私評 『 太史慈 』

孝行息子、ではないと思う。絶対。

 演義では、最初は孫策と敵対しつつも、
 戦場での熱い一騎打ちを経て友情が芽生え、以後は孫呉に合流。
 合肥の戦いで戦死するまで、
 ひたすら孫呉に仕えた『義の人』というイメージの強い太史慈だが。


 どーやら、正史における太史慈とは、そんな単純なタマではなかったらしい。

 一言で言うと、先天的問題児

 ある意味、あの狂犬野郎 孫策と類友である。間違っても、優等生キャラではなかったよーだ。


 ここでは、そんな素敵なロクデナシ、
 太史慈くんのやりたい放題人生を紹介しましょう♪


 まず、この太史慈。意外と、若い頃から頭は切れるニーチャンだったらしい。

 若干20歳そこそこで武官デビュー。しかも、
 21歳にして地元のトラブルを解消すべく、朝廷に派遣される使者に大抜擢されている。

 しかし。やっぱり。生まれついての不良である。

 この男はいきなり、ここでやらかした。

 その罪状は以下。


 都に到着した太史慈は、
 対抗勢力である青州が派遣した使者から、言葉巧みに上奏文を奪取。

 それとすり替える形で、
 故郷の郡から預かっていた上奏文を、ちゃっかり提出。



 まぁ、太史慈からすれば、してやったり、といったところ。

 「いっえーぃ♪ 
  任務完了ぅうう〜〜〜ッ!! ヒャッホゥ♪」

 …てなカンジで得意満面でチョーシこいていたに違いない。

 しかし。
 それに引き換え、気の毒なのは太史慈から上奏文を取り上げられた使者殿だ。

 あわてて上奏文を再提出したのだが、
 当然 それが受け入れられることはなく、
 結果的に朝廷からは太史慈サイドに有利な判決が下ったそうな。


 「ざまぁみぃ〜〜♪ 
  世の中、勝ったモン勝ちぃ〜〜♪ 俺サマの勝ちぃ〜〜♪」


 ……ますます調子に乗る太史慈。

 しかし世の中、そんなに甘くない。


 不届きモノである太史慈に対し、

 敵対勢力である青州サイドは追っ手を派遣。



 まぁ、間違いなくブチ殺す気マンマンであっただろう。


 「や、やべ!! …と、とんずら〜〜ッ!!」

 ここにおいて、太史慈の取った選択は……逃亡


 現代風に言うと、公文書横領をやらかしたあげく、

 遠く中国大陸の北の果て遼東半島まで逃亡し、

 身を隠した指名手配犯 太史慈


 ……これをロクデナシと言わずして、なんと言おう?


 んで。

 数年後。

 よーやく、ほとぼりが冷めた頃だと判断した太史慈は、
 ちゃっかり郷里に帰還

 しかも、しっかりと実家の母親にパラサイトする前科者無職のプーときた。


 もー、どーしよーもねーよ、こいつ。


 しかし。ほどなく、そんな太史慈に親孝行のチャンスがやって来る。

 北海の太守 孔融が黄巾賊の残党に囲まれて大ピンチ、
 というニュースが到来したのである。


 おりしも、太史慈の母親はかつて
 孔融から何度か贈り物をもらっていたという、
 浅からぬ関係にあった。
 
 当然、太史慈の母親としては、心中おだやかではいられない。
 なにせ、恩人が生命の危機に晒されているというのだから。

 ……そんな、彼女の目に映るのは。

 若い身空で日がな一日、家でゴロゴロしている最悪のドラ息子。

 さすがに太史慈の母親も
 ここらで、我慢が限界に達してしまったのではないだろうか?

