私評 『 張昭 』

問題児達と激闘を繰り広げた、

極上に素敵なジジイ

 極上ジジイ

 張昭という人物に対しては、敬意を込めてこう呼んであげたい。

 もっとも、もし生前の張昭にそんな呼び方をしたら最後、

 「 年長者に対して、ジジイとは何事ぢゃ!?」

 と、ブチ切れられて
 怒鳴りつけられたあげくに、
 説教部屋に連行されること間違いなしだったりするのだが。(苦笑)

 このコーナーでは、
 そんな素敵に元気な『極上ジジイ』張昭について紹介してみたいと思う。

 ……て言うか、
 真剣に呉という国家について語ろうとしたら、
 このジイサンの存在は絶対に無視できないくらい大きかったりする
んだな、これが。

 ( ちょっとシャレにならないテキスト量になるけど
  『呉という国について知りたい!』 という気合いの入った紳士淑女は、頑張って読破してね )



 さて。

 ……とは、言ったものの。
 どっちかってぇと、このジジイはあまり人気がなかったりする。

 赤壁の戦いでは、降伏を主張していたりするし。
 ことあるごとに、主君 孫権に諫言したりと、なにかとウザったい。

 おそらくは、多くの皆様にとって張昭に対する認識とは
 『 戦争嫌いのくせに、口うるさいジジイ 』
 と、いったところではないだろうか。


 ……で。
 その認識は、だいたい正しいと思う。
 少なくとも間違ってはいない。(苦笑)

 事実、三国時代における呉の君主 孫権にとっても
 張昭はどうにも煙たい存在であったようだ。

 しかし。しかし、だ。

 だからと言って、張昭という人物がつまらない人物であると判断するのは、短絡が過ぎる。

 いや、張昭が『戦争嫌いのくせに、口うるさいジジイ』であった事は、
 彼の価値をいささかも下げることがないと言う方が、適切だろうか。

 と、いうのも。

 張昭とは、『 戦争嫌いのくせに、口うるさいジジイ 』というスタンスを終生 貫き通し、
 それをもって主君 孫権と、その周りの武闘派の暴走を制御していた人物だからである。



 張昭が、呉という国にとってどれほど大きな存在であったか。

 ぶっちゃけ、『 主君よりも尊敬されていた家臣 』 と表現してもいいと思う。
 ……いや、マジな話。それほどの影響力を張昭は持っていたのだ。

 事実、呉という国が成立するにあたって、彼が果たした役割は極めて大きい。


 では、そのあたりを踏まえた上で、
 『極上ジジイ』 張昭の足跡を追ってみるとしよう。


 張昭のデビューは、かの有名な狂犬野郎、……もとい小覇王 孫策との出会いから。

 目に映る敵には片っ端から噛みつき、ぶっ殺しまくり、母親に
 『オマエがこれ以上 人を殺すなら、私は井戸に身を投げて死ぬッ!』
 と、自殺未遂させる
ほどの、救いようのない不良 孫策ではあったが。

 この、ド腐れのドラ息子、気は狂っていたけど、頭は良かった。

 「ちっきしょーッ!
  俺はもっともっと戦争したいのによぅ。人殺ししたいのによぅ……」


 「どーっすっかなぁ? 
  母ちゃんを納得させた上で、喧嘩三昧の日々を送る方法はないかなぁ?」

 ……と、考えること数秒。

 「おっしゃ!! 優等生のダチをゲットしよう。
  黄蓋とか程普とか、ガラの悪いヤツ等とばっか付き合ってるから、
  オフクロも心配するんだ」

 「お勉強のできる、みんなにも人気のあるインテリ君をチームに引き入れれば。
   ……俺ッチの喧嘩にも、なんとなく大義名分ができそうじゃん?」

 「すなわち! 俺ッチの喧嘩は
  インテリ君にも お墨付きな聖戦ってわけさぁッ♪ 」



 ……などと、いきなりナイスアイデアを弾き出してしまう。

 なんてゆーか、孫策って本当に洒落にならない。

 コイツの怖いところは、ろくに考えずに正解を選択してしまうことだ。
 曹操や諸葛亮が『計算型の天才』とするなら、孫策は『直感型の天才』と言うべきか。

 『 狂ってるくせに、頭が切れる 』

 この世でもっとも恐ろしい種類の人間。それが孫策という男だったのだ。


 んで。

 その孫策が目をつけたのが、周瑜と張昭


 まず、周瑜
 実は彼、江南でも屈指の家柄の御曹司。平たく言うと、『名家のボンボン』

 孫策の拠点となった揚州という地域では、周瑜は大人気のアイドルスター。
 なんたって、地元の皆様から『周朗(周家の若様)』と呼ばれていたくらい。

 周家ってのが、これまた凄い名門なのだ。
 過去には、大尉という漢王朝でもトップスリーに入る要職に就いたご先祖だっているくらいだ。
 それも、二代にわたって輩出しているのだからスゴイ。

 はっきり言って、
 身分詐称っぽい 『孫子の末裔』 を名乗ってる、孫策・孫権 兄弟とは、格が違う

 呉という新興のヤンキー集団にとって、
 そんな周瑜は喉から手が出るほど欲しい逸材であったと言えるだろう。

 コイツを味方につけてるかどーかで、地元の人達に与えるイメージは全然 違ってくるからだ。

 しかし、幸いなことに。
 周瑜を味方につけるのは、孫策にとって楽勝だった。
 なんせ、ガキのころから無二の親友だったし。
 おまけに周瑜ときたら、ひそかに喧嘩が大好きだったりする。

 孫策の悪魔の誘惑に、3秒でコロリとやられて周瑜は入隊決定。
 まぁ、しょせんは類友ってヤツだ。



 お次は張昭
 もとは徐州の出身なんだけど、後漢の末年、天下が大いに乱れたせいで
 江南に避難してきた学者さん。若い頃から、凄く有名。平たく言うと、『名士なインテリ』

 この時代、儒学の礼節や古くからの教養を身につけてるかどーかが、
 人々からの信頼を集める第一条件であった。
 むろん、戦争ばっかりしてる無類の喧嘩好きである孫策に、そんなもんあるはずない。

 この張昭を味方につけることができるかどうかが、
 孫策の運命の別れ道であったと言っても過言ではないだろう。

 ……で、さすがにこのインテリジジイを味方につけるのには、孫策も苦労したらしい。

 しかし、西暦196年 孫策が会稽太守となると、その地位を利用して無理矢理 登用

 そう、この張昭。
 北方出身のインテリだけあって、権威には弱い
のだ。
 とは言え、それは彼が小人物だからってわけでもない。

 張昭自身が、権威とか名分を体現してる人物だからこそ、なのだ。
 彼の長所は、彼の弱点にも繋がっていたと言えるだろう。

 ……で、孫策はここで思い切った待遇を張昭に与えている。

 いきなり、長史・撫軍中朗将
 すなわち文事・武事の一切を委ねてしまったのである。


 「俺ッチもアンタを信用するからよぅ。アンタも、俺を信用してくれや」


 ここでも、わかりやすい形で正解を選択する孫策。

 
 さりとて。
 さすがに、張昭も いきなり孫策にベタ惚れしちゃうようなことは、
 なかったのではあるまいか。

 (……くッ!
  この戦争好きのケダモノめッ! 誰が貴様などに籠絡されるかッ!)

