火の玉 特攻ジジイ。
黄蓋という武将には、このネーミングがふさわしい。
なんと言っても、黄蓋こそは孫呉という『江南のヤンキー集団』において
初代特攻隊長を務めていたお方。
しかも赤壁では、いい年したジイサンだったくせに、曹操の大船団の中に
単身 火ダルマになって突っ込んでいった、とんでもなく無茶でイカれた頭の持ち主。
こんな面白い人には、面白いネーミングをつけてあげないと失礼というものだ。
てなワケで、ここではそんな特攻ジイサン 黄蓋について紹介しよう。
黄蓋が最初に仕えたのは、『江南ヤンキー集団 孫呉』の創立者にして初代総長 孫堅だ。
そう、無敵の喧嘩番長にして暴れん坊パパの、あの孫堅。
孫氏の末裔を名乗るわりには、知的な喧嘩じゃなくて腕っ節にまかせた喧嘩ばっかりする、
絶対に身分詐称しているに違いない孫堅ではあったけど……。
なーに、喧嘩なんて強けりゃいいのだ。
そんな孫堅に、黄蓋は惚れ込んでしまっていたようだ。
「総長!! 俺ぁ、一生あんたについてくぜ!! 何でもいいつけてくだされやッ!!」
などという、熱いハートの持ち主だったのである。
当然、そんな黄蓋は、孫堅にとっても都合のいい便利な手駒……、もとい部下。
「おっしゃ!! 今度の喧嘩相手 董卓には、オマエが最初にブッコミかませたれッ!!」
……てなやり取りがあったか、どーかは史書には記されていないが。
とにかく、黄蓋は孫堅VS董卓という戦争では先鋒を任されていたのである。
まさに孫呉の初代特攻隊長。
それが、若き日の黄蓋という人物だったのだ。
しかし。
まさに無敵な初代総長 孫堅ではあったが、残念ながら
西暦192年 劉表に喧嘩を吹っかけた際に
不運にも流れ矢を食らって死んでしまう。享年37歳。
おまけに、死んだときに一切 領土基盤を築いていなかったというのだから救われない。
よーするに。つまるところ。……ぶっちゃけた話。
この初代総長 孫堅ってのは、
『領土を広げるために戦争する』というのではなく
『領土なんかどーでもいい。とにかく戦争したい』という、
どーしようもないヤツだったのである。
戦争することが手段ではなく目的であった、正真正銘の喧嘩マニア。
広げた領土は殆ど袁術にくれてやっていたのだから、なんとも気前がいい話だ。
しかし、残された部下にとっては、たまったもんじゃない。
……てなワケで。
孫堅の死と同時に、『江南ヤンキー集団 孫呉』は事実上、一時解散。
初代特攻隊長 黄蓋も、袁術の部下として人生をイチからやり直すという冴えない結末。
しかし。冬の時代は長くは続かなかった。
そう、かの有名な狂犬野郎……もとい小覇王 孫策がすぐに立ちあがったのである。
不良にありがちな話で、孫堅もまたハタチそこそこで
子供をこさえた立派なヤンパパであった。
んで、その長男 孫策はパパの死の時点で既に17歳。
孫策もまた、2年ほどは袁術のもとで大人しくパシリをしていたのだが……。
やっぱり2年が限界だったよーだ。
袁術から兵を借りうけ、若干 19歳で不良デビューを果たすことになる。
もちろん、その後は暴走人生まっしぐら。
194年、呉の二代目 孫策は高らかに
『江南爆走族 SON・呉』 の設立を宣言したのであった。
父親 孫堅の路線を継承した、バリバリの喧嘩チームである。
とは、言え。
当の孫策にとっては、二代目とは言われたくなかったかもしれない。
「……チームの立ち上げ。すなわち、国作りは俺が始めなきゃなんねえ。
たっく、オヤジも面倒な仕事を残してくれたもんだぜ」
そう。とにかく喧嘩は強かったけど、
死んだ後は人材以外にろくに財産を残してくれなかったクソ親父のせいで、
孫策は全てを最初から始めなければならなかったのだ。
後に呉と呼ばれる国の、事実上の創始者は孫策であったと言ってもいいだろう。