 そんなこんなで。


 「ええぃ!! 
  さっさと孔融サマを助けに行きなさいッ!! この ゴクツブシッ!!」


 愛に溢れたエールを息子に送る、母親。


 「うっせぇ、クソババァッ! 行きゃいーんだろ、行きゃ?
  もー帰ってこねーよ、こんな家ッ!」


 涙ナシには聞けないような決意の言葉で、母親に別れを告げる孝行者の息子。


 おそらくは、このように心温まる光景が、親子の間で展開されたに違いない。


 後世、太史慈の孔融救出劇は、
 三国志における親孝行のエピソードとして語られているが、
 これに対しては、ちょいと異論を唱えたいところである。

 なんせ、その後も太史慈はろくに故郷に寄りつかず、
 大陸をあちこちフラフラしていたりするのだから。

 「真相は、単に家を飛び出して
  大暴れしたかっただけなんじゃねーの?」

 と考えた方がいいと思うのだ。



 しかし、何はともあれ。

 太史慈の孔融救出劇、これはこれで、
 実に起伏に富んだ物語であり、興味深いものであったりする。

 その内容は、以下。


 まず、孔融のこもる城には、なんとか黄巾賊の包囲をくぐり抜けて侵入に成功。
 やがて、日増しに厳しくなる包囲に対し、奇抜な突破作戦を考案する。

 夜明け前に城を囲む塹壕に的を設置し、
 それを城内から弓で射ること数日。

 最初は驚いて押し寄せた賊軍であったが、
 さすがに毎日それが続けば、賊兵達も飽きてくる。

 やがて、すっかり油断した賊兵の姿を確かめてから、
 今度は本当に賊軍の包囲網に対し、単身 馬で突撃。


 囲みを突き抜け、追いかけてくる数人を弓で射殺して見せた太史慈に対し、
 あえて追おうとする者はいなかったという。


 包囲網を抜けた太史慈は、そのまま劉備の陣営に駆けずり込む。

 当然、目的は救援依頼。


 「ヒャッホゥ、劉備殿♪ 
  グッドニュースを、お届けにまかりこした!」


 本来なら、面倒事を持ち込んだだけなのだが。

 それをそう思わせないくらいに
 太史慈って、けっこうクチがうまかったりする。

 「あの有名な! 孔子様の子孫である、孔融殿が!
  劉備殿、アナタの助けを心待ちにしていますぞぉ♪」


 ……こー言われると。

 これはこれで、この当時 ほとんど無名だった劉備からすると、
 メジャーになれるチャンスに聞こえてくるから不思議だ。


 「おおぅ♪ 
  孔融殿は、世に劉備あることをご存知だったかッ!」


 あっさりと、太史慈の口車に乗って感激する劉備。

 「てなワケで劉備殿♪ 
  この太史慈に、兵士を貸していただきたい♪」


 調子に乗る太史慈。
 
 「もちろんだ、太史慈クン!
  必要なだけ、連れて行くがいい!!」

 太史慈の言うがままに、なけなしの三千の兵士を貸してしまう劉備。


 「サンキュー♪ じゃーな、劉備殿♪ 
  孔融殿には、よろしく言っておくからよッ!」


 もらうもんもらったら、長居は無用


 太史慈は兵士を連れて引き返し、賊軍を追い散らすことに大成功。

 んで。

 太史慈、あっさりと手柄を独り占め


 なんせ孔融からすれば、兵を貸してくれた劉備よりも
 敵を追い散らしてくれた太史慈の方が、インパクトが強い。

