攻撃力・機動力なら曹操陣営 NO.1。
……いや、いいんだってば、信じなくて。管理人 大滝が勝手にそう思いこんでるだけだもん。
でも、実際 正史における夏侯淵ってのは、そう思わせてくれるくらいに強かったんだよ。
え? 何?
「じゃぁ、その夏侯淵を倒した黄忠は、もっと強かったのね!」
だって?
ば、馬鹿いっちゃいけない。はっきり言おう。
「史実における夏侯淵と黄忠の格は、横綱と幕下力士ぐらいに違う」
別に、黄忠をおとしめているわけじゃない。そのくらい、当時の夏侯淵はビッグネームだったし、そんな夏侯淵を運良く討ち取れたからこそ、黄忠は劉備のもとで破格の出世を遂げることができたのだ。
だいたい黄忠って、正史においては二百数十字くらいでしか記述がない、本当に『夏侯淵を討ち取った以外には、どんな人だったかわからない人』。ジイサンだの弓の達人だのは、全部
演義の創作だったりする。もっとも、そんな絶妙な脚色を入れてくれているからこそ、三国志演義が文学として素晴らしい完成度を誇る作品であるとも言えるんだけどさ。
おっと、いかん。ちょいと横道にそれてしまったようだ。
話を夏侯淵に戻そう。
実のところ、史実においては、この夏侯淵こそが曹操の軍事面における右腕だった。
もー、とにかく強かったんだ。
夏侯淵の真価を一言でいうなら、『速度』。
『典軍校尉夏侯淵、三日で五百里、六日で千里』
と、謳われるように、とにかくこの男は速かった。
漢代の単位では、一里(四百メートル)なので、この場合 五百里は約二百キロ、一日にして六十五キロといったところか。
まぁ、さすがにこれだけの強行軍をコンスタントに維持できるわけがないので、『三日で五百里、六日で千里』は語呂合わせなんだろうけど。
しかし、そう評されるほどに、夏侯淵は神速の用兵家だったのだ。
どれだけ見事な急襲作戦をおこなったか、については
馬超についての私評で書いたので、興味のある方は読んでみて欲しい。
ただ、先ほど述べた『速度』ってのには、もう一つの意味もあるのだ。
距離という概念のほかに、時間という概念での速度、と言えばいいだろうか。
例を挙げてみると。
三国時代、素晴らしい速度で勢力を拡大した人物に、孫策と袁紹がいる。
孫策は圧倒的なカリスマ性と武力をもって、袁紹は名家の威信と王者の気概をもって、それぞれわずか数年で広大な領土を切り開いている。
彼らもまた、短期間で領土を拡大したあたり、見事な速度をもった人物であったと言える。
んで。
夏侯淵もまた、そういう存在だったのだ。
上記の二人と同じく、『勢力拡大型』と言えばいいか。
曹操陣営には多くの優れた将軍がいるけど、夏侯淵ほど勢力の拡大に貢献した男はいないと思う。
主に方面司令官として活躍した彼は、大陸全土をかけずり回り、
各地の叛乱をことごとく叩きつぶし、そして西方の広大な領土を主君に献上している。
夏侯淵の神速の用兵は、曹操の覇業にも大いなる速度を与えたと言っても過言ではない。
その偉大なる戦歴は以下だ。
官渡の戦いの後、兗州・豫州・徐州の軍料を取り仕切り、補給を担当。
当時は食料が不足しており難しい任務ではあったが、その役割を見事に果たし、軍の勢いを維持させることに大きく貢献した。
201年、東海にて抵抗を続ける昌稀を、張遼を率いて鎮圧。
206年、またも叛乱を起こした昌稀を、于禁を率いて鎮圧。その首を斬る。
211年は大陸全土を転戦。徐州、揚州、并州(徐晃を指揮)、雍州(朱霊を率いる)、各地の反乱をことごとく鎮める。なお雍州では、韓遂・楊秋を降伏させ梁興を斬っている。
214年には再度叛乱を起こした韓遂を撃退し、馬超を敗退させる。
まさに連戦連勝。
連年負け続けの失敗続きな片目の従兄弟とは大違いだ。
特に211年は、大陸の東西南北を奔走している。
