「孫堅と孫策の後を継いだ、苦労知らずの三代目」
……といったカンジで、なーんとなくボンボンの若大将といったイメージのある孫権。
そりゃぁ戦争は下手くそだし、
数々のピンチを乗りきったのも有能な家臣に支えられてだし、
何よりも最初から国持ちだし。
孫権は、どうしたって曹操・劉備のように一代でなりあがった英雄と比べると、
見劣りがするかもしれない。
しかし。しかしである。
確かに孫権は最初から国持ちだったけど、この呉という国はハッキリ言って君主から見れば問題だらけの人々で構成された、嬉しくない土地だったのである。
そんな厄介なシロモノを押しつけて
さっさとくたばったオトーチャンやオニーチャンより、
立派に国を発展させた孫権の方がよっぽど偉いのではなかろうか?
まず、初代のオトーチャンこと孫堅は
「有名な兵法家 孫氏の末裔」を自称する、かなり怪しい成り上がり者であった。
ただ、めっちゃくちゃケンカが強くて、そんな無敵のパパの尻馬に乗っかって美味しい思いをしようとした地元の豪族をまとめあげたことや、程普・黄蓋・韓当などの名だたる武闘派を配下としてくれたコトは息子達にとっては有り難いことであったのは間違いない。
しかし、そんなパパも調子こいて劉表にケンカを売った際に、見事に返り討ちをくらって戦死。
すべての資産を水の泡にしてしまう。
2代目のオニーチャンこと孫策は小覇王と呼ばれた乱暴者。
パパが死んだ後、袁術のもとに居候していたのだが、やっぱりそのまま大人しくしているタマではなかった。さっさと独立し、パパが集めた配下を再度
呼び寄せ、怒涛の戦争カーニバルを開始する。
もー、馬鹿みたいに強いオニーチャンだったけど、頭も馬鹿だったのでパパが集めた口うるさいジジイ共に辟易してしまう。
周瑜や呂蒙などの若いイケイケな連中を集めて、すっかり戦争に夢中の日々。
……で、恨みをかったオニーチャンは刺客の手にかかって あっさりと死んでしまったのでした。
さて。無茶なオトーチャン・オニーチャンが残したモノとはなんだったのであろうか?
*土着の豪族が幅をきかし、王様自身はあまり偉くない制度。
*口うるさいジジイ共とイケイケなヤンキー連中で構成された、口論が絶えない家臣団。
*戦争で領土拡大したはいいけど、内政は手付かずの田舎領土。むろん、
文化の香りなんか全然しない。それどころか、山賊・反乱軍があふれて治安は悪いし、
しょっちゅう洪水を引き起こす長江のおかげで治水事業にかかりきりの荒れ果てた土地。
……スンマセン、こがぁな胃の痛くなるような王国、あげるといわれても……。困るんですけど。
そう、孫権こそはこんな難題が山積みの国を運営し、多くの諸問題を解決していった名君と言えるのだ。国内の諸問題を片付けつつ、曹操や劉備と渡り合ったあたり、並の人間じゃあござんせん。
魏と蜀が天下を争う様を尻目に、何度も同盟を変えるといった柔軟な外交術もポイントが高い。
呉という国は、最初の段階で「戦争よりも内政」が命題となっている国だったのだ。
孫権の選択は、一国の君主としては まったくもって正しかったと言えるだろう。
ライバルであった蜀が結果的には夢破れて滅亡し、物語にはヒントを与えたけど歴史的にはたいした業績を残せなかったことと比較すると、呉は歴史的にも極めて大きな役割を果たしている。
孫権が豪族に頭を下げて協力をあおいだ数々の治水事業・治安事業は、辺境の田舎であった江南を大きく発展させ、後の歴史に深く関わる文化を育てることになったからだ。
今日に至る長江以南の中華の発展と、
三国時代の孫呉の王・孫権は決して無関係ではないのである。
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