 太史慈に対して

 「君は私の年若の友人だ」

 とまで評価しちゃったりするのだが……。


 劉備からすると、単に太史慈に利用されただけ、ってカンジもする。

 後に、劉備が他人を利用しまくるようになったのは、

 この時のショックが大きかったからかもしれない。


 んで。

 この後、太史慈は孔融の元をはなれ、同郷の劉繇の元へと居候を決め込む。

 どーせ、この不良息子のロクデナシのことだ。

 なにかと儒教の教えだの礼法だのと、うるさい孔融の元にいるのがわずらわしくなったのだろう。

 
 しかし。

 ここまでは、好き放題に、世渡り上手の罰当たりをこいていた太史慈であったが。


 劉繇の元では、あまり厚遇されなかった。

 理由は、当時三十歳に満たなかった若造の太史慈を重く用いると
 世間から笑われないかと、劉繇は気にしていたからだ。

 まぁ、仮に太史慈が若造でなくとも、
 たぶん重用しなかったようにも思える。

 都でバリバリのエリートとして鳴らしていた
 劉繇のような優等生タイプにとっては、太史慈のような不良タイプは
 どうにも扱いにくい相手だったに違いないのだから。

 とは言え。

 太史慈としては、当然 面白くない。

 「ちっきしょー、劉繇のクソオヤジめ。
  この俺サマに偵察くれぇしか任務を与えないとは…」


 とかなんとか、ぼやきつつも
 一応 任務はマジメに遂行するしかない、不遇の日々。


 しかし、運命の転機は、突然に訪れる。


 ある日のこと。

 太史慈が部下一人を連れて出かけた、ある山中にて。


 「うっきょーぉおおお♪ 
  狩りだぁあああ♪ ハンティングだぁああああ♪」


 ……どこからか、
 明らかに頭のネジが何本かぶっ飛んでいそうな男の叫び声が聞こえる。

 「やい黄蓋! 韓当! オメーラ、ノリがワリィーよ!
  そりゃぁ、山の中で鹿なんぞ狩るより、
  戦場で人間を狩った方が楽しいけどさぁ♪」


 およそ尋常ではないセリフまで聞こえてくる。

 
 ( う……。な、何事だ?)

 当然、偵察の任務についている太史慈としては、
 物陰から様子をうかがう事となる。

 そんな、彼の目に映ったのは。


 タチの悪い冗談を口にして、ご満悦の狂犬のような男が約一名

 その後ろで、すっげー嫌そうな顔をしている猛将達が十三名


 (……あ、あれこそは孫策……! 
  後ろにいるのは、孫呉の武将達か……!?)


 フツーなら、ここは君子あやうきに近寄らず。
 さっさと引き返すのだけど。


 太史慈もまた、フツーではなかった。

 自分は部下を一人しか連れていないくせに、孫策一行に対して突撃を敢行。


 「うはははははッ!! らっきぃい〜〜〜ッ!」

 
一国の君主ともあろう者が、フラフラと
 こんなところをうろついているのだ!

 これを討ち取れば、俺様の出世コースは約束されているではないか!!


 んで、孫策の反応は。


 「うっきょぉおおおお〜〜ッ!? お、おもしれぇええ〜〜ッ♪」

 この孫策と、その配下である黄蓋・韓当以下
 十三名の武将達に、単身 喧嘩を挑むとは?

 こいつ、マジ イカレてるよッ! おもしれーよッ!! 
 最高だぜ!!! 楽しもうぜぇ〜〜!!!!