東の徐州、南の揚州、北の并州、西の雍州。
これって考えてみると、けっこう凄いことなのだ。車も飛行機もない時代、一年間でこれだけの距離を移動するだけでも大変なことだっただろうし、知らない土地で勝利を収めることだって相当
難しい。
夏侯淵が叛乱を鎮圧するたびに、
休む暇も与えずに次の任務を与え続けた曹操は鬼じゃないかと疑いたくなる。
命令する方もする方なら、命令に従う方も従う方。
働き過ぎだぞ、夏侯淵。……よくもまぁ、過労死しなかったものだ。
くわえて。
韓遂のような趣味で叛乱を繰り返しているようなヤツと何度も戦わせられているあたりも、気の毒に思えて仕方がない。
曹操って男は才能のある人間、もしくは自分が「これは」と見込んだ人物に対してはとにかく甘い一面があって、降伏したヤツをあっさり許してしまう事がしばしばがあった。
んで、何度も何度も、降伏したヤツから叛乱を起こされたりしているのだ。
昌稀しかり、韓遂しかり。(……その他にも袁紹陣営の高幹やら袁譚やら、いくらもいるのだが)
そんな曹操の尻ぬぐいを、夏侯淵がしていたとも言える。
叛乱制圧の任務がくだるたびに、
『 いっそ、俺が叛乱してやりたいよ……(泣)』
と、思ったことも一度や二度じゃないはずだ。
しかし。そこは曹操。狡猾な……もとい、人の心を掴むのが上手い男。
214年、夏侯淵が涼州で河首平漢王を自称していた宋建を討伐して、彼を斬り殺したときのこと。曹操は、彼をねぎらうべく
「宋建が謀反を起こして30年がたっていたが、夏侯淵は1回の戦闘でこれを滅ぼした」
「関右の地を闊歩するさまは、向かうところ敵なしと言うべきか」
「古の聖人 孔子は『わしも弟子の顔回には及ばない』と言っているが、
これは私と夏侯淵の間にも言えることだな」
……といった内容の布令を出している。
これって凄いことだと思いませんか?
三国時代 最高の戦術家 曹操をして、自分以上の戦争手腕と言わしめているのだから。
むろん、たぶんに夏侯淵を持ち上げている面もあるのだけど、それにしたって相当の賞賛の仕方だと思う。
夏侯淵も、一発で苦労が報われる思いだったんだろうなぁ。
しかし。そんな夏侯淵にも、ついに年貢の納め時がやってくる。
そう、219年の定軍山の戦いだ。
215年に漢中の張魯を倒して以来、この地は征西将軍に任命された夏侯淵が守っていたのだが。そこを劉備が侵攻してきたのである。
で、この戦いで夏侯淵は戦死することになるのだが。
……でも、それとて夏侯淵が戦争手腕で負けたってワケじゃない。二つの不運が重なったのだ。
原因の一つは、副将の張郤。
そう。
夏侯淵戦死の後で見事に軍をまとめて撤退し、株を上げた張郤ではあるが。
実は、夏侯淵の戦死の原因を作った遠因は張郤だったんだよなぁ、これが。
魏書の張郤伝では、『漢中攻防戦では、張飛に破れ兵を引いたこともあった』などとさりげなく書かれていますが。そこは、伝記には都合の悪いことが書かれない、というお約束。
事実は、ボコボコにやられ、たった十数騎で命からがら逃げるという大惨敗。
ここんとこはさすがは張飛、とその戦闘能力を認めざるをえない。
んで。
そんな不甲斐ない副将のために、夏侯淵は手勢の半分を救援に送らざるをえなかったのだ。
さらに。
原因の二つ目は、夏侯淵の無鉄砲。
張郤に半分の兵を送った時点で、夏侯淵の手勢はたったの二百しかいなかったのである。
そんな状況にもかかわらず、なんとこのオヤジ。
蜀軍に焼かれた逆茂木(防御のための柵)の補修に、ノコノコと顔を出す。
……そんなん、下っ端にやらせておけばいいのに。
まったくいらないところで、夏侯惇と似ているんだよなぁ。
夏侯惇も自ら土嚢担いで治水事業を監督したことがあったけ。
兵卒と一緒に働きたがるのは、夏候家の血筋だろうか?
