私評 『 司馬懿 』

実は結構苦労人。

ホントーに長い間 報われなかったオッサン。
 

  「戦わずして孔明の北伐をしのいだ、逃げ勝ち野郎」

 「最後の最後で、美味しいトコロをかっさらったクソ悪人」


 とまぁ、散々に皆様に嫌われている司馬懿ですけれど。

 個人的には、そんなにヒドイ人間でもなかったと思います。

 むしろ、どっちかってぇーと、ごくごくマジメな人間だったんじゃないか、と……。

 もちろん、人畜無害な人物ってワケでもなかったのでしょうけどね。やっぱり。

 彼の場合は、

 「攻撃をしかけられたらやり返す。
  やり返すからには、死ぬまで殴って息の根を止める」


 っていう、過剰防衛野郎だったのではないかと思われるのですよ、これが。

 ほら、あなたの周囲にも一人はいるでしょう。
 普段はイイヤツだけど、絶対にケンカを売っちゃあいけない人。

 司馬懿もまた、そんな人だったのではないでしょーか?

 ……まぁ、彼も最初は それほど
 危険な人ではなかったのかもしれません。

 しかし、面白いように振りかかる数々の不運が
 司馬懿を変えていったのだと思われます。

 ここでは、そんな司馬懿の
泣き笑い人生を紹介していきましょう。

 
 まず、はじめに。
 以下の点は、おおいに強調させていただきたいところです。

 司馬懿はとにかく運がなかった。本当になかった。最初っからなかった。

 本当は宦官の孫で成り上がり野郎の曹操なんかに仕えたくなかった。
 だって司馬懿は地元では名家の司馬一族の出なんですよ。毛並みも血統もいいんです。
 何が哀しくて、俗物を地でいく曹操なぞに、仕えなくっちゃいけないんですか。

 まぁ、そんなわけで。
 
 最初、司馬懿はしっかり曹操からの誘いを蹴飛ばしたのですね。
仮病を使って。

 
時は官渡の戦いが終った西暦200年のことでした。
  しかし、そこで諦めるほど、あの人材コレクターが甘いワケがない。
  8年後、赤壁の戦いのあたりで呼び出されます。

 「もし、誘いに応じなかったら牢屋にブチ込む」

 ……今回ばかりは、本気でヤバイ……!
 仕方なく応じた司馬懿でした。

 しかし。

 
「なんかコイツ、危なそう」

 さすがというか曹操も勘がいい。
 司馬懿を一目 見るなり 「信用できねぇなー」なんて言い出したのです。

 司馬懿からすれば、

 「人を無理矢理 呼び出しておいて、なんたる言い草……」

 ってな、感じだったでしょう。
 しかし、時は乱世の就職難。ここでクビになるわけにはいきません。
 どーせなら出世してやろうじゃねぇか、と齢三十を越えて司馬懿は奮起しました。

 偉いぞ、司馬懿。

 その後は一生懸命働いて、曹丕に取り入って、なんとか必死に曹操に仕える司馬懿でしたが。

 しかし、彼自身は、どうして自分が曹操に嫌われているのか、わからなかったと思われます。

 なぜならば、この当時 司馬懿には野心とかはまったくなかったのですから。
 
(この当時の司馬懿に、野心的な発言や行動の記録はまったく残っていません)

 

