私評 『 曹丕 』

『打倒 クソ親父!』

ただの二代目では、なかった人

 『冷血トカゲ』
 個人的に、曹丕のコトはそう呼んでいる。

 北極海に生息する魚の一種は、超低温の体を維持するため血液が青色だという。
 (低温においては酸素運搬効率がいいらしい)

 思うに、
 曹丕の場合も変わった色の血が流れていたのではなかろうか。

 青とか。
 あるいは、緑色とか。

 なんせ悪魔も裸足で逃げ出すほどの、冷酷と陰湿の皇子様なのだ。
 さぞかし素敵な血の色をしていたに違いない。(笑)


 ……と、まぁ。
 しょっぱなから、メチャクチャに書いてしまいましたが。

 実のところ、個人的には
 曹丕のコトが すごく好きだったりもするんですよねー、これが。


 そりゃあ、曹丕はどうしようもない冷血皇帝様ではありました。
 しかしながら。


 そもそも、あそこまで曹丕が歪んでしまった原因を作ったのは
 クソ親父の曹操
ではありませんか。

 コトの次第は、曹操が溺愛していた天才少年 曹沖が死んだときの、曹操の発言。
 いくら悲しかったとは言え、曹操が曹丕にかけた言葉はあまりにむごいものでした。

 「曹沖が死んだのはワシには不幸だが、オマエには幸運だなぁ、曹丕」
 
 この言葉を、「悪意翻訳機」にかけたら以下の感じ。

 「良かったねぇ、曹丕くん。曹沖を後継者にしようと思っていたけど、
  あいつが死んだおかげで、キミにも後継者になれる可能性ができたんだからさぁ。
  うひゃひゃひゃひゃ!」


 ……などと……。
 よくもまぁ、実の息子にこんなコト言えたもんだ。

 そりゃあ、人間って自分が傷ついているときには、他人も傷つけてしまいがちだけどさ。
 曹操の場合は、ちょっと問題ありすぎだって。

 大事な後継者候補の息子に、
 人格崩壊させてしまうかもしれない言葉をかけてどーする、
 と言いたくなる。


 しかし、さすがは曹丕だ。彼もまた、曹操の息子。
 どうやら父親のゴキブリ並の生命力も、しっかりと受け継いでいたらしい。

 父親からの、えげつない精神攻撃にも
 耐えてみせたことが、その証拠と言えるだろう。


 「おのれぇ……、クソ親父がッ。
  上等じゃねぇか! いいぜ? そっちがその気なら……」

 「この俺の生涯をかけて。全存在をかけて。アンタを否定してやるさッ!!」

 「アンタを越えてやることでなぁーーッ!!!」


 おそらくは、こんな感じで復活したんじゃないかな。……たぶん。(笑)


 そのあたりの事情を、踏まえてみると。

 曹丕という人物に対しては、優秀な二代目であったというよりも
 偉大すぎる父親に挑んだ勇気ある息子、として評価したいところだ。



 今も昔も、父を越える男になることこそが、息子の願い。
 いや、課せられた宿命。

 そんな世の多くの息子達の戦いを
 もっとも体現した生き様をみせてくれた三国時代の登場人物。
 それこそが曹丕。

 そんな曹丕が、好きになれないワケがない。
 嫌いになれるワケがないじゃないか!



 ……てなワケで。
 やたらと前置きが長くなりましたが、ここではそんな曹丕の魅力を紹介し、
 世の多くの曹丕嫌いな人達に、曹丕を好きになってもらいたいと思います。


 まず、最初に。曹丕が犯した数々の悪行についてですが……。

 スンマセン。

 さすがに、アレらに関してはフォローの仕様がないですわ。
 詳しくは、甄姫と于禁についての私評で紹介してるけど、
 もう陰湿な仕打ちにかけては、曹丕は三国一の男。

 後世の歴史家 司馬光も
 『君主の資格すらねぇよ、こいつ』 とサジを投げちゃってるくらいだ。



 だ け ど。

 司馬光の評価には、ちょっと待った、とも言いたいんだよね。

 そもそも、君主の資格ってなんなのさ?