 やたらと礼儀作法にうるさい頑固ジジイの見本みたいな張昭が
 破壊と暴力の申し子である孫策に、すんなりと臣従したとは考えにくいからだ。

 しかし。
 それでも しょっぱなから『事実上の宰相』という破格の待遇で自分を迎え入れようとする
 若き君主に対しては、一応は礼を尽くさねばならないような気持ちになったらしい。

 人間、自分に向けられる好意や信頼に対しては
 それなりに応えようとするもの。
 
 それに、張昭だって それなりの野心は持ち合わせていただろう。
 故郷を失った学者サンのままショボい一生を終えるよりは
 新天地にて、もう一旗あげてみようと思ったのではあるまいか。

 おそるべしは孫策。
 見事なる心理的揺さぶりである。
 まさに、キチガイと天才は紙一重だ。


 結果的には、まんまと孫策の計略に乗せられてしまった形の張昭ジイサン。

 とは言え、およそ人間として真逆の位置に存在している孫策に仕えるにあたり、
 それなりに葛藤はあったに違いない。
 
 ( 決して、あの若造の術中にハマッたわけではない。
  たまたま ワシとヤツの利害が一致しただけのことぢゃ!)


 どうにも、自分の中で
 負け惜しみじみた自己弁護を繰り返してしまう、やるせない日々。


 しかし。
 そんな張昭の かたくなな心も、やがて解きほぐされてしまうことになる。
 張昭が破格の好待遇で迎え入れられて間もなく、ちょっとした事件が起きるのだ。


 『 張昭 スパイ疑惑 』

 そう。若くして既に知識人の間でも名声の高かった張昭は、
 孫策のもとに就職して高い地位を与えられたことで、
 多くの北方の知識人から、賞賛のお手紙をもらってしまった
のである。

 張昭は悩んだ。

 ( いかん。……黙ってたら、ひそかに北と連絡をとってることになるし…… )

 ( 公表したらしたで、自分の影響力を誇るようなものではないか )


 どっちに転んでも、ヤバイ立場と言えよう。

 
 だが、結局 張昭は迷った末に孫策に報告。
 どうにも嘘がつけない性分のジジイだったようだ。


 しかし。それを聞いた孫策は愉快気に笑い、

 「 いやぁ、昔の賢人で管仲って人がいたけどよぉ。
 そいつを用いていた桓公って人は、管仲を完璧に信じていたらしいじゃん?」

 「 張昭の賢才は、管仲に匹敵するだろうし。
  んで、俺は張昭にすべてを任せているわけでぇー。
  ……てこたぁ、俺も、桓公のような覇者となれるんじゃねぇの?」

 「つまりだ。張昭、細けぇ事で悩んだりすんなよ、ってことさぁ♪」

 
……と言ったという。


 んで。この時の孫策のセリフが、張昭の運命を決定づけてしまうのだ。

 ありていに言うと、この件で張昭は孫策に惚れ込んでしまうのである。


 ( うおおおおおおおッ! 孫策様とは、なんと度量の広い方なのぢゃッ!?)

 いや、違うと思うぞ、ジイサン。
 ヤツは、単なる狂犬だ。ただ頭が切れるだけなのだ。


 ( 士は己を知る者の為に死す! この命、孫呉に捧げる覚悟だわぃッ!!)

 考え直せ。それはアンタにとって、間違いなくイバラの人生だ。


 ( 道を踏み外した不良達を、正しい道へ導く事。
   それもまた、天がワシに与えたもうた使命やもしれぬ!)


 くぅ〜〜、なんてこった。
 今、一人の老人が、道を踏み外しちまったい……。


 まぁ、そんなこんなで。

 孫策に惚れ込んでしまった張昭は、以後 彼を必死こいて補佐。


 周瑜・張昭という最高の『大義名分カード』をゲットした孫策は、
 思う存分に 『 戦争カーニバル 』 と 『屍山血河ピクニック 』を楽しむこととなる。


 しかし。
 さすがにまぁ、悪いことを重ねていると
 そのうちバチがあたるものだ。

 多くの敵を殺しまくり、わずか七年で呉という国を築いた孫策であったが、
 西暦200年、闇討ちにあって見事に暗殺されてしまう



 で、死の床において、孫策は またも考えなしに正解を選択する。

 弟の孫権を枕元に呼び出し、

 「俺っちには、小さいガキがいるけどよぉ。
  呉は、俺の息子にではなく、弟のオマエに任すことにしたぜぇ〜」

 「国を広げたり、天下に臨むのは俺が優れてるけどさぁ。
  国を守ったり、才能ある奴に心を尽くさせるのは、
  オマエの方が俺よりも優れてるからなぁ♪」


 とかなんとか言って、あっさり国を譲渡。

 普通は息子に継がせ、弟を後見にしそうなものなのだが。

 当時の呉は未完成であり不安定な国家であった。
 小さな息子に君主権を預けるよりは、
 しっかりとした意志を持つ弟に任せた方が、一族の繁栄につながると判断したのであろう。


 そんなこんなで、26年と短くはあったが、
 やりたい放題の人生をエンジョイして孫策はこの世を去る。

 まぁ、間違いなく天才型の君主ではあったが、
 間違っても現世に転生してくるようなことがあってはならない人物だと思う。


 そんな、孫策の死後。

 やりたい放題の、し放題だった兄貴の後を継がされた
 弟の孫権の心境は
 「たまったもんじゃねぇよぉ〜〜ッ」
 と、いったところであっただろう。

 この場合、国を 会社に例えてみるとわかりやすい。


 『 26歳で死亡した男が創設し、19歳の弟が社長として継いだ会社 』

 どーです?
 もし、貴方ならこんな会社に勤めますか?

 ……まぁ、絶対にイヤでしょう。こんな会社、いつ倒産したっておかしくない。

 貴方が株主なら、おとなしく社長の意向に従いますか?

 ……まぁ、間違いなく ナメてかかるでしょう。いや、それどころか。

 社長などお飾りにして、自分が実権を握りたくなるというもの。


 そう。呉とは、そんな国だったのだ。

 事実、兄貴が死んだ直後の孫権は
 国を継いだという重責に耐えられずに、ただただ涙に暮れるしかなく、
 あげく自分の部屋にこもりきりになっていた、と史書に記述されている。



 しかし。そんな設立七年目にして大ピンチを迎えた呉を救った二人の男がいた。

 それこそが、先に述べた周瑜と張昭だったのである。


 まず、周瑜。家柄的も年齢も格も実力も、全てが孫権よりも上だったにもかかわらず。

 孫策の死後、速攻で孫権に臣下の礼を取る。
 これによって、他の家臣が孫権にナメた口をきけなくしてしまったのである。
 陣営内でも屈指の実力者である周瑜が孫権を支えている以上、
 いくら不満があったところで他の有力者達も、一応は孫権に礼を尽くさなくてはならない。


 お次は、張昭。息子ほどに年齢の離れた孫権を、必死に励ます。

 とりあえず、
 見事な 「 引きこもり君 」 と化していた孫権の部屋に殴り込みをかけ、
 その胸ぐらをつかんで立ち上がらせ、
 無理やり喪服を剥ぎ取り、馬にまたがらせたあげく、
 閲兵式の場に引きずり出したというから、たいしたものだ。


 一歩間違えたら、そのまま人格崩壊を起こしていたかもしんない荒療治を敢行した
 このジイサンのクソ度胸には、惜しみない拍手を送りたいところである。

 さらに、何も知らない19歳のガキである孫権に対し、きっちりと
 スパルタ……もとい、英才教育を開始

 君主として必要な知識・礼節をたたき込むと同時に、
 激務とも言える君主の仕事を強力にサポート。
 ……ていうか、初期においては、ほとんど張昭がこなしていたようなものだろう。


