「若干 20代前半にして、曹操軍のトップ武将達に仲間入り」
「三千の私兵を擁し、その一族を併せれば一万三千人を率いる大豪族の当主」
「学問を愛し儒学の教養を重んじた彼は、誰からも敬われたという……」
……え? 誰のコトかって?
やだなぁ、ここは李典のコラムじゃないか!
全部 李典のコトに決まっているでしょうッ!!
え?
信じられない?
……はははは。そーっスね、
私だって信じたくありませんよ。
こんな素敵な人物が、有名になれないまま
マイナー武将扱いされている現状がッ!
……てなわけで。
ここでは、そんな
『悲しいほど目立たない若き智将 李典』
の魅力について、熱く語っていきたいと思います。
まず、最初に。
なぜ、李典は目立たないのでしょーか?
『若くて智将』、本来ならこれだけで三国志の人気者になれるハズなのに。
「智将」であることは知られていても
「若さ」に注目されることが少ないのはなぜなのでしょう?
……答えは簡単。
李典が、若者っぽくないから。
……いや、これ真面目な話。
若いんだけど、ホントに若さを感じにくい人なんですよ。
李典ってば。
確かに、李典は若い。実際に、若い。
実は関羽や張飛と同じ年代に生まれたくせに
平然と若者ヅラしているインチキヤングの趙雲なんかと違って、
李典は本当に若い。
若干 20歳そこそこで官渡の戦いに参加し、
それ以降 15年にわたって曹操軍のトップ武将として第一線で活躍し続けた、
正真正銘、証明書付きの若きエリート。
……にもかかわらず。
李典ときたら、とにかく若者らしくないのであります。
以下、いかに李典が 《 若者らしくない若者か 》 という根拠について、説明していきましょう。
*その一 『 若者のくせに、失敗しない 』
若者の特権のひとつは失敗が許されることです。
誰しも、若いころは若さゆえの過ちを幾度となく犯してしまうものですが、
その経験をもとに少しずつ、成長していく事ができるのです。
本来、人とはそういうものではないでしょうか。
しかし、その失敗を李典は本当にしないのであります。
ええ年こいた中年のくせに連年 失敗続きの夏候惇あたりと比べると、
本当にソツがないというか、可愛げがないというか……。
それどころか、
西暦203年には上司の夏候惇が劉備の罠にハマってブチのめされているところへ
助けに入って危機を救ってさえいます。
そもそも、夏候惇がピンチになる前に
副将の立場から、李典はしっかり助言していたのですけど、ね。
「敵がなんの理由もなく退くのは、必ず伏兵がいると疑うべきです。
さらに言えば、彼らが撤退に使った南道は狭く、草木が深く生い茂っています。
追撃は避けるべきでしょう」
これほど わかりやすい忠告を無視して飛び出し、
ボコボコにやられるハメになった分からず屋の将軍なぞ
いっそ笑いとばして見殺しにしてあげてもよかったのではないでしょうか。
なのに、しっかり助けて嫌味のひとつも言わなかったというのだから……。
まったく若者らしくないったらありゃしない。
武将として失敗しないことは結構なことですが、
若者としては自己アピールに欠けると言えましょう。
*そのニ 『 若者のくせに、欲がない 』
本来、若者たる者、周囲とは大いに争わねばなりません。
狂犬のように目に映る動く物 全てにケンカを吹っかけ、
ことごとく追い散らし殺しまくって奪い取り、
領土を拡大した孫策のような覇気は欲しいものです。
それなのに李典ときたら、そーゆー闘争心がまるでない。
人と功を争わず、軍中ではその長者ぶりが慕われていたという李典ですが、
若者としてはどーかと思います。
あげくの果てには、西暦206年前後に
自分の財産をあげて曹操に全面協力する始末。
「曹操様。今はまだ袁氏の征伐が終わっていない大事な時期。
王城近郊を充実させて、四方を制するべきです。
私の一族を、魏郡に移住させましょう」
…とか言って、一族を率いて大規模な引っ越しをおこなっております。
領民・郎党を含めると一万三千人の配下をもつ大豪族の李典ですが、
これはさすがに気前 良すぎではないでしょーか?