 で、西暦215年の漢中争奪戦の際には、ポイントを稼ぐべく、

 「曹操様ッ。張魯を倒した今、蜀をも取るチャンスですッ。
 劉備は詐欺まがいのコトをして蜀の国を奪ったばかり。今、攻めれば勝てますってば」


 とか的確な進言をしたりもしているのですが、

 「隴を得て蜀を望むか。
  やれやれ、人の欲とは限りないのぉ。しかし、ワシは満足することを知っておるのじゃ♪


 とかムカつく返答をされ、見事に進言を却下されたりしています。
 まったくもって、気の毒としか言いようがありません。


 コトあるごとに、昔の名皇帝「光武帝」のセリフをパクってカッコつける曹操ですが、
 ハッキリ言ってアンタがそんなガラかってーの。


 ここで司馬懿の言うコト 聞いておけば、後で劉備がパワーアップすることもなかったのに。


 しかし、西暦220年になって、ようやく
 司馬懿をいびりまくっていた曹操が、くたばりました。

 おそらくは、このときを司馬懿は待ちこがれていたに違いありません。

 「やりィッ、これでようやく曹丕様に心置きなく仕えることが出来る!
  ワシの人生、まだまだこれからッ」


 そう。

 主君が、曹操から曹丕に代替わりしたことで
 ようやく、このとき真っ暗闇だった司馬懿の人生に明るい光が差し込んだのでした。

 なんせ司馬懿ときたら、曹丕には彼が曹稙との跡目争いのときから必死で協力してきたのです。
 むろん、曹丕もそんな司馬懿を心から信用していて
 「四友」、つまり曹丕の4人のマブダチの一人とまでに、評価していたほど。

 その後は 司馬懿も順当に出世して、225年には宰相みたいな仕事までまかされています。

 曹丕から、

 「俺が東を攻めるときは西をオマエに任す。
 俺が西を攻めるときには東を攻めろ。二人で天下、取っちゃろーぜ」

 
 とまで言われているのですから、たいしたモンです。


 しかし、
やっぱり司馬懿は運がない
 
 西暦226年、わずか6年の在位期間で曹丕がさっさと若死にしてしまいます。

 んで、曹丕の後を継いだ曹叡もまた三代目としては名君だったのですが、

 「司馬懿のことは信頼はしておるが、好いてはおらん」

 みたいな感じでして。

 あっさりと呉と蜀と魏の国境「宛」、
 いわば最前線に司馬懿を飛ばしてしまったのでした。


 一時は、都でトップクラスの官僚だったのに、あわれ むなしい都落ち。
 司馬懿のショックは、いかばかりだったでしょうか。

 「うぇぇええん、曹丕様の馬鹿ぁッ……! なんで死んじゃったンですかぁああ……」
 「……いいもん、いいもん。絶対に手柄をあげて都に帰ってやるもんね……」

 と、むせび泣く司馬懿の声が聞こえてきそうです。

 そして、ここから司馬懿の激闘の日々が始まったのでした。

 
 西暦228年、同じく曹丕のお気に入りだった蜀からの投降武将、孟達
 今度は魏を裏切って蜀につこうとしているのを知り、先制の騙まし討ち

 「孟達将軍へ。
  どうかどうか、早まったマネだけはしないでくださいね。
  我々は、けっして孟達将軍のコトを疑ってなどおりません。
  でも、万が一にも孔明の口車にのっちゃダメですよ。
  だいたい、アナタは以前に蜀を裏切って関羽を死なせてるんだし。
  今更、蜀に帰ってもいいことなんかないでしょ?」

 といった文面の手紙を送り、孟達を安心させた上で、電光石火の速攻攻撃

 曹丕様の信頼を裏切った外道には死あるのみ、
 てな感じで問答無用に孟達をブチ殺したのでした。

 そんなこんなで

 「油断させての速攻攻撃」という最強の必殺技をマスター
した司馬懿。


 次の敵は、西から小うるさい攻撃をしかけてくる蜀の馬鹿共だ、うっしゃぁあッ。

 
 小説「三国志演義」では6回も孔明にコテンパンにされている司馬懿ですが、
 史実では2回しか戦っていません。
 残りはすべて曹真という名将軍が頑張ってくれていたのですが、
 その働き者が病気で死んでしまったとなれば、やはり司馬懿が出るしかありません。

 西暦231年、最初の戦いは
「不戦勝」

 「あいつら、あんな山道を越えてきて馬鹿だよなー。食料も補給も、もつワケねぇじゃん」

 とばかりに、山地に陣をとってひたすら防衛。

 しかし、さすがに周りの将軍は司馬懿ほど我慢強くない。
 出撃を願い出て返り討ちを食らうなどと散々な目にもあいましたが、
 結局 司馬懿の読み通り食料不足で蜀軍は撤退。