 そうなのだ。周瑜と、張昭。
 この二人があってこその、呉であったのである



 しかし。この周瑜・張昭の二人に、思わぬ強敵が出現する。


 後に赤壁の戦いで、活躍する 『稀代の戦略家』 魯粛 子敬、だ。

 小説 三国志演義では諸葛亮と周瑜の間で右往左往する、
 お人好しの無能クンとして描かれているのだが……。

 実際の魯粛は、諸葛亮・周瑜にタメを張れる才能の持ち主。


 いや……。
 野心・狡猾さ・思想の危険度 においては、諸葛亮・周瑜など軽く凌駕する。

 別名 『 人間劇薬 』 魯粛子敬。

 こいつの出現で、呉におけるパワーバランスは、極めて危険なレッドゾーンに突入するのだ。


 偉大なる不良兄貴の死後。

 周瑜・張昭が必死にサポートしてくれるとはいえ、
 当の孫権にとっちゃ、未来とは暗雲たちこめるものでしかなかったであろう。
 そりゃそーだ、この当時の孫権に自信が持てる要素なんか、まったくなかったといっていい。

 まだまだ多感で未熟な、不安いっぱいの青年だったのだから。

 その孫権の心の隙間を、魯粛はついたのである。
 ……孫権の耳元に囁かれる甘い言葉。

 「くっくっく♪ 
  孫権様よぉ……。まぁ、そんなに心配するなって。
  俺が、あんたを助けてやるからさぁ♪」

 「呉の君主? 王様? 
  ……小さい、小さい! 男なら、狙うは、ずばり天下!!」

 「孫権様。アンタは、皇帝にもなれる男だ!!」



 コロリ。

 魯粛の言葉に、孫権は見事に やられてしまう。

 「天下……? 皇帝……!? スゲェッ!! 
  ねぇねぇ、ソレってどうやってゲットするの!?」


 兄が死んで放心状態にあった健気な青年の心を乗っ取ることに、
 魯粛は大成功したのだ。


 「うふふふ…。ズバリ、漢王室など無視!! 
  江南は、江南独自の路線を行くのです!」


 実はこれ、この当時においては危険思想そのものだったりする。


 ( い、いかん。実は、俺
  とんでもない奴をスカウトしちゃったのでは……?)


 孫権に魯粛を推挙した周瑜は、青ざめたに違いない。

 そう。周瑜は結構 漢王室には思い入れがあるのだ。
 なんたって、周瑜の家が名家なのは、漢の重職についた身内がいるから、こそ。

 一応、周瑜も

 「漢王室の権威は既に失墜しております。
  我等は我等で、独自の路線を行くべきでしょう」


 てな発言をしていたりもするのだけど、だからと言って魯粛のよーに

 「いっそアンタも皇帝を目指しちゃっても、いいんじゃない?」

 などと、だいそれた事をぬかすほど頭がブッ飛んじゃいない。

 「漢王室の権威に対しては、それなりに敬意を払いつつ
  束縛されることはないようにしましょうね」

 という程度の、スタンスにとどまる。


 魯粛みたいに、漢の権威を最初っからシカトしている奴は、
 さぞ難儀な相手だったに違いない。

 とは言え。
 魯粛を推挙した手前、さすがに孫権に対して彼を悪く言うこともできない。
 そういう意味でも、周瑜にとって魯粛とは最初から厄介な存在であったと言えるだろう。


 しかし。

 当然のことながら、張昭は激怒。

 この当時から既に張昭は建国の功臣。
 どこの馬の骨とも知れんよーな新参者の魯粛に対し、
 遠慮する必要性などカケラもないのだ。

 「ろ、魯粛……。きッ、貴様という男はッ? 
  若殿様に何を吹き込むかぁ!?」


 「孫権様、こんな奴を信用しては、なりませぬぅうううう〜〜〜〜ッ!!」


 そう。
 魯粛の批判、これこそが張昭の記念すべき
 『諫言人生のスタート』であったのだ。


 しかし。そんな張昭の心のこもった諫言に対し、

 孫権、いきなり反抗期に突入

 張昭の諫言を無視して、魯粛を重用


 まぁ、今も昔も、『不良とは付き合うな』という親心は、無視されてしまうものなのだ。

 あるいは、かつて引きこもりだった頃に
 張昭から受けた「荒療治」がトラウマとなっていて、
 それが不幸な形で化学反応を起こしちゃったのかもしんない。


 そんなこんなで。

 魯粛の出現により、なかなかスリリングな状況となった孫呉政権。

 とりあえず、ここでいったん整理してみよーか。
 だいたいこんな感じだ。(↓)


 周瑜 : 『武闘派。でも、漢王室の権威は認めている伝統思想』

 張昭 : 『反戦派。当然、漢王室の権威は認めている伝統思想』

 魯粛 : 『武闘派。しかも、漢王室の権威は認めていない危険思想』


 
まぁ、こうやって見比べてみると、
 赤壁の戦い以後、周瑜と魯粛が対立した
ってのも、わかる気はする。

 当然、張昭と魯粛などは、対立しっぱなしであったわけだ。


 さて。
 その結果、何が起こるか?

 答えは簡単。
 「政権内における主導権争い」
 
 揃いも揃って、自我が強いヤツらばかり。
 んで、おのおのが自分の理想を主君に押し付けようとしているのだ。
 こんな連中が仲良くできるわけがない。

 こういった「同一陣営内」のパワーゲームを背景に
 孫呉の歴史を眺めてみると……。


 赤壁の戦いにて、張昭が反戦を唱え
 魯粛が主戦を唱えた構図には、ひとつの違う解釈もできる。

 西暦208年における、赤壁の戦いの開始にあたって
 魯粛は、張昭に真っ向から対立して主戦論を展開。


 これこそが、魯粛の選んだ賭けだったと言える。

 ここで、戦いに勝利を収めれば、
 魯粛は張昭と並ぶ影響力を呉で振るうことができるのだから。


 群臣の中で魯粛 一人が開戦を主張した、ってのは こういう背景もあったのだろう。


 では、なぜ 張昭は反戦を主張したのか?

 これに関しては、まず
 張昭が 『 既成秩序に弱い 』 という弱点を
 持っていたからだと言わざるを得ない。

 つまるところ。たとえ、形式にすぎなくとも
 曹操が献帝の名において出した命令には、にわかに拒む名分を見つけられない


 張昭とは、秩序と権威を体現する人物なのだ。
 呉のヤンキー連中には煙たい存在ではありつつも、重要なストッパー。

 しかし、敵がより大きな権威を出してくると、張昭としては どうにもやりにくい。

 人に秩序を重んじなさい、と説教しておきながら
 自分が守らないわけにはいかない
のだから。

 なかなか複雑な立場に立っているのである。


 てか、政治的な視野で見れば

 この時点では張昭の降伏論も、
 ある意味で立派な戦略だったりもするんだけどね。


 
 この当時における大陸の情勢は
 曹操による完全な一局体制。

 劉備陣営は、いまだ蜀の地を得ておらず、
 荊州の片隅で今にも滅亡させられそーになっている自殺未遂者の集まり。

 ついでに言えば、
 孫呉政権とて支配下においているのは揚州、ただ一州のみ。

 後の、三国鼎立の時代に呉が支配下においた領土の
 半分の規模の国力しか所有していない、弱小勢力に過ぎない存在。


 普通に考えれば、こんな連中が手を組んだところで、どーにかなるもんでもない。

 そんな状況下において、

 「どーにもならんかもしれんけど、降伏するのもなんだか面白くない話だし。
  とりあえず、戦っておく?」

 とか、ほざくような政治家がいたとしたら、
 そいつは民衆の敵以外の何者でもない。


 戦争で勝てなかった国の指導者達に与えられる称号は、ただひとつ。

 『A級戦犯』である。


 一国の指導者たるもの、戦争には十分な勝算をもってのぞむべき。

 幾千幾万もの人命と、多大な物資を無駄に費やして
 「ごめんなさい、やっぱ負けました」
 じゃ、お話にもなりゃしない。

 A級戦犯と呼ばれる人達は、道義的に許されないことをした人達ではない。

 「勝てない戦争に挑んだ、その責任を取らなくてはならない人達」なのだ。


 このあたりの事情を考えてみれば、赤壁の戦いで張昭が降伏を主張したのも
 「単なる我が身 可愛さ」によるものではなく、
 主君である孫権を「敗戦国の王」という不名誉から救おうとした行為であったとして
 見ることもできるのではなかろーか。