そんな李典に対して、曹操ときたら
「光武帝に従っていた耿純も財産を捨てて忠勤したという。
李典よ、貴公もまた その例にならうか。まことに殊勝な心がけよの」
などと、ほざいて調子こいてたそうですから、頭を抱えたくなります。
ことあるごとに後漢の名皇帝 光武帝と自分を重ねる曹操ですが、
儒学の礼節をもって漢を立て直した光武帝と、
儒学の礼節を無視しまくって漢を追い込んだ曹操など、
似ても似つきません。
こんな石を投げたくなるような勘違い野郎にまで礼節を尽くすんだから、
本当に人間ができているというか……。
武将として人と功を競わず、財産に固執しない姿勢は良いことですが、
若者としては気合や野心に欠けていると言えましょう。
*その三 『 若者のくせに、趣味がオヤジくさい 』
本来 若者たる者、異性のケツを追いかけ回したり、
酒や博打といったろくでもない趣味に夢中になってしかるべきです。
例えば、
若い頃は花嫁泥棒にうつつをぬかし、
新婚の若妻を手ごめにするコトに青春の喜びを見出していた
曹操や袁紹のように。
あるいは、
責任ある軍師の分際で乱れた生活をかまし、素行不良のあげく、
同僚の陳羣から、しょっちゅう告発されていた
郭嘉のように。
ところがそんな『若気のいたり』が李典にはまるでないのであります。
それどころか、趣味は学問というのだから困りもの。
『春秋左氏伝』などという堅苦しい教養書を愛読し、知識人を尊敬する始末。
青春の、熱くたぎるような血潮が まったく感じられません。
武将として学問を愛する一面があるのは、立派なことですが
若者としては趣味が悪いと言えましょう。
以上。
いかに李典が若者らしくない若者かご理解いただけたかと思います。
……え?
……なんですって?
「 いくら若者らしくないと言っても、
曹操陣営においては貴重な若者キャラじゃん?」
「それなりに知られていても、おかしくないハズじゃない?」
ですって?
ふむ。そうおっしゃる方もいるようですね。
……よろしい、さらに突っ込んで説明しましょう。
李典の叔父サンと従兄弟が、
これまた李典の『若者アピール』を
思いっきり邪魔していたりするのですよ、これが。
……いや別に、彼らにも
悪気はなかったのでしょうけど……。
まぁ、この際です。
李典のオジサンとイトコについても、簡単ながら紹介させていただくとしましょう。
まず、李典のオジサンの李乾について。
曹操の旗揚げから参戦し
私財を投じて協力していたのですが
呂布征伐の際に、呂布の部下からの誘いをきっちり断った結果、
あっさり殺された悲劇な人。
黄巾の残党をぶちのめしたり、袁術に攻撃を仕掛けたり、
陶謙征伐に参加したりとバリバリの武闘派だったのですが、
その最後は律儀な性格が災いした不幸なオヤジだったようです。
……で。
李乾の息子、すなわち李典のイトコの李整くんが、
これまた結構 勇将タイプの若者で、
自力でパパの仇討ちをしてしまいます。
んで、仇討ちを済ませた後、コロリと病気で死んでしまったのでした。
身内でケリをつけてくれた李整くんは、そりゃ立派ですが、
おかげで李典のデビューは
『 早死にしたオジサンとイトコの跡を継ぐ 』
……という地味なものになってしまったワケです。
しかも、問題はこれにとどまらず。
この律儀だけど目立たないオジサンとイトコのせいで、
李典のコトが後世 大いに誤解されることとなったのですね、これが。
すなわち、
『 李典とは、曹操旗揚げの頃から付き従った武将である』
……と。
実際、世に出ている李典の紹介の多くがこの誤解に もとづいています。
ここんとこは、強調しておいた方がいいかもしれません。
曹操旗揚げのころから従ったのは、
オジサンの李乾であって李典ではありません!
