいい。
しかし。
両方を兼ね備える『頭がイカレてるくせに、強い』ヤツを敵に回すほど、恐ろしいことはないのだ。
特に馬超なんか、なにするか知れたもんじゃない男である。
あの曹操をして、ついには
「馬の小せがれが生きておる限り、ワシは安心して墓にも入れぬ」
と言わしめた男なのだ。
そんな危険人物を敵にまわして、無事ですむなど とても思えない。
殺されるだけならまだしも、
死んだ後に墓まで暴かれ
サラシ者にされちゃー、たまらない。
無実の人、劉璋殿にとって
馬超の到来は、災難以外の何物でもなかったと思う。いや、マジで。
「……うう、やりかねん。
あの男なら、その場のノリでやりかねん。
父祖代々の墓を荒らされるなど、とても耐えられぬ。
ご先祖様に申し訳が立たねーよぅ……」
十日ほどは恐怖に耐えた彼であったが、
ついに降伏し城を劉備に明け渡したのであった。
そんなこんなで。
持っているだけで核兵器並の脅威を与える馬超という武将は、
劉備政権では それなりに厚遇されていたらしい。
西暦221年には驃騎将軍に昇進。
これって、車騎将軍の張飛と同格の役職だったりする。
つまるところ、劉備陣営に就職してから速攻で
趙雲を抜いてしまうほどのスピード出世を果たすこととなったワケ。
まぁ、当の馬超の立場からすると、
一国の君主から、亡命政権の劉備陣営の一武将にまで、落ちぶれた
って感じも否めなかったかもしれないけれど。
とにもかくにも波乱万丈の馬超の人生であったが……、
さすがに彼も疲れていたのだろう。
驃騎将軍に任命されてから翌年の、西暦222年。
病のために世を去る。享年 47歳。
死に臨んで、劉備に提出した手紙が悲痛そのものであり、今日でも結構 有名だ。
その内容を、真面目に訳せば以下のようになる。
「臣の一族 200人あまりは曹操の手によって誅殺されて殆ど絶滅し、
ただ従兄弟の馬岱を残すのみであります。私めの家の祭祀を継ぐものとして、
彼のことをくれぐれも陛下にお託ししたいと思います。
ほかに申し上げることはございません」
……しかし。……しかしだ。
ちょっと、待ってくれないか、馬超。
もとい、『馬鹿息子 ばちょん』。
お節介かもしれないけど、ちょっと整理してみたいんだよね。
確かに、悲劇だ。悲劇だとも。
おおいに嘆くのもいいと思うんだけど、さ。
その責任の所在は、明らかにしておくべきだよ。やっぱ。
まぁ、だいたい以下な感じになると思うのだけどね。
−−−−−−−−−−−
* 曹操に父親と弟を殺させる原因となった反乱を起こしたのは、『馬鹿息子
ばちょん』。
* 曹操を潼関の戦いで殺せなかったのも、『馬鹿息子 ばちょん』。
* 曹操暗殺の機会があったのに、許楮にびびって実行できなかったのも、『馬鹿息子
ばちょん』。
* 「偽書の計」にコロリと騙され、韓遂とケンカしだしたのも、『馬鹿息子
ばちょん』。
* 潼関の戦いで負けた後、涼州争奪戦で韋康を殺したのも、『馬鹿息子 ばちょん』。
* 妻子を含む一族 200人を、韋康 旧部下の報復から救えなかったのも、『馬鹿息子
ばちょん』
−−−−−−−−−−−
……えーと。
その、なんだ。
ひょっとして。……いや、ひょっとしなくても。
全部、全部。
ぜ〜んぶ、オマエが悪いんじゃないかッ!!
ここまで、自業自得をやらかしておいて、なお
死に際で、被害者ぶるとはッ?
な、なんて自分本意なヤツだッ?
ハッキリ言って
呂布と いい勝負だぞッ!!
【 補足 】
……とは言え。
まぁ、馬鹿息子の親不孝者、には間違いないんだけど。
涼州の独立、それを守るために血みどろの戦いを繰り返した馬超の生き様は、やっぱり鮮烈だ。
力尽きて西暦214年に劉備のもとに帰順したわけだけど、劉備に仕えることで
結果的には反曹操の姿勢だけは貫いた生涯だったとも言えるわけだし。
そんなこんなで。
蜀の五虎将軍の中では、馬超が個人的に一番好きだったりする。
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