 そもそも
 降伏だって、状況次第では有効な外交手段だ。

 特に、彼ら孫呉陣営の場合、大きな好材料を持ちあわせている。

 曹操陣営とは長江をへだてて南に位置するという事。
 ここんとこは、けっこう重要だ。

 今も昔も中国とは長江の北と南で、風土も文化も全く違う。

 考古学的に分類するなら、黄河文明と長江文明。
 使用する言語すら別としており、現在でも北京語と広東語じゃ発音がまるで違っていて
 全くといっていいくらい通じなかったりするんだ。

 ついでに言えば、
 曹操の本拠地と孫呉陣営の両者の間に広がる距離の問題。
 これがまた気が遠くなるくらいに離れていたりする。

 そんだけ距離も離れていりゃ文化圏も異なる両者が、
 マトモにドンパチやりあう事自体、考えようによっちゃ不経済この上ない。

 「とりあえず、降伏しますから。
  半独立だけは認めてもらえませんかね?」


 戦意バリバリの相手に対し、その機先を制する形で
 こー言っちゃうのも、それはそれで有効な手段。

 んで、攻めようとしている側にとっても、
 これはこれで悪い話ではなかったりする。

 中央から監察官を派遣しつつ、土地の統治は地元の有力者に任せてしまうのは
 古今東西、僻地を治めるにあたって変わることのない常套手段。

 つか、曹操の晩年と曹丕時代の前半において
 孫権はコレを選択していたりする。


 よーするに。つまるところ。

 交渉の持っていき方次第では、降伏とは戦争以上に
 有効な外交手段となりうるってコト。


 

 以上。長々となってしまいましたが。

 赤壁の戦いにおける張昭 の降伏論とは、
 そういった「負けて勝つ」事を念頭においた高レベルの外交的選択であったと言える。

 そもそも、張昭ほどの男が
 「降伏後の国家運営」を、しっかりと考えていなかったワケがない。


 長年にわたり交流を結んできた
 北方の有力な知識人達と相互に連絡をとりつつ、
 その人脈と自身の交渉能力をフルに使っての、
 身命を賭した「一世一代の大勝負」。

 おそらくは、悲壮感すら漂う決意をまとっての降伏論ではなかったか。


 ( たとえ降伏という不名誉な形をとることになろうとも。
   御主君と孫呉の命運は守ってみせるのぢゃ……ッ)

 
 戦わずして膝を屈する臆病者と、笑いたい者は笑うがいい。

 ( あるいは。
  ひとたび刃を交えて、勝てぬとわかった後で
  降伏するのもまた、ひとつの選択やもしれぬ )


 しかし。

 幾千もの、敵兵を殺し。
 幾万もの、味方の兵を死なせて。

 陣を焼き、船を沈め。
 多大なる軍資をいたずらに費やした後に。

 ようやく己の愚を悟った、と涙ながらに許しを請うたところで
 どれほどの寛恕を期待できるというのか。

 (そのとき、孫権様の命を。
  わが孫呉が、国として形をとどめることを。
  ……いったいどこの誰が、保障してくれるというのぢゃ?)



 など、と。

 自虐的な妄想と悲劇的未来の予測で、
 一人で悪酔いこいてる張昭ジイサン。



 責任感が強いタイプにはありがちな話と言えば、
 それまでなんだけどさぁ。

 えてして、足元をすくわれるのは

 そーゆー時なんだな、これが。



 そう。
 人間、ひたすらシリアスに思いつめてる時って、
 周りが見えなくなるものだ。
 
 とりあえず、張昭ジイサンの周りには約一名 とんでもなく危険な男がいて、
 そいつに対しては、四六時中でも目を光らせておくべきだったのだが……。

 この時、ジイサンはうかつにも、
 そのことを忘れていたようだ。


 いや。
 その約一名の、イカレっぷりは常識人間のジイサンにとって
 想像も及ばない地平に達していたと言うべきか。

 ジイサンを責めるのは、酷かもしれない。


 ……うん。
 世の中には、いるんだ。

 残念なことに。

 幾千もの敵国の兵が死のうと、
 幾万もの自国の兵が死のうと
 「そんなこたぁ、どーでもいい」と思えちゃうような男が。


 自分の目的のためなら、
 主君をそそのかして、わざわざ虎穴に追い込む事だって
 全然 平気なヤツが。


 頭の中には、
 大義とか忠節とか、そーゆー美徳はカケッラも存在してなくて
 もう、ただひたすら野心と策謀が渦巻いてて
 いっぱいいっぱいになっちゃってる外道が。


 なんてーか
 
『我欲の化け物』 としか言い様がないよーな、人格破綻者が。

 ……いるんだよ、確実に……。(涙)


 そして、不幸なことには、

 そーゆー現世における人外の存在
 権力の中枢までたどりついて毒息を吐き散らしつつ、
 血の色をした夢を見て悦に浸っていたりするんだ。


 できることなら、あんまり……。
 いや、心底 関わりたくないんだけどさぁ。

 話の展開上、無視を決め込むわけにもいかないし。

 ご登場 願うとしようか。


 ……というワケだ。
 さっさと出てきやがれ、この『人間劇薬』 !

 アンタの出番だ! 魯粛 子敬!!


 …………。
 ………………。
 
 ありゃ?
 ……出てきませんね。

 いったい、あの外道 どこに消えたのやら?
 
 曹操率いる八十万の大軍が
 怒涛の進攻を開始しようとしている危急の時に……。

 あ。
 いたいた。

 なんだ、孫呉のお膝元の揚州じゃなくて、荊州にいたのね。
 こりゃー、すぐには見つからんワケだ。(苦笑)


 ……ん?
 ちょっと待て。

 おい、オッサン!

 あんた、いったい 敵地 で何やってんだ!?
 
 
 そう。そうなのだ。

 この当時の荊州は、まだ孫呉の勢力圏ではない。
 敵地も敵地。
 孫呉にとっちゃぁ完全なるアウェイ。
 16年にもわたって抗争を繰り広げていた劉表が治めていた土地である。


 もっとも、この西暦208年の初頭、
 その劉表も志なかばで死亡。

 一応、敵対国同士とは言え
 それなりに使者のやりとりはしていたし。

 魯粛が弔問の使者として、荊州を訪問していた事も
 決して不自然な話ではないのだが……。


 だけど、この男ほど弔問が似合わない男は、そーもいまい。
 
 何か、裏があるに決まっている。


 なぁ、オッサン。
 とりあえず、白状しとけ。

 いったい、何を企んでやがる?


 「 やだなぁ♪ 企んでる、だなんて人聞きの悪い。

  ……ただ、さぁ。
  今、荊州では劉表の二人の遺児が跡目争いに没頭して、
  諸将達も二派に分かれて対立してるらしいじゃん?」


 あー、そのよーだね。
 ……で?

 何て言って孫権から、
 荊州への視察を許可してもらったわけ?