しかし。この孫策、喧嘩番長だったパパとは違って、頭は切れる男だった。
「自分の国を作るのに手っ取り早いのは戦争だな。
とにかく、目の前にいるヤツ等を全部 ブッ殺して土地を奪い取ればいいんだしよぅ♪」
いきなり単純で明快な答えを出す。
「建国」という難しい問題ですら、単純な問題に置き換えてしまうあたり
孫策は天才と言ってもよかったかもしれない。
「……まずは金だな。戦争、すなわち喧嘩をするにしても、まずは金だ」
てなワケで。周辺の土地の有力者に協力を願い出て、資金集めをスタート。
しかし、まぁ。協力を願い出ると言えば聞こえはいいが。
ありていに言ってしまえば、武力と暴力を背景にしたカツアゲ。
普通にこんなコトを繰り返していては、そのうち中央から討伐軍を派遣されて、お縄頂戴だ。
「そ、孫策ボッチャン。こんなコトしてちゃ、いつかヤバイですぜ!?」
程普・韓当と同様、孫策の旗揚げに集まってきた孫堅時代からの古いタイプの不良
黄蓋も、
孫策の無茶には頭を抱えたことだろう。
しかし。
ここで孫策は知恵を見せた。
「オメエら、少しは頭を使えよなぁ♪
スマートにやれば、カツアゲもカツアゲでなくなるだろぉが?」
なんと地元でも有名な優等生をも抱き込み、そいつ等もカツアゲに参加させたのである。
「優等生を、味方につける」
という、悪辣かつ巧妙な不良グループのテクニックを
孫策はいとも簡単に実践してのけたのだ。
まず孫策が抱き込んだのは、周瑜と張昭。
周瑜は伯父が漢王朝ではトップ要職の三公に就いたほどの名門だし、
張昭は有名な儒学のインテリ。
事実、孫策が行けば相手にされないであろう名家出身 魯粛でも、
周瑜が行けば倉を丸ごとカンパさせることだってできる。
そうやって、地元でもトップクラスのネームバリューな人気者を抱きこんだ孫策は、
いつの間にか民衆にも大人気なモテモテのヤンキーに様変わり。
しかし。古いタイプの不良 黄蓋にとっては、孫策は やや やりづらい主君であったかもしれない。
「……ううむ。どーやら孫堅殿に仕えていたころのようには、いかないようじゃのぅ」
特に困るのは、
黄蓋のような特攻隊長を孫策が必要としなかったことだ。
なんせ、総長たる孫策自らが
敵に対して特攻を敢行するのだから。
はたから見たら冗談みたいな話だが、これが孫策の孫策たるゆえん。
「ええい、邪魔だ! 黄蓋!! 俺が殺す! 俺に殺させろ! 俺が殺したいのだ!」
チームを旗揚げして1年程で資金集めを終えてしまった孫策は、
怒涛の戦争カーニバルを開始する。
ここから先は、もうやりたい放題の、し放題。
そう。確かに孫策は知恵がまわる不良ではあったが。
その本質は、結局のところ喧嘩マニアのパパと同様に、無類の戦争好き。
……いや。相手を選ばないあたり、孫堅よりもタチの悪い狂犬の様な男。
目に映る動くもの全てに喧嘩を吹っかけ、噛みつき、奪い取り、殺し、追い散らすといった具合。
その一連の流れは、以下。
194年、袁術から独立。劉鷂を倒し、剛勇 太史慈を配下とする。
195年、呉郡刺史 許貢を攻略。その周辺を傘下にする。
196年、会稽郡刺史 王朗を追放。
197年、袁術が皇帝を自称すると絶縁し、袁術の領土に侵攻を開始。
198年、長江中流域に勢力に進出し、盧江・豫章郡を占領。
文字通りの、連年連戦。
悠久にして「清」なる長江を、敵の血で染め上げて
「濁流」へと変えんばかりの勢いで暴れまくったのである。
悪の不良グループ『曹魏』の総帥として名高い、あの曹操ですら
「あんなの相手に、まともな喧嘩ができるものかッ!」
と敬遠していたほど。
まさに当時の孫策の勢いは、想像を絶するものであったと言えるだろう。
……とは、言え。
黄蓋としては、そんな孫策の活躍を手放しでは喜べなかったのではあるまいか。