 そう、ここで皆さんにも考えていただきたい。

 『国を治める君主にとって、大事な資質ってなんだろうか』、と。

 仁愛? 公平? 賢明? 勇気? 覇気? 勤勉? 

 ……ん〜、しかしな〜。どれも、なんかしっくりこないんだよなぁ……。

 この際、個人的な見解を述べてしまうけどさ。
 そーゆー美徳とかについてウダウダ言っていても仕方がないと思うのだ。
 為政者に求められる一番大切な資格、それは

 『いかに国を富ませ、どれだけ民衆の生活を豊かなものに出来るか』

 ……これに尽きるんじゃないでしょーか?

 選挙の際にキレイ事を必死で並べ立てて演説してる政治家よりも、
 実際に人々の生活に役立つ政策を実行に移して
 成果を上げる政治家の方が、よっぽど偉いもの。


 そう。
 そーゆー『内政手腕に優れた政治家』
 すなわち『民衆にとって有り難い為政者』かどうか、という点に限って評価すると。

 曹丕って三国時代でもトップクラスの君主だったりするんだ、これが。


 個人的に
 「内政面での業績で、三国時代のベスト3を挙げろ」
 と言われたら以下の三人を挙げたい。

 荊州を治めた劉表。
 呉の三代目 孫権。
 魏の文帝 曹丕。


 この際だ、
 内政的な業績にスポットを当てて彼らを紹介してみるとしよう。


 単独で荒廃した荊州に乗りこみ、見事に文化と平和の楽園に変えてしまった劉表。

 治水と治安事業に力を入れて、江南を豊かな土地に育てて後世に残した孫権。

 覇王 曹操が基礎を築いたとはいえ、
 決して国家として完成していなかった魏を完成させた曹丕。


 ……てな、具合。
 政治家としては、彼らは実にいい仕事をしているんだよね。
 気の毒なことに、どの三人も一般的な評価はいまいち高くないようだけど……。

 しかし評価が高くないのは、
 彼らが戦争が下手だったからとか消極的だったからであって、さ。

 民衆にとっては、彼らのような為政者の方がよっぽど有り難かったんじゃないかな。

 
 逆に、民衆にとって有り難くない為政者としては、
 かの有名な孔明センセイをあげることができると思う。

 劉備は死に際に、孔明に対して

 『キミの才能は、曹丕に十倍す。後のことは、くれぐれも頼む』

 とか、言っているんだけど……。

 ハッキリ言って、そりゃ逆じゃないっすか?

 『キミの才能は、曹丕の十分の一だ。あんま、無理すんなよ』

 …て、言うべきだったと、つくづく思う。


 確かに孔明の内政手腕は凄い。てか、驚異的ですらある。

 蜀という決して恵まれていない風土の土地を見事に開拓し
 南蛮を制圧して国力を飛躍的に上昇させている。
 夷陵の戦いで呉に大敗を喫して以来、国家として半ば破綻していた蜀漢を
 立て直しただけでも充分に凄いのに、
 さらなる軍事行為にも、耐えうる国へとステップアップさせて見せたのだから。

 内政の才能だけなら、孔明は劉表に喧嘩を売れる数少ない人物の一人だろう。
 しかし内政面での才能は優れつつも、孔明自身の嗜好は戦争に向いていて
 結局のところ『富国強兵』に行きついてしまう。
 民衆が、孔明の内政手腕の恩恵によって
 豊かな生活を得る事は出来なかったワケでして。