 「ん〜〜。……まずは、手始めにぃ……。
  あの梟雄、劉備をうまく使えないかと、思ってさぁ。


  劉備が新政権に協力し、団結していくようならこれに協力し、
  そーでなかったら、内紛状態の荊州に攻撃をしかけ、
  その土地をまるごと奪っちゃいましょぉ〜〜♪
 

  ……こんな提案を、してみたんだよね! 」



 お、おい。(冷や汗)
 

 「ついでに言えばぁ♪

  さらに劉備を焚きつけて、劉表の部下を手なずけさせ、
  共に曹操討伐に乗り出せば、天下の形勢は決したも同然ッ!


  ……てなコトも、孫権様には吹き込んでやった♪」


 ま、まじか?
 なんてドス黒い事を考えてやがるんだ、コイツはッ!

 
 ……いかがでしょうか、皆様。

 史実における魯粛とは、こんな事をフツーに考えて実行し、
 その計略の内容がまんま史書に記されちゃうよーな男だったのです。

 これを、外道と呼ばずして何と呼びましょうや?


 …………。
 ………………。

 しかし……。
 ふと、思うに。

 この時の劉備って、そんなに力があったけ?

 確かに、劉表が死亡した直後の、
 その時点ではそれなりに、荊州政権に対しても
 発言力を持っていたようだけど……。
 
 結局、蔡瑁をはじめとする次男派に追い出される形で、
 物の見事に、政争には敗退。

 あげく、長坂橋の戦いで曹操にボコボコにブチのめされ、
 その軍勢の大半を消失。

 魯粛が荊州に到着した時点では、
 明日をも知れぬ、お先真っ暗闇の状態であったハズ……。
 
 魯粛にとっちゃ
 「狙い自体は悪くなかったけど、タイミングが悪かった」
 というカンジだったと思うんだけど??


 「そぉ〜なんだよねぇ〜。
  あの大耳野郎とその一党、さんざん人に期待させといてさぁ……。

  俺様が荊州に到着したときの連中ときたら、まさに負け犬の見本市。
  見事なまでに敗残兵こいてやがる始末ときた」


 そーか、そいつはお気の毒。
 だけど、あんたも人のこと言えた立場じゃねーだろ?

 長旅のあげくに、無駄足か。
 とんだ道化じゃん。(笑)


 「 まぁね。
  とりあえず、無駄足ってのも、癪だったからさ。
  一応、劉備のヤツにも会ってみるだけ会ってはみたんだけど……。

  『旧知の、青梧太守の呉巨どのを頼るつもりです』 とか、言いやがんの」


 いいだろ、別に。
 ほっといてやれよ。


 「悲しいねぇ、気の毒だねぇ。
  人間、追い込まれると判断まで狂っちゃうものなんだねぇ。

  呉巨だなんて聞いたこともない小物に庇護を求めたところで、
  そのうち曹操に踏み潰されるのは、目に見えているのになぁ♪」


 …………。
 もぉ、あんたには何も言いたくねーよ。


 「まぁ、あんまり可愛そうだったからね。
  俺達と協力して共に曹操に当たるべきだ、と言ってやったらさぁ。
  ……案の定、ホイホイ乗ってきやがった♪」


 へ?


 「わが主君 孫権殿は英明にして情は厚く。
  江東六郡の兵は精強にして、食料は豊富なり。


  なーんつったら、渡りに船とばかりに飛びついて来やがんの」


 ……えーと?
 ごめん、ちょっと待ってくれないか。


 ひとつ、大事なところを確認したいんだけど。

 孫権から劉備に同盟を打診する許可をもらったのは
 まがりなりにも『劉備が荊州政権における有力者』であった時点の話

 ……だったよね?

 だけど、現状の劉備は有力者どころか負け犬で、
 その一党の実情は、敗残兵なんでしょ?

 そんな連中と手を組んで、どれほどの戦力や同盟効果が見込めるというのさ?


 そもそも、曹操にとって劉備がどれほど許せない存在か、知っているのか?

 曹操に言わせりゃ、劉備って

 『 呂布に城を奪われて
  転がり込んできたところを助けてやったのに、
  自分にとっての一世一代の大勝負だった官渡大戦の直前に謀反を起こし、
  大陸交通の一大要所である徐州を奪い、
  陣営内をガタガタに揺るがした、最悪の裏切り者』


 なんだぞ?
 
 地の果てどころか月面まで逃げたって
 追い詰めて八つ裂きにしておかないと
 気がすまないド畜生
、じゃないか。

 
 それほどに曹操から憎まれている劉備との、同盟案。
 それを、孫権に打診しただけでも相当に危険な献策だってのに……。

 いまや、劉備は敗残兵。

 荊州政権の内部に送り込んで、外交工作に生かせるような
 政略的価値のあるカードではなくなっている。


 孫呉政権にとって、この時点における劉備の価値なんて
 『曹操の敵対勢力であること』でしか、ない。


 戦力としてもさほど期待できないし、
 同盟効果だってどれほどあるか怪しいもんだ。

 その劉備と手を組むメリットが、果たしてどれだけあるというのさ?


 「そーなんだよねぇ。そうなんだけどぉ。
  しかし、今なお曹操にとっちゃ
  劉備が不倶戴天の宿敵であることも事実。

  だったら、その劉備と同盟しておけば、さぁ……」

 ハイ?


 「俺達も 曹操の敵 決定 だよね! 間違いなく♪」


 ……き、貴様……。
 自分が何を言っているのか、わかっているのか?


 「ああ、楽しみだなぁ。
  戦争になるだろうねぇ。きっときっと、大きな戦いになるだろうねぇ。
  長江に船団を浮かべて。船の上には兵士を並べて。
  沈めたり、沈められたり。殺したり、殺されたり。
  むごたらしくも鮮烈な戦いに、なるんだろぉーねー♪」

 か、勘弁してくれ。
 実際に殺しあうのは、兵士達だぞ。
 さして罪もない、誰かの父親や息子達なんだぞ。

 
 「まぁ、勝つか負けるかは、
  今の段階ではわからんけど、さ。
  でも勝てたら、素敵なことになると思わん?

  降伏論を唱えるよーな張昭ジジイは落ち目となり、
  俺様 魯粛が孫権様の右腕として
  辣腕を振るうことになる……、とかさぁ♪」


 ぞぉ    ッ!(鳥肌)



 そう。そうなのだ。
 とっくの昔に、当初の計画が破綻していたにもかかわらず。

 ただただ、自分の手前勝手な野心だけを優先したあげくの、外交交渉。


 まさに、独断専行の極み。
 

 この時の魯粛の積極的行動は、
 後世において、それなりに高く評価されることとなるのだが……。
 当時の情勢や、孫呉政権における政治的背景を考察すれば
 相当に危険な……、ぶっちゃけ 『 結果オーライ 』 もいいところの行為であったのである。


 だいたい、劉備一派の期待のホープであった
 諸葛亮を取り込む手口からして、どうにもえげつない。

 初めて諸葛亮と対面したとき、魯粛は開口一番
 こう言ってのけたという。

 「私は諸葛子瑜クンの友人です!」
  (諸葛子瑜=諸葛亮の兄、諸葛瑾のこと)

 ……まったくタチの悪い冗談だ。
 謹厳実直にして臣下の鏡のよーな諸葛瑾と
 傲岸不遜にして野心の塊のよーな魯粛が
 友人であるワケがあるもんか。
 
 少なくとも、諸葛瑾は魯粛のことを
 友人だと思っていなかったと思うぞ。

 絶対にな


 だが。
 この当時の諸葛亮は、いまだ二十代後半の青二才。
 しかも、その年齢にいたるまで誰にも仕えていなかったという書生クン。
 今でいうならば、大学院あがりの社会人一年生。

 社会的経験もろくに積んでない、純粋まっすぐボーイだった諸葛亮は
 あっさり魯粛の言葉を信用し、その場で親交を結んだという。

 んで、魯粛の言うままに使者として孫呉へと渡航


 小説 三国志演義では、さんざっぱら魯粛を利用している諸葛亮だが、
 史実ではまさに正反対。物の見事に、利用されてるんだなぁ、これが……。


 さて。
 さてさて。

 お待ちかね。
 再び、張昭ジイサンの登場である。

 主君の不興を覚悟で降伏論を唱えつつも、
 本国で外交工作に血道をあげていた張昭ジイサンでしたが。


 「あっろっはぁ〜〜♪
  ハーイ、皆さん。ご注目〜〜〜ッ!