若き主君の快進撃を頼もしく感じつつも、
自分の居場所がない寂しさもまた、否定はできない。
やがて、
「ふ…っ。
ここらで、ワシも特攻隊長の看板を降ろすか。大人しく後方支援にまわろう」
と、第一線からの勇退を決意する。
さすがに引退まで口にするほど老けこんでいなかったようだが、
暴れまわるのは孫策に任せて、自分は拡張された領土の基盤固めに専念することを選んだわけだ。
もともと、呉とは異民族やら山賊やらが暴れまわる、極めて治安の悪い土地。
特攻隊長の座は失ったとはいえ、裏で自分達に逆らうヤツ等をシメて回るという仕事は、
それはそれでやりがいがある役目とも言える。
事実、異民族制圧に関しては、黄蓋はかなりの成果をあげている。
「まぁ、こーゆー渋い役回りも悪くないかな」
てなカンジで、少しセンチな気分ではあったようだが、仕事はキッチリとこなしていたようだ。
しかし。
そんな黄蓋に再び 大きな転機が訪れる。
西暦200年、『江南爆走族 SON・呉』総長の孫策が
闇討ちにあって26歳という若さで、短すぎる生涯を終えてしまったのだ。
後を継いだのは、孫策の弟・孫権。
青のカラーコンタクトを入れて、ヒゲは紫に染めるという、
なかなか気合の入ったお洒落な不良ではあったが。
しかし、いまいち喧嘩は強そうでない、スタイル重視の不良といったカンジ。
(注・孫権は瞳が青でヒゲは紫だったとか。まぁ、本当かどうかは怪しいところですが)
……ここで、黄蓋、再び ハートに火がついてしまう。
「ふふふ。今度の総長 孫権殿は、なんともひ弱そうな……、もとい、やや頼りにならぬ方の様子」
「どーやら、再び。この黄蓋が、特攻隊長のマトイを身につけることになるなッ♪」
そりゃぁ、孫策の死は悲しいと言やぁ悲しいけど
孫策の死は、黄蓋にとっては前線復帰のチャンスでもある。
やっぱり不良ってのは自分が目立ちたいものだ。そのあたり黄蓋も例外ではなかっただろう。
し・か・し。
世の中、そんなに甘くない。
1度、最前線から退いて、
後方で異民族にヤキを入れて回るという地味な役割が長くなっていた黄蓋の名前は
『新生江南爆走族 SON・呉』の幹部名簿には記されていなかったのである。
「三代目 総長・孫権。副総長・周瑜。リーダー補佐・呂蒙」
「うむ。…ここまでは、いい…」
「戦略参謀・魯粛。親衛隊長・周泰」
「……ここんとこも、まぁ 仕方があるまいな……」
「しかし!! 栄光ある特攻隊長が甘寧ってのは、どーゆーコトじゃぁッ!?」
そう。
黄蓋の叫びも虚しく、孫権に代替わりして
さらに若くフレッシュなイケイケヤンキー集団となっていた『チーム SON・呉』には、
ジジイの居場所なんかなかったのだ。
かろうじて会計係に張昭が残ってはいたが、どっちかというと孫権の暴走を止める憎まれ役。
目立ちまくりで華のある役割は、若い連中の独占状態。
特に黄蓋にとって目障りだったのは甘寧という存在であった。
この甘寧、孫権の元に来る前は、
ならず者達を率いて周辺の村々を荒らしまわっていた正真正銘のヤンキー。
しかも20年も、そんなヤンキー生活を送っていたというのだから、
どーしよーもない不良中年としか言い様がない。
本来なら呉というヤング集団に混ぜてもらうには、
ちょっと年をくっていると言わざるを得ないのだが。
どうやら、不良暦20年っていう触込みが目を引いたらしい。
大型新人として、あっさりと孫権によって迎え入れられてしまったのである。
おまけに、この甘寧。快楽殺人者で見境なく殺し合いをしたがるというイカレ頭の持ち主。
自分の館で働いていた少年が些細な失敗をしただけで木にくくりつけて嬲り殺しにしたり。
自分を父親の仇として付けねらう凌統とは、酒の席で剣舞にかこつけてタイマン張ったりする。
呉という問題児集団の中でも、ダントツの問題児。