 やったね、司馬懿ッ。

 しかし、この時 調子にのった司馬懿は追撃を命じ、名将 張郤を死なせたりもしています。
 勝つには勝ちましたが、ちょっぴり後味の悪い勝利だったかもしれません。

 
後に、魏を乗っとったため、張郤の死は彼を恐れた司馬懿の謀略であったとか言われていますが、
 この時 張郤は70近いジイサンであり、司馬懿が魏を乗っ取ったのは20年も後の、西暦251年です。
 まぁ、この件に関しては無関係でしょう。この時点での司馬懿は ただひたすら魏のために戦う忠臣だったのです。



 んで。

 西暦234年。孔明、最後の北伐。
 一般で言う「五丈原の戦い」ですが、これまた司馬懿の
「不戦勝」。

 だいたい、ひたすら守っていれば
 蜀軍は撤退するしかないのですから。
 しかし、補給という弱点をかかえる蜀軍にとっては戦ってくれないことには始まらない。

 そんなわけで、孔明は司馬懿に女物の服を送って

 「このオカマ野郎ッ」
 
 とばかりに挑発しますが、どっこい司馬懿は甘くない。
 だいたい、そんな挑発にのる程度の安い男なら
 とっくの昔に曹操あたりを後ろから刺しているってば。


 『さんざん、いじめられてきた男・司馬懿』をなめるんじゃねーぜ、孔明ッ。
 
 
逆に、その挑発を利用して一芝居うったりしています。
 前線に親征してきた皇帝・曹叡に対し
 「孔明から受けた屈辱、許せません! 皇帝陛下、出撃の許可をくだされッ!」
 と、一応は形ばかりの願い出を届けたりもしているのですけど。
 しかし、曹叡は曹叡で司馬懿の魂胆がわかっていたようで
 「司馬懿よ。自重するのだ。司馬懿がオカマ野郎ではないことは、この曹叡も他の武将もわかっておる」
 などと、ノリノリで 『主君と軍師との信頼関係』 をアピールしています。
 こと正念場においては、この二人も結構いいコンビだったと言えるでしょう。

 
 で、孔明はこのあたりで、働きすぎがたたって過労死。

 退却した蜀軍を追撃する際に、カウンター攻撃にびびり 兵を引いた司馬懿を

 「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

 といって笑うものもいましたが、

 「生きている人間ならどうにでも料理してやるが、
  死んだ人間はどーしようもねぇからな」


 と余裕な発言をかまして司馬懿は魏に帰還。
 さすがにこの時期になると、貫禄充分な司馬懿だったりします。


 この後、北方で反乱を起こした公孫淵に対して、またも
 「油断させての速攻攻撃・改」(戦う気がないフリして奇襲バージョン)
 を炸裂させて攻め滅ぼすことに大成功。

 このように、キッチリ軍功をあげているあたりからも、

 軍事的な実績・才能はあきらかに孔明よりも上
と思われます。
 司馬懿が、孔明を好意的に評価して「天下の奇才なり」と言えたのも、
 己の才能に確かな自信があった余裕からではないでしょうか。

 しかし。曹叡からも信用を得て、ようやく一安心の司馬懿でしたが。

 とにかく、司馬懿は運がない。

 239年。孔明の死から5年後、魏の3代皇帝曹叡が死去します。

 孔明の北伐の脅威から、解放されて遊びまくったツケで病気
しちゃったらしいのですが、
 死に際に司馬懿と曹真の息子曹爽の二人を
 新皇帝の後見人にしちゃったことが一番の失敗でした。

 司馬懿も曹爽のどちらも有能で忠誠心のある人達でしたが、
 この二人の組み合わせは最悪だったのです。


 最初、司馬懿に敬意を払っていた曹爽でしたが、
 やがて司馬懿を警戒するにいたります。
 そりゃー、キャリアからも実績からも司馬懿の方が上でしたし。
 曹爽の気持ちもわからないではありません。
 ……仕方ないっちゃー、仕方ないのですが……。