  当代の英雄、劉玄徳殿が見込んだ期待の星!
  未来の名軍師、諸葛孔明殿を
  この魯子敬が連れてきましたよぉ〜〜ん!」


 
 しばらく姿を見せていなかった外道の声(↑)を聞いたときにゃ
 マジで卒倒しかけたんじゃないでしょーか。


 「 魯粛……ッ! 貴様……ッ!?
  き、きッ、貴様という男はぁ〜〜〜ッ!!」






       殺意で、人が殺せたら……ッ。
 そんな煮えたぎるような憎悪の思念を飛ばしてくるジイサン。

       ノン ノン ノン♪ ショータイムはここからだぜぇ……ッ。
 ジイサンの視線を真正面から受け止めつつ、ニヤリと笑う外道。

 
 まさにこの時こそが、両者による本格的な政争の
 火蓋が切られた時だったと言えよう。

 ある意味では、赤壁の戦い以上にスリリングな戦いだったかもしれない。
 
 
 降伏か、開戦か。
 互いに十分な説得力を持つ両者の言い分が、激突する形となったのである。

 一方は忠誠心ゆえの降伏論であり、
 一方は野心にあふれる開戦論であったのだけれども。


 とりあえず、交渉の序盤戦では諸葛亮が出陣
 
 三国志演義では並み居る呉の論客を
 ことごとくねじふせる舌戦を展開していたりするけど…….

 当然、その話は演義の作者 羅間中による嘘っぱち。

 実際の外交の場では、他国の使者を主君に会わせる前に
 追い返そうとするような、無礼で無益なマネをするような事はまずありえない。

 相手陣営の情勢を探る意味でも、この当時は
 どの陣営も、外交使節に対しては相応の礼儀をもって報いていたのだ。

 
 しかし。
 当の諸葛亮がおこなった孫権への主張は、
 かなり無礼な内容だったりするんだわ、これが……。


 「わが御大将 劉備どのは、不幸にも根拠地を持たなかったために破れ、
  こちらの方に身をよせることになりました。
  まぁ正直なところ、状況は厳しいですねぇ。
  孫権どのも、自分の戦力で曹操に対抗できると思うなら
  戦ってもいいでしょーけど。
  ヤバイと思うなら、とっとと武器を捨てて降伏するべきです」

 「 ……ところで。
  ひょっとして、和戦両様の心を持ちつつ
  この場にいたっても決意しかねてたりします?
  もし、そーなら最悪です。
  日ならずして、災難が降りかかることになるでしょう」


 諸葛亮の暴言はさらに続く。

 わが劉備どのは王室に連なるお方で、英雄の名は天下に聞こえ、
 川に水がそそぐがごとく人望を集めているお方だの。

 その劉備をして曹操誅滅の壮図が達成できないときは
 天命というべきであり、いさぎよく玉砕するのみだの。


 よーするに
 
 『孫権の自尊心を刺激しつつ挑発し、
  開戦を決意させよう大作戦』

 
 とでも呼ぶべき方法であり、その狙い自体は悪くなかったのだろうけど……。

 しかし、孫呉陣営の視点で見ると
 どーにもいけすかない生意気な若造、って感じだ。

 オニーチャンの諸葛瑾は、群臣の中で
 さぞ肩身が狭い思いをしていんだろぉなぁ……。

 まぁ、とりあえず蜀書における記述では、
 「諸葛亮が孫権に開戦を決意させた」
 みたいなカンジで描かれているし。
 
 諸葛亮としちゃ、
 「してやったり」と得意満面な気分であっただろう。


 だけど、呉書での記述では、そーでもないんだな。
 ハッキリ言えば、そんな単純な話じゃなかったのだ。

 確かに、さんざっぱら挑発された結果、
 孫権が「開戦の覚悟はできた」と諸葛亮に伝えたところまでは
 間違いのない話だと思う。

 しかし、その実
 このただ一度の会見の場で「開戦」が決定するほど
 当時の呉の孫権に、君主権は確立していない。

 呉とは、魏や蜀以上に
 『有力豪族達による、連合政権』色が強い、
 国家だったのだから。


 呉における孫氏とは、
 豪族達によって担がれた神輿の上で音頭をとりつつ
 意見をまとめていく事をまかされた指導者といった具合の、
 どうにも不安定な立場の支配者であったのだ。

 お世辞にも、
 絶対専制君主と呼べるシロモノではなかったわけ。



 後年、孫権は少しずつ支配力を高めていき
 君主権を確立していくのだが……。
 それは、まだまだ後の話。

 事実、この当時の孫権には、
 一回の会見で開戦を決定するほどの権力はなかったようだ。

 案の定、この会見の後で
 孫呉陣営はガタガタに混乱している。

 開戦か、降伏か。
 諸葛亮が席をはずした後、軍議はおおいに紛糾したのである

 
 とりあえず、張昭ジイサンの目には
 頭の痛い光景として映ったに違いない。

 ようやっと降伏路線でまとまりつつあった陣営内が、
 再び、手前勝手な都合を口にする困ったチャン達によって
 乱れに乱れ始めたのだから。

 「おのれ、魯粛の大馬鹿者めがッ!
  あんな書生あがりの若造を連れてきて、
  いたずらに我が殿の心を惑わしおってからに」


 ……とは、言え。

 張昭ジイサンにとっては、最悪の展開ってワケでもない。
 
 確かに、
 一時の気の迷いで主君が開戦を口にしたり、
 降伏後の身の振り方に不安を覚えて騒ぎ出す豪族達も出てきたりと、
 面倒なことにはなってしまったが。

 どいつもこいつも、再び 一喝して黙らせればいいだけのこと。

 
 『振り出しに戻る』、てな状況になったに過ぎない。

 むろん、既にタイムリミットは迫っているので、
 うかうかとはしていられないのだけど……。


 「まぁ、いいわい。
  結局、あの諸葛亮とかいう若造のやったことなど
  無駄に時間を費やし、場を混乱させたくらいのものぢゃ」

  
 魯粛の小細工を鼻で笑いつつ、
 多少は緊張の糸が緩む思いの張昭ジイサン。
 
 
 しかし……。
 この時、ジイサンは気づいていなかった。
 
 魯粛の目的が、まさに
 『 時間を費やし、場を混乱させること 』
 それ自体にあったことを。

 曹操への返答の期限が目前に迫った状況において
 降伏路線で一色に染まった情勢を、打開すること。

 いわば、張昭が用意していたお膳立てを
 ひっくり返してブチ壊すことこそが、魯粛の狙いだったのだ。
 

 魯粛 子敬。
 少年時代において既に、地元の長老から
 「あんな狂児が跡取りでは、あの家もオシマイじゃぁあ〜〜ッ!」
 と、お墨付きをもらっていた悪魔の申し子。

 そんな男を相手どってしまった事自体、
 張昭にとっては不運だったのかもしれない。


 降伏か開戦か。

 諸将群臣がそれぞれ一歩も譲らず意見を戦わせ、
 ただひたすら収集がつかない状態になっていく中。

 ここで魯粛は、再び反則技を使用する。


 紛糾する軍議から逃れるべく、
 トイレに駆け込む孫権を追いかけて、
 
(注:史実です)
 再度 悪魔の囁きを実行したのである。


 「孫権さまぁ。ちょいと忘れてやしませんかぁ?
  あんた、しょせん、成り上がり者なんだよ?」

 「漢王室から与えられている官位も、俺達 家臣とそう変わらないし。
  ハッキリ言って、アンタが王様気取ってられるのは、
  俺達が支えてやっているからなんだぜ?」