 ここにおいて。この、キチガイ 約二名によって。


 記念すべき

 『正史三國志』において記録されている唯一の、

 一騎打ちバトル
が開始されたのであった



 ……そう。

 およそ、一騎打ちなどが展開されるのはフィクション・物語の世界ぐらいで。

 実際に、そんな危なっかしいマネをやらかす武将など、
 現実世界においては滅多にいないのだ。


 後にも先にも、
 『正史三國志』において一騎打ちを楽しんだ馬鹿者は、
 この二名のみである



 んで。

 孫策は太史慈の馬を刺して、太史慈が首に下げていた手戟を奪ったり。

 太史慈は、孫策から兜をもぎ取ったりと。


 まるで現代における、総合格闘技もかくや、というべき
 取っ組み合いを展開した二人だったが。


 さすがに周囲の人々が、いつまでもそれを放っておくはずもない。

 「ええいッ! 
  皆の者、この馬鹿二人を止めろぉおおお〜〜ッ!!」


 孫呉の猛将達が、彼ら二人の間に割って入ることによって、バトルは中断。


 「わわわわッ!? て、てめぇら邪魔するなぁ〜〜ッ!」

 「あ、ちっくしょうッ! 孫策め、命を拾ったなッ!」


 ……といった具合に、周囲の人々の手によって、
 強制的に彼ら二人の対決は「判定 引き分け」という形で収まることとなったわけだ。


 しかし、話はここで終わらない。

 
 ドサクサにまぎれて逃亡に成功した太史慈のワリを食う形で

 その主君である劉繇は見事に、とばっちりを受ける結果となってしまったのだ。



 ……と、言うのも。

 狂犬野郎ではあるが、孫策は頭が切れる男でもある。
 早々に自分にタイマンを仕掛けた男の所在を特定してしまったのだ。

 「うっきょぉおお♪ 
  この小覇王、孫策サマに喧嘩を吹っかけたのは。
  どーやら、劉繇の配下らしいなぁ……♪」


 すなわち。

 劉繇は、クレージードッグ・孫策から本格的に、
 ターゲットとしてロックオンされてしまった、ということ。

 
 ……これって、ほとんど死刑宣告に近い。

 
 ほどなく、揚州刺史 劉繇は、孫策の猛攻にさらされ、逃亡。
 その勢力は滅亡する。


 んで。責任の半分を負うべき、太史慈はどーしたかというと。

 なんと、

 軍勢の大半を引き継いで、ちゃっかり独立を宣言。

 ここまで来ると、もう疫病神としか言いようがない。


 しかし。

 さすがに、今回ばかりはお調子者の太史慈の思惑通りにはいかなかった。


 一時的に独立をしたとは言え、しょせん敗軍を乗っ取っただけである。

 勢いに乗る孫策に敵するには、かなわずに敗退。


 んで。その後、太史慈がどーしたかと言うと。

 またも逃亡。

 ……ホントに無責任とゆーか、進歩がないとゆーか……。


 しばらくは山中に身を隠していたらしいが、今度はあっさりと発見され捕縛。

 孫策の前に引き立てられることとなる。


 しかし。あくまで太史慈はふてぶてしい。

 会見の場で親しげに語りかけてきた、かつてのタイマンの相手 孫策に対し、

 「逆の立場で、俺がアンタを捕らえていたら。
  どーしていたかは、わからねーぜ?」


 ……と、言ってのけたらしいから、たいした神経だ。


 とは言え。

 その後は、孫策の信頼に応え、しっかりと孫呉に尽くしてはいる。


 離散した劉繇の配下をまとめ上げて孫策に献上したり。

 孫策の死後は、孫権に仕え、
 賊軍の一人から主君を侮辱されたときは、
 弓で狙撃し、その男の手を矢で貫通させ、建物に縫いつけてみせたり。

 このように、信義と武勇を示しているあたり、

 確かに、太史慈と孫策
 彼ら二人の間には 『 激闘の後の友情 』 が芽生えていたよーだ。


 し・か・し。

 『 孫呉に仕えた後は更正し、以後は信義の人として生きた 』

 と考えるのは早計だったりするんだな、これが。


 どーやら、心の奥底では

  「 いつかもう一度、一旗 挙げてやる 」

 
とも、考えていたらしいのだ。


 西暦206年、赤壁の戦いの2年前。

 病床にて、死に臨むにあたり太史慈が口にした、

 「大丈夫たる者、世に生まれては
 七尺の剣を帯びて天子の階(きざはし)に登るべきものを。
 志を果たさぬうちに死すとは」


 と、いう言葉。

 これって、どう贔屓目に受け止めても、危ないセリフにしか聞こえない。


 直訳すると、

 「ちっきしょー。男たる者、この世に生を受けた以上はさぁ。
 七尺のイカした剣を片手に、皇帝の玉座へと登りつめるべきじゃねーかよ。
 まだ、俺サマの野心は満たされてねーよ。……死にたくねぇ!」


 てな、カンジっすか?


 …… ホンット、この男だきゃあ ……。

 この際だ、はっきりと言ってやる。


 アンタのような男が皇帝になったら、

 この世は終わりだ。



 『正史・三國志』を記した陳寿が、
 呉の臣下として太史慈を扱わなかったのも、わかる気がする。






 正史においては、赤壁の戦いの前に病死してしまい、今ひとつ 呉の将としての活躍は少ない太史慈ですが。

 しかし、呉の臣下としてではなく、一人の乱世に生きた男としては。

 彼ほど、波乱万丈で数奇な人生を送った人物も多くはないかもしれません。


 史実における太史慈の、意外な一面を多少なりとも楽しんでいただけたなら幸いです。