んで。
そんな夏侯淵を見ている、一人の男があった。
そう。蜀のラッキー武将 黄忠だ。
この黄忠、劉備の入蜀の際には、先陣をきって敵の城を攻めたりと、それなりにハッスルしてはいたのだけど。しかし、この時点ではハッキリ言ってマイナー武将にすぎなかった。
地方競馬場にいる、ちょっぴり活きのいい馬みたいもんだ。
全国区では、だーれも知らない存在。
そう。そんな黄忠が、
二百にも満たない軍勢を率いて逆茂木の修理をしている夏侯淵を発見したわけだ。
黄忠の胸に去来した思いは、想像に難くない。
( ら、ら、ら、……らっきーぃいいいい〜〜〜ッ!!)
まさに千載一遇のチャンス。
むろん、ここは正々堂々と戦おうなど考える方が間違ってる。
軍勢を率いて、黄忠 突撃を敢行。
「おりゃぁあああああ! 夏侯淵、この黄忠に斬られて名を挙げるがいい!!」
「……こ、黄忠…? し、知らんぞッ!? 初めて聞く名前だッ!!」
「うるさいうるさい! オマエを倒して、ワシの方がメジャーになってやるのぢゃッ♪」
「なんじゃ、そりゃぁあああ〜〜ッ!?」
……と、いうやりとりがあったかどーかは、わからないけど。
とにかく、そんなこんなで曹操軍筆頭格とも言える夏侯淵は、
当時 無名に近かった黄忠に斬られてしまったのでした。
……しっかし、これに関しては夏侯淵もかなり運が悪かったよなぁ。
逆に黄忠はかなり要領が良くて、この翌年の220年にあっさり病死。
美味しいところだけかっさらって、死後は演義でカッコイイ最期まで創作されているあたり、
世の中 不公平としか言いようがない。
んで。
曹操は、夏侯淵 戦死の知らせを聞いて、
「大将たるもの、自ら戦うべきではない。
まして、逆茂木の修理に出向くなどもってのほかだ」
と、結構 手厳しいコトを言ってるんだけど。
でも、その言葉とは裏腹に、曹操はその年のうちに報復戦として漢中に侵攻している。
劉備のように身を滅ぼすまで戦いにのめりこんだりはしなかったけど、66歳の老骨に鞭打っての遠征は、相当に悲壮感が漂うものだったではないだろうか?
夏侯淵もまた、夏侯惇同様に 曹操にとってかけがえのない存在だったと思うんだよなぁ……。
【 補足 】
夏侯淵ってのは、強いだけじゃなく 義に厚い人物でもあったらしい。
若い頃には曹操の身代わりに罪を受けたり、飢饉の際には自分の子供を二の次にして弟の遺児の面倒をみたこともある。
また、夏侯淵の妻は曹操の妻の妹。つまり夏侯淵は、曹操にとって義理の弟でもある。
身内同然の関係にあり、また武将としても傑出した夏侯淵の存在は、非常に頼もしいものであったに違いない。
確かに夏侯淵は武将としては完璧な存在ではなかったかもしれない。
思慮が浅い面もあるし、奇策を得意とするわけでもない。
しかし力と勢いにまかせて、大陸を奔走し、多くの敵を倒し、
そして自らも戦場に倒れた彼の生き様には、それはそれでロマンを感じてしまうのだ。
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