 「……俺達は、いいんよ。先祖代々の土地があったり、教養があったり。
  曹操に降伏したって、再就職先にも、困らないわなぁ?」

 「特に、俺ほどの名声の持ち主なら。
  故郷に帰った後は、そこで一州の知事を任されるのも夢じゃねーぜ」

 「でも、孫権様はどうなんよ? 
  降伏した後は、惨めな人生しか待ってないぜぇ♪」


 これが、家臣が主君に対して言う言葉であろうか、と疑いたくなるが。

 しかし、この当時は孫権も二十代半ばのクチバシの黄色いヒヨッコ。

 「た、確かに、魯粛の言うとおりかもしれん。
  皆の意見は、私を迷わせるだけである。
  魯粛の言葉こそが、天の意思であると思うべきであろうな」


 魯粛の言葉を真に受けて、魯粛に感謝までする始末。


 ここにおいて、孫権も、ついに不退転の決意で
 開戦に踏み切ることになる。

  開戦にしぶる群臣達の前で机を叩っ斬り、

 決意表明のデモンストレーションを披露。


 張昭を含む降伏派が青ざめる姿を尻目に、
 魯粛ひとりは悪魔の笑いを浮かべていたに違いない。


 このあたりの事情を踏まえてみると

 この西暦208年前後においては、この魯粛こそが
 大陸でもっとも危険な男だったようにも思えてくる。

 魯粛は、どうしても魏と呉に戦争をさせたかったのだ。

 新参者の自分が、
 建国の功臣 周瑜と張昭と張るくらいの地位を手に入れるために。

 国家と主君の命運をチップに積んだ、
 ハイリスクハイリターン
ギャンブル



 ……本当にコイツだけは洒落になっていない。
 とにかく危険。まさに劇薬。

 のちに数十万もの規模で兵士達が殺しあう
 三国鼎立後の大戦争時代。
 それを招いた原罪はこの男にあると言っても過言ではなかろう。

 『 狂っているくせに、頭が切れる 』
 と、いう一点においては、あの孫策とすら肩を並べるかもしれない。



 この際、ハッキリ言ってしまえば
 当時は、あの諸葛亮すら魯粛の手駒のひとつに過ぎなかったと言っていい。

 「……まぁ、思っていた程度には
  そこそこ働いてくれたわなぁ♪」
 
 そんな魯粛の、悪意に満ちた声が聞こえてきそうではあるけれども。
 
 赤壁の戦いの直前、
 その当時の呉の国内情勢を考えれば
 他国の使者が、いかに弁舌をつくしたところで
 開戦の確約なんて取れるもんじゃない。

 それでもなお、諸葛亮を招聘したのは
 劉備一党との同盟を既成事実としつつ、
 降伏路線で一色に染まっていた空気を取り払う
 一種の起爆剤として、利用するため。

 魯粛にとっては、それだけで十分だったのだ


 その後の手順は、以下。

 「ひとたび降伏すれば
  当然その後は、呉の国内の政治的情勢は変わってくる」
 
 まずはその点を、おおいに強調する。

 その上で、
 「もしも従来通りの統治が認められなかった場合、どうするか」
 と、いった論法で押していくのだ。

 孫呉政権が地元の豪族達の寄り合い所帯である以上、
 いくらでも彼らの不安をあおったり、焚きつける事はできただろう。

 そして
 有力者達同士による意志統一が、
 そこまで困難な状況になってしまえば。

 神輿となる孫権の発言力は、一気に増すのだ

 結局、その孫権が開戦に踏み切ったのもまた、
 統治者としての立場の確保するためであり、
 一族の未来を切実に願うゆえにだったに違いない。

 つまるところ。
 孫権を動かしたのは
 諸葛亮の外交能力ではなく、腹心の魯粛による脅迫めいた「利益論」。

 そう考えた方が、より現実的だ。


 諸葛亮の説いた『理』よりも、魯粛の説いた『利』の方が

 説得力があったと言えばいいだろうか。

 人間は大きな決断をする時には、理論ではなく利害で動くもの。

 まぁ、三国志演義では赤壁の戦いの主役は諸葛亮だけど、
 史実においては魯粛こそがキーパーソンであったと考えて、まず間違いない。


 んで。

 このときは、周瑜も当然 開戦の方に動く。
 まぁ、根っからの戦争好きだし。

 用兵家にありがちな話、『少数をもって多数を討つ』という
 乾坤一擲の賭けに対して、アブナイ誘惑を感じていたのだろう。

 とは言え。

 わずかな勝算に、確かな勝利の予感を見込んだ上で
 決戦に挑んだ周瑜の感性は、やはり天性の物だ。
 
 魯粛のお膳立てがあったとは言え、
 決定打となったのは周瑜の軍事的才能だったと言える。


 そう。
 周瑜・魯粛も、このときばかりは 目的が一致したためか、
 ガッシリと協力してコトに当たったワケだ。


 ……で、結果は皆様の知るとおり、呉の大勝利。


 まぁ、この際 言ってしまえば。


 史実における

 
赤壁の主役は周瑜と魯粛。


 外交の場ですら、ろくな確約もとれなかった諸葛亮などお呼びじゃない。

 彼が三国志後半の主役として、
 真価を発揮するのは北伐以降の話。

 
 この時、時代を動かしていたのは周瑜と魯粛だったのだ。


 ……もっとも、彼らが仲良しでいられたのは、赤壁の戦いの時だけだったらしい。

 事実、あまり知られてはいない話ではあるが
 赤壁の戦いの後は周瑜と魯粛はバッチリ対立してるのだ。


 ちょっと極端な見方かもしれないけど。

 赤壁の戦いにおいて、周瑜と魯粛が手を組んだのは、
 あくまで強大な敵 曹操と戦うための
 仮の協力関係に過ぎなかったのではなかろーか。


 赤壁の戦いの後の、彼らのスタンスは殆ど 『ライバル関係』。

 漢王室の権威を無視し、
 呉が独自の路線をゆくべく天下三分を唱えた魯粛

 漢王室を権威を重視し、
 献帝を曹操から奪還すべく天下二分を唱えた周瑜


 劉備一党に対する対応だけでも、いかにこの二人が暗闘を繰り広げたことか。
 

 赤壁の勝利のドサクサにまぎれて
 荊州南郡をことごとくかっさらった劉備に対し、

 その統治権を認めた上で勢力拡大に協力し、
 曹操に当たらせようとした魯粛に対し、周瑜は真っ向から対立。

 「劉備を賓客として招聘した後で拘束し、
  人質にとった上で、関羽と張飛をこき使ってやりましょう」


 という、おっそろしい献策を孫権にしているくらいだ。

 
 美周郎と呼ばれる美形には、そぐわない悪意に満ちた策略ではあるが……。

 四六時中、狂気を撒き散らしている魯粛のような
 外道を相手にやりあっていたんだ。
 そりゃ、いつまでも正気じゃいられないって。

 だが。

 やはり、こーゆー危険な奴らはあまり長生きできないものらしい。


 赤壁の戦いから2年後周瑜が他界し、
 さらにその7年後に、魯粛が病死する。


 周瑜の場合、たぶん色々と無理をしていたからだろう。
 孫策のような異端児を相手に親友として付き合い、
 その後は魯粛のような狂児と向き合っていたのだ。

 ……長生きできるハズがない。おおいに同情したいところだ。


 魯粛の場合、おそらく自分の毒でやられたんだと思う。
 赤壁の戦いの後は劉備一党に手を焼かされ、
 現実と野心との間で、折り合いがつけられなくなっていたのだろう。

 ……長生きしてほしくもない。まったくもって自業自得といった感じだ。


 とにもかくにも、
 コイツらが生きていたころは、
 呉も相当に対外戦争を繰り返していたわけで。

 逆の言い方をすれば、このムチャな二人が死んでくれたおかげで、
 よーやっと孫権も落ち着いて
 国家戦略を専守防衛に移行してみようという気に、なれたのではなかろうか。

 ……で。

 無責任にも、さっさと他界した危険きわまる若造 二人の
 暴れた後始末をしたのが、張昭だったりするのだ。




 周瑜と魯粛。
 この二人の死後、すっかり王様モードに入ってしまった孫権を、
 ことあるごとに抑制したのが、この苦労性のジジイなんだよね。



 周瑜と魯粛が残したものとは、何だったのか?