 極端な話
 孔明の場合、民衆に対する貢献度はプラスマイナス、ゼロ。
 
 だって民衆が一番 嫌う戦争を繰り返したのだもの。
 もっとハッキリ言ってしまえば、孔明の戦争路線こそが、
 やがて蜀が滅亡へといたった一因ともなっているし。


 才能はともかく業績面で考えると、為政者として孔明は曹丕には及ばないと思う。



 では、曹丕の内政的業績はどーだったかというと。
 ざっとあげただけで、

 * 『九品官人制』  
 有能な役人をスカウトする為の成文法を制定。歴史的意義も大きい。

 *『五朱銭の復活』
  
 悪貨を駆逐して良貨を流通させる。経済においては大変 有意義なことは言うまでもない。

 *『減税』
  
 民衆にとっては、これが一番ありがたい。
 民の不満が減れば国内も安定するので、けっこう合理的な政策とも言える。

 *『西域交通の復活』  
 長らく断絶していた西域との交流を復活。経済・文化的な効果は大きい。

 ……てな、具合。


 どれもこれもが、民衆にとっては歓迎される施策ばかりだ。

 そう。

 曹丕って、とかく冷酷だとか残忍だとか陰湿だとか言われるけれど
 そういう曹丕の負の部分が、民衆に向けられたことは、全くなかったのだ。


 むろん、民政だけが曹丕の業績じゃない。なんといっても、

 『献帝から禅譲を受けて皇帝となり、正式に魏を建国』

 『許都から洛陽に遷都』

 この二つが大きい。

 そもそも、彼の父親である曹操は、魏の基礎を築いたとはいえ、国として完成させたわけじゃない。
 確かに曹操も『魏王』と称してはいるが
 それはあくまで 『漢王朝に仕える、自らを王様と名乗れるくらい有力な家臣』 てな意味であって
 皇帝となったわけじゃないのだ。
 曹操自身は、権力は手中にしたが、形の上ではあくまで漢の臣下だったのは有名な話。

 その理由を答えるにあたって、曹操は

 『 論語にあるように、実質的に天下を握っていれば天子になる必要はない。
  もし、私に天命があるとしても、私は周の文王になろう』


 とか言っていたりする。よーするに、イイカッコしたかったんだろう。

 しかし、だ。
 どれだけ言葉を飾ったところで、

 権力は手にしていたいけど、
 皇帝としての権威は面倒くさいから遠慮します


 ってコトなんだよなー。結局のところ。

 そりゃぁ、合理主義者な曹操にとっては、それでもいいかもしれないさ。
 しかし、周囲の人達にとっては、はた迷惑な話以外の何者でもない。

 そもそも、当時は形式・礼法がガッチガッチで重んじられる儒教な時代なのだ。
 突然変異の奇形みたいに生まれた合理主義者 曹操の流儀は
 付き合わされる臣下一同にとっては たまったもんじゃなかったであろう。

 今もそうだけど、やはり名義ってのは大事。
 実質的に権力が魏にあるのに、権威が漢にあるやり方をいつまでも続けていていいハズがない。


 てなワケで。

 曹丕はクソ親父が死ぬと、まず、なにはともあれ、
 速攻で献帝から禅譲を受けて、魏の皇帝として即位し
 それを民衆にも理解させるべく遷都を実行しただと思われる。

 その帝位禅譲と遷都というビッグイベントを
 同時進行で1年以内におこなったのが凄い。


 都を引っ越すというのは、もちろん大変なコトではあるけど、
 帝位禅譲というのも簡単にできる事ではないのだから。

 やれ、占いで吉凶が出ただの、
 洪水や地震、彗星や日蝕という事例をあげて
 天命が漢王室から去ったことを証明しなければいけないだの、
 竜や鳳凰の目撃例を探して、新しい天命が魏に訪れた事を宣伝しなければいけないだの。

 ……今日における科学的な観点から見ると
 すっげー馬鹿馬鹿しく思えるかもしれないけど、これが三国時代の中国における常識。
 当時の人々は真剣だったのだから笑っちゃいけない。


 漢王室400年の歴史に終止符をうつには
 それなりに複雑怪奇な手順と儀式を踏まえなくてはならない。

 そ〜ゆ〜気が滅入ってくるようなワケのわからない手続きを踏むのが嫌で
 権力という美味しいところだけかっさらっていたのが、曹操。

 そんなクソ親父の後始末をしたのが、曹丕。

 見方を変えれば、こんな図式だって成立するくらいだ。


 何はともあれ、親父がなれなかった皇帝陛下の地位を
 1年という短期間で半ば 力技的にもぎ取ってしまった曹丕。
 この一点だけに限っては、曹丕は親父を超えたと言っていいだろう。




 まぁ、実のところ。この際 言ってしまえば、
 才能面においても、曹丕には