 しかし、やり方がまずかった。

 
 曹爽は司馬懿を「大傅」という形ばかりの名誉職に祭り上げて、
 彼から実権を奪ってしまったのでした。

 
んで。政権争いに敗れたことで、司馬懿は自宅に引きこもってしまいます。

 「仕方ないのう。大人しく隠居して、悠悠自適な老後を送るとしようか……」

 おそらくは、こんなカンジだったのでしょう。
 まぁ、司馬懿にとっては不本意な展開だった事は間違いないのですが……。

 しかし、鍛えに鍛えられた彼の忍耐力をもってすれば、
 我慢できるものでもあったかと思われます。

 建国の功臣が王朝の設立後に冷遇されてしまう例など
 古来よりいくらだってあったわけですし。

 例をあげれば、漢の高祖 劉邦を支えた張良もそうでした。
 早い段階で引退を表明し、自分の身を守ることに専念した
 張良の例に、司馬懿もならったといえます。
 
 自宅に引きこもりつつ、人々と交流を絶つことで

 「わかるじゃろ?
  ワシ、もう無害な隠居ジジイなんじゃってば!
  もうこれ以上、いじめないでくれよぅ!!」

 という無言のアピールをする司馬懿。
 ……なんとも気の毒な方だと、思わざるをえません。

 
 そう。
 曹爽も、ここでやめときゃあよかったのです。

 しかし。
 隠居したにもかかわらず、しつこく見張りの使いを出すほどの警戒振り。

 ……さすがにここまではしちゃいけません。
 いくら我慢強い司馬懿とは言え、
 自分と一族の生死にかかわる問題となると話は違ってきます。


 自宅に引きこもること、9年。
9年ですぜ、旦那。
 
 この間、ずーっと自分の命を狙われ続けていたわけです。

 
ここまでされて相手を許すことができる人間なんて、
 キリストぐらいではないでしょうか?


 
 ボケ老人のふりまでして相手を油断させ、
 必死に自分の命を守り続けていた
司馬懿でしたが。

 ようやく曹爽が安心して軍勢をつれて狩りに出かけたという、ニュースを聞いた時。


 ついに。

 ようやく。


 「油断させての速攻攻撃・最終型」(九年計画バージョン)

 を、炸裂させたのでした。

 
空になった都で、軍事クーデターを起こし、
 曹爽の帰る場所を奪った司馬懿はそのまま政権を強奪。

 さらに曹爽一味をはじめ、曹一族・夏候一族をことごとく捕らえることに大成功。

 嗚呼。

 もー、その時の様子が目に浮かんできそうです。

 白髪頭を振り乱し、老骨に鞭打ちつつ馬を駆り
 軍勢を率いて、都大路を疾走する司馬懿の姿が。

 「今こそ復讐のときじゃぁぁああああッ!」

 ……ジイサン、あんた今 輝いているぜッ!



 さて。
 ここまでの人生はひたすら耐える男だった司馬懿でしたが。
 クーデターの後は、びっくりするほど徹底的に殺しまくっています。

 それはもう、

 後々の禍根を断つために、曹爽一味の三族は皆殺し。
 曹氏も夏候氏もお構いなしの容赦なし。

 といった具合。

 夏侯淵 の息子、夏侯覇が蜀に逃亡したのもこのときのことでした。

 「やり返すからには、徹底的に。後の禍根を断つために、敵は全員 死刑」

 これって、非常に合理的な考えなのですが、普通はなかなか実行できません。
 この点は、やはり苦渋をなめ続けた人間のもつ恐ろしさなのでしょう。


 ……とは言え。

 司馬懿自身は魏の四代皇帝曹芳に危害は加えてませんし、
 クーデターの後 二年後に魏の臣下のまま死亡しています。


 ですから、本人としては案外

 
「最後の最後に大暴れしちゃったけど、
  魏の臣下として忠誠を尽くしたつもりぢゃ」


 などと、ムシのいいことを考えながらこの世を去ったのかもしれません。


 【 結論 】

 客観的に見てみると、司馬懿って生涯の大半をひたすら耐えて耐えまくったジイサンです。
 人生のラスト3年で、メチャクチャをやらかしていますが、
 これもある意味では自分と一族を守るための防衛行動だったという側面は否定できません。

 野心家とか腹黒いというよりは、
 むしろ普通人の感覚と非凡な能力を、あわせ持った人物だった、と。

 司馬懿の立場になって考えるなら、
 そういう見方もできるのではないでしょうか?