 結論から言えば、孫権の君主権



 ここんとこ、ちょっと注目していただきたい。

 そう。

 赤壁の戦いの時点では、
 孫権は 君主と言っても大きな力を持っていなかったのだ。


 例の魯粛の発言が、ソレを裏付けている。


 しかし、赤壁の戦いで周瑜が勝利を収め

 その後 魯粛が劉備と協調路線を計って呉の政治基盤を安定させた
 
 そのおかげで。


 この二人が世を去った頃には、孫権も立派な君主権を手にしていたわけ。


 そーやって考えてみると、孫権という男もまた、
 間違いなく 『 王者の資質 』の持ち主であったと言える。
 
 周瑜と魯粛ほどのアブナイ男達を、見事に使いこなしたうえで、
 王様としての地位を確立したのだから。

 アニキの孫策ほどのカリスマ性と天才的な感性を持っていない孫権ではあったが、
 人材を使うことに関しては、確かに孫策以上の手腕を持っていたと評価したい。



 しかし。
 困ったことには。

 彼ら兄弟の場合、その血統を手放しに褒められるか、といえば
 そーでもなかったりするのだ。

 どうにも一筋縄ではいかない連中だったと言うかさぁ……。

 なんせ、あの一家、
 孫一族のDNAには 『 人様に迷惑をかける 』 というプログラムも
 しっかりとインプットされていたのだから。

 とにかく、始末におえない。


 初代の孫堅は、嫁さんの呉夫人を手に入れる際に、
 脅迫罪すれすれの行為を働いてるし。

 二代目の孫策にいたっては、略奪婚・殺人・恐喝・器物破損・その他もろもろ。
 むしろ、やっていない犯罪から数えた方が早い。


 三代目の孫権も、ご多分にもれず。恐怖の酒乱ボーイにして遊び好き

 酒に酔っぱらっての乱痴気騒ぎやら、酒の席で部下との大喧嘩やら。
 狩りが大好きで、虎をハンティングすることに無上のスリルを感じているやら。



 もーどーしよーもないほどに、この人は
 悪い意味でも 『王者の資質』 の持ち主だったわけ。



 んで。

 そんな困った野郎の孫権に、張昭はことあるごとに諫言しなくてはならなかった。


 「今日は船から落っこちるまで、飲もうぜぇえええ〜〜〜〜〜〜ッ!!」


 と叫ぶ孫権に対して、

 「昔 滅んだ殷という国の王様も、酒が大好きでしたっけのぉ?」

 と皮肉をかまし宴席の席を蹴ったり。


 「うっきょぉおおおお!! 虎を狩るスリルはたまんねぇぜ〜〜〜〜ッ」

 てな具合に、ハンティングに狂って山野を駆け回り、そのあげく
 虎から反撃を食らい、乗っていた馬の鞍にひっかき傷をつけて帰ってきた主君を

 「馬鹿ですなッ! 
  王様としての威厳もヘッタクレもありませんなッ!!」


 と、こっぴどく叱りつけたり。


 周瑜と魯粛という不良友達によって、すっかり毒されてしまった孫権を、
 一生懸命 更正させようと頑張ったわけだ。

 むろん、更正させなきゃいけない困ったチャンは孫権だけじゃない。

 孫堅・孫策以来、すっかりとヤンキー国家と化してしまった孫呉において、
 必死に秩序を主張し、国家としての体裁を整えるべく、このジイサンは本当に頑張っている。


 なんせ、孫権をして

 「 宮中では皆が俺を崇めてくれるけど、
  外では皆がジジイを尊敬してるんだから、やりにくくて仕方ねーぜ」


 と言わしめているくらいだ。



 平たく言えば、成り上がり者の孫権と、権威を代表する張昭

 この二人が、しばしば対立したのも無理はない。


 しかし張昭がいなければ、孫呉という国が三国時代の最後まで持ちこたえるほどの
 完成度を得ることは出来なかったのは間違いないだろう。

 国家が国家として成立するには、当然
 知識人・インテリ官僚といった頭脳集団を揃えなくてはいけない。

 全体的に体育系なノリの 『 ヤンキー国家 孫呉 』 において
 建国の当初から発展期に至るまで、
 常に 『 文化系の人材の代表 』 として踏ん張り続けていた
 張昭の功績は極めて大きい。


 
 ありていに言えば、

 曹操に多くの知識人を推薦した荀ケと同様の役割を、
 呉では張昭が果たしていた


 ……てなカンジだろうか。


 周瑜・魯粛の存命中は政治的立場から彼らと戦いを繰り広げ、
 彼らの死後は 『 知識人勢力 』を代表して
 主君 孫権と火花を散らした硬骨の人、張昭。



 数十年にわたって孫呉に忠誠を誓いつつも、
 権威を体現する知識人としての立場ゆえに幾度となく主君と激突し
 それゆえに役人としての最高位である丞相の地位は
 与えられることがなかった美学の男、張昭。




 どーです、皆様? 

 ……これを極上ジジイと呼ばずして、なんと呼びましょうや?

 


 【 蛇足 】

 『良薬、口に苦し。諫言は、耳に痛し』 と言います。
 その言葉に従えば、まさに張昭とは孫権と呉の連中にとっての
 良薬であったと言えるでしょう。

 しかし、魯粛はどうでしょうか?

 まさに、劇薬という表現がぴったりです。

 劇薬とは、本来はその名の通り
 『劇的な対症効果をあげる薬』 として使われる特効薬なのですが
 同時に大きな副作用をも、ともなうのです。

 魯粛はその大胆な戦略と独断性をもって、
 孫権に仕えた当初から多大なる貢献をしました。

 しかし、
 彼が唱えた「黄祖討伐」や「赤壁開戦」は呉の軍事国家ぶりに拍車をかけ、
 さらに「劉備一党の保護」は、後に呉蜀の荊州領有問題へと発展します。

 どうにも、彼の献策には大きな副作用を
 ともなうものが多かったと言えるでしょう。


 『良薬』 VS 『劇薬』

 として火花を散らした両名ですが、
 結果的には 『良薬』 張昭 にこそ、軍配が上がるのではないでしょうか。

 『劇薬』 魯粛の死後も、主君 孫権のための 『良薬』 として
 己を貫いたところは、おおいに評価したいところです。


 もっとも、個人的には 『劇薬』 が好きで好きで
 たまらないのですけどね。
 ついつい調子に乗って、
 こんな激長テキストを書いてしまったくらいに。(苦笑)

 ……なにはともあれ。

 ここまで読破してくださった、貴方へ。


 
「お疲れ様です。そして、有難うございました!!」