それが甘寧という男だったのだ。
しかし。
この甘寧、筋金入りの不良で、
しかも切れたら何するか知れたもんじゃない狂人ではあったが、
とにかく戦争が強かったのも事実。
なんせ孫権の陣営に参加して何年もしないうちに、
孫呉の10年来の宿敵だった劉表配下の黄祖を戦場で追いつめているくらいなのだ。
こう言っては、黄蓋には失礼な話だけど。
いくら黄蓋が不満であっても、甘寧と特攻隊長の座を争うのは、どだい無理というものなのだ。
……ありていに言ってしまえば、役者が違いすぎる。
そんなこんなで。
しょーがなく、黄蓋は再び地味な異民族討伐などに精を出すハメになる。
「もーいいッ!若い者は、若い者同士で 好きにやっておればいいわぃ!」
たぶん、こんな老人にお約束なセリフを
黄蓋も口にしていたに違いない。
しかし。
そーこー年月を重ねるうちに。
思いがけず、黄蓋に大活躍のチャンスが訪れる。そう、待ってましたの赤壁の戦いだ。
西暦208年、赤壁の戦いにて。
たぶん、これがラストチャンス。ついに、初代特攻隊長 黄蓋がブレイク。
……そう、文字通り、壊れた。
「ワシがッ! ワシがやるッ! 曹操の船団に突っ込む役は、ワシがやるッ!」
山越や武陵の少数民族対策といった裏方の地味なサポート役に徹して久しいロートルが
こんなコトを言い出したのだ。
曹操軍との戦いを指揮した周瑜も、その申し出にはさぞかし困ったに違いない。
「……し、しかし。ご老人。どーやって、あの曹操の大船団をたたくというのです?
私としては、火計が有効だと思うのですが、あの巨大な陣に火を持ちこむのは至難の技。
何か、黄蓋殿にはいい考えがあるのですか?」
ただでさえ、この赤壁の戦いの当時、周瑜は多くのストレスに悩まされている。
例えば、黄蓋と同期である程普という頑固老人も
この時期には何かと口を出してくるようになっており、
結果 指揮権を二分せざるをえない状況になっていたりする。
マジな話、当時の周瑜は強大な曹操軍との戦いだけではなく、
味方との折衝にも苦しむ毎日だったのだ。
これより十年以上も後の話ではあるが、
孫権軍が関羽の背面を衝いた時に
「赤壁の戦いにおいて周瑜殿が経験したような苦労だけはゴメンです。
指揮権は、私で統一してください!」
と、呂蒙が孫権に訴えているくらいである。
言い換えれば、赤壁の戦いにおける呉の陣営は、
相当にピリピリした空気が漂う、殺伐ムードにあったと言える。
単純に「一致団結!」とはいかないほどに、
味方同士でも水面下ではせめぎ合っていたワケだ。
そんな状況において、さらなるトラブルの火種となりかねない黄蓋の申し出。
周瑜としては、慎重にならざるを得ない。
「今、一度 聞きます。黄蓋殿の、必勝の策とはいかに?」
そんな悲壮感すら漂う周瑜の問いかけに対して。
黄蓋が自信満々に提案した作戦は狂っているとしか思えないものであった。
数十艘の舟を選び、枯れ木と薪を積みこみ油をかけて、幕でわからないように偽装。
曹操に降伏するという手紙を出し、曹操陣営まで近づいて、そこで舟に火を放つ。
なお、黄蓋自身は脱出用の小船で離脱……。
この提案を聞いた時、周瑜は絶句したに違いない。
……そんなん、生きて帰れると思う方がおかしい。
見破られたら、その場で火矢でも食らって焼け死ぬこと間違いなし。
とッ捕まって、嬲り殺しにあうかもしれない。
うまく火計が成功したって、自分も火に巻き込まれて死ぬかもしれないじゃん。
十中八九、死ぬ。……いい年こいて、なんちゅう無茶なコトを言い出すジジイだ。
老い先短い命とは言え、そこまで派手に燃やす事もあるまいに。
さすがの周瑜も、このときは
諦めに近い心境になってしまったのではないだろうか。
チーム……、もとい国家の存亡を賭けた戦いにおいて