そう、曹操の旗揚げに従った
夏候惇・夏侯淵・曹仁・楽進のごときオヤジ共と同年代なのは、
李乾であって李典ではないのです。
李典は、彼ら中年共とは一世代も年が離れた若者。
いっしょにされちゃ可愛そうってものでしょう。
もっとも、これに関しては
李典にも非はないわけではありません。
本来なら
李典自身がしっかりと違いをアピールするべきです。
そもそも、武闘派のオジサン李乾と違って、
李典は民政官、すなわち軍人ではなく文官志望のインテリだったのですから。
ところが、ぎっちょん。
もともと軍事には興味がなくて、
曹操に仕える前までは
用兵の勉強なんてしたことがない戦争嫌いなくせに、
李典ときたらオジサンの後を継いだ後は
しっかり勉強してオジサンも顔負けの活躍をする始末。
戦争が嫌いで文官志望であるのなら、
武将としての仕事など手を抜いて配置換えを希望すればいいのに。
どうやら一族をあげて、彼ら李氏のDNAには とことん
『 律儀な性格 』がインプットされていたようです。
結局 李典は、真面目に軍人として実績を挙げていき、
『戦争嫌いのくせに、戦争上手』という
はたから見たら笑ってしまう人生を送るハメになったのでした。
その一例が、西暦202年に行った、袁尚の部下 高蕃に対する追撃戦。
このとき李典とタッグを組んでいたのは、軍師の程c。
そう。
知る人ぞ知る、あの 『 人喰い 程c 』 です。
呂布との兗州攻防戦では、人肉を食らってまで生き延びたという疑惑のある、
三国時代のレクター博士。
曹操が抱える数多くの軍師達の中でも
トップクラスの戦争手腕を誇るにもかかわらず
同僚から悪口を言われまくるほどのガンコ者で、
おまけに李典よりも四十も年上の
とにかく、おっかないノッポのジジイ。
その程cに対し、軍を指揮していた李典は
軍師のお株を奪うほどの戦術眼をもって
作戦の変更を提案しているのだから驚くほかありません。
「曹操様からは、水路が断たれたら陸路を通れとの命令を下されています。
……しかしながら。
今、敵は鎧武者が少ない上に、河を頼りにだらけています。
これを討てば、必ず勝てるではありませんか。
軍というものは、国家に利益があれば独断専行も許されるもの。
ここは好機を逃さず、出撃するべきです」
などと、およそ軍人デビューして2年やそこらのアンチャンとは
思えない冴えっぷりを見せて、見事に大きな戦果をおさめています。
しかし、よくよく考えてみれば
二十代前半のルーキー武将が、これほど理路整然と
作戦内容の変更を提案をすること自体、ちょっと尋常じゃありません。
これじゃあベテラン軍人だった李乾と
混同されても仕方がないというものです。
加えて。
正真正銘のオヤジ武将 楽進 とコンビを組まされたコトが
李典の『若者アピール』にとって、まさに運の尽きでした。
この楽進、
いい年こいて一番槍を繰り返すのが生き甲斐の
落ち着き ゼロのどうしようもない中年なのですが。
この人はもう完璧に曹操旗揚げからついてきた古参の中の古参。
……こんな濃いオヤジと組まされて、
どーやって爽やかな若武者ぶりをアピールできましょうや。(涙)
もっとも、性格は正反対の二人でしたが
戦場ではいいタッグチームだったようです。
西暦206年の袁氏掃討戦では、袁紹の甥 高幹をボコボコにしていますし。
西暦215年の合肥では、この二人に約一名を加えた三人トリオで、
わずか七千の守備兵で十万の呉軍を見事に返り討ち。
『勇の楽進と、知の李典』てな感じで、
互いに持ち味をうまくいかし合う関係であったと言えるでしょう。
しかしながら。
『イケイケ中年 楽進』と組んだことで、
『お買い得セット商品 楽進・李典コンビ』として
人々に深く認識されることとなってしまい、
その結果、李典の若者アピールには
大きなイメージダウンとなってしまったことは
やはり残念に思えてなりません。
……まぁ、楽進だけじゃないんですけどね。
李典がコンビを組んで苦労させられたのは。
よりひどいのに、張遼というオヤジがいます。
このオヤジ、合肥の戦いで十万の敵兵に八百の決死隊で突撃するという
とんでもなく無茶な作戦を立案したまではいいのですが。
その際に、
「俺、どーせ嫌われてるしさぁ。
李典も、俺の補佐なんかしたくねぇんじゃねぇの?」
と、およそ50を越えた大人とは思えない困ったセリフを吐いて、
副将の李典を困らせたそうです。
このとき李典は、しみじみと
「これは国家の大事であって、
あなたの計略に文句をつけるときではないでしょう。
私の個人的な恨みで、どうして公の道議を忘れる事ができましょう」
と言って、まず上司の懸念を解くことから始めなければいけませんでした。
……ここんとこのくだりを見ると、どっちが年長者なのか疑いたくなります。
その後、張遼を補佐して、
八百の歩兵で奇襲をかけて十万もの孫権軍を大いに蹴散らすことに成功していますが、
さぞかしストレスには悩まされたのではないでしょーか?