まるで自殺志願者のタワゴトのような作戦を、大真面目に提案してくる老人がいる。
もう、どうにかしてほしい。
マトモに相手をしていると、自分まで頭がオカシクなってしまいそうだ。
(……ま、いっか。若くて有望な人材には絶対にさせられないマネだけど。
ここに、奇特にも自分から言い出したジジイがいる。
いっそ好きにさせてあげようではないか。
見事に散らせてあげることこそ、この老人にとっては親切なのかもしれない)
結局、周瑜は黄蓋の提案にゴーサインを出すこととなる。
まず、間違いなくダメモトな気持ちであったであろう。
ところが、ぎっちょん。
なんと、この特攻ジジイ、見事にそれを成功させてしまうのだからあなどれない。
「う、嘘……」
おそらくは、周瑜をはじめ呉の若いヤンキー達も呆然としたに違いない。
そして、彼らの目線の先には、
燃えさかる曹操軍の船団を前にして
「ふはははは。青春じゃぁあああッ♪
今こそ、ワシの青春なのじゃぁあッ!」
と、狂ったように叫び続ける一人の老人の姿があったのではなかろーか?
三国志演義では『苦肉の計』、すなわち自らを鞭打たせ、
呉陣営における内紛を見せかけて曹操を油断させたというエピソードがあるが
これはフィクションだ。
しかし、史実における赤壁で黄蓋がおこなった『曹操軍焼き討ち』もまた
演義での記述に劣らない離れ業である。
ここは
『孫呉 三代に仕えた宿将の名に恥じない見事な手腕』
と賞賛せざるをえない。
しかし、赤壁における乱戦の中では黄蓋自身にとって不名誉な出来事もあった。
火計を成功させて調子こいているところを、
魏の兵達から降り注ぐ矢が見事にヒットしたのだ。
んで、水中に転落して気を失ってしまった危ないところを、味方の兵に救われる。
まぁ、ここまでは名誉の負傷なのだが。
……こっから先の展開が、どーにもいただけないのである。
意識をなくして、だらしなく船の甲板上でノビてしまっている黄蓋。
そんな彼に、味方の兵士達が無情なる追い打ちをかける。
「……誰だ、このショボくれたジジイは? うちのチームに、こんなジジイいたっけ?」
「さぁ? ヤング集団の俺達に、混ぜてほしくて忍び込んだ寂しい老人と違う?」
そう。
呉の若い兵達は
それが黄蓋とわからなかったのである。
んで。
不幸は続くよ、どこまでも。
「どーする?」
「とりあえず、ここに置いて行こう。
後で、余力があったら拾いにきてあげりゃいいじゃん♪」
そりゃぁ、異民族討伐なんて裏方の仕事の方が長い黄蓋を
知らない若い衆も多かったのは無理ないのだけれど。
『とりあえず、ここ』という場所が問題であった。
……なんと、そこは厠(かわや)であったそうな。
大戦でも最功労の勇者が、便所の中に置き去りにされ、
怪我の痛みに必死に耐えつつ救援を待たねばならなかった、
……という笑うに笑えないエピソード。
古今東西、戦場においては多くの悲喜劇があるものだが。
わざわざそれを史書に記されることになるとは、黄蓋も思っていなかったに違いない。
生涯最高の見せ場において、生涯最高の笑いをもとってくれた人、黄蓋 公覆。
……なかなか憎めないお茶目なオジイサンと思うのは、たぶん筆者だけではあるまい。
(注意)
三国時代、呉において「特攻隊長」という役職はありません。
呉という国を、現代の暴走族・ヤンキーにたとえるにあたっての、表現に過ぎません。
また、文中における人物達のやりとりも、
黄蓋が赤壁の戦いで作戦を提案したらしい、というコト以外は
ほとんどが管理人による脚色です。
……このページの内容は、あくまで話半分として受け取っていだければ幸い。
てか、間違っても鵜呑みにはされませんように。(笑)
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