この際、はっきり言っちゃいますけど。
この張遼ってオヤジは皆様が思っているほどには、
素敵なオジサマではございません。
刑場での呂布への叱咤だとか、
関羽に対する降伏のススメだとか、
一般に知られている張遼のエピソードの多くは、
三国志演義におけるフィクション。
平たく言えば、嘘っぱち。
実際の、彼の人物像には目を覆いたくなるものがあります。
自分が仕えていた主君が殺されるたびに
主君を殺した人間に仕えた薄情の人、張遼。
それを三度も繰り返した張遼。
旧友の昌稀を降伏させる際
『敵陣に単身 乗り込む』というスタンドプレイをかました張遼。
『それが大将のすることか』と
曹操に怒られた時には、あっさり頭を下げてへつらった張遼。
そのくせ同僚には傲岸不遜、
もと降将という立場をちっともわきまえていなかった張遼。
いかがです?
こんな男の下で働かなければならなかった李典が、気の毒に思えてきませんか?
武将としてはともかく、
人間としては絶対に尊敬したくない張遼なんかに対しては
『 いっそ徹底的に反発してやれば よかったのに 』
とも思うのですけどねぇ……。
まぁ、真面目な話。
合肥で張遼が活躍できたのは、
この苦労性で若者らしくない青年のおかげサマサマであると
言っても過言ではありません。
これに関しては、この場を借りて
おおいに主張しておきたいところです。
合肥に銅像まで建てられている張遼と比べると、
李典の方は、あまりに報われていない感じがしますもん。(涙)
……そんなこんなで。
好きでもない軍人の仕事で、次々と要職をまかされたり。
張遼とか楽進とか、困った中年オヤジ共の面倒を一身に背負ったりと。
苦労の連続の李典でしたが。
さすがに、心身ともに相当の無理をしていたのでしょう。
詳しい生没年は不明ですが、合肥の戦いの後 36歳の若さでこの世を去ったのでした。
諡(おくりな)は『 愍侯 』。
陣中で病没した、という意味らしいですが、
ここでの陣中とは合肥の戦いを示しているのかもしれません。
合肥での戦いは激戦でしたし、張遼と楽進という二人の問題児を同時に
補佐しなければならなかったのですから。
そりゃー寿命も縮むってもんです。
さて。
長くなりましたが、これにて李典の紹介文は終わり。
最後に、李典に関する見解をまとめさせていただくとしましょう。
…さんざっぱら、「若者らしくない」と連発しましたが。
……しかし、李典が実際に 『 若くて有能で慎み深い 』 武将だったのも、事実。
そう。
「悪の最強軍団」
「不良中年連盟」
「暗黒結社 ダンディズム」
と数々の不名誉な呼び名を持つ、
ろくでもないオヤジ国家 魏 の中では
李典とは、希少価値を持ったタイプの一人ではあるのです。
「若く」て、かつ「良識ある」武将として。
そりゃぁ、曹操陣営においても
若い武将といえば曹操の次男 曹彰がいますし、
良識ある武将としては曹仁や曹真などがいますけど。
「若くて、良識ある」
この二つを両立させている素敵な人は、李典の他に多くはおりますまい。
よーするに。つまるところ。
このサイトの管理人は、
目立たないけど素敵な智将 李典が
たまらなく好きなのであります。
地味だけど堅実な良将という意味では、
正史における趙雲と似たタイプなのですが。
個人的には、李典の方にこそ軍配を上げたいところです。
だって本物の「青年武将」は、李典なんだもん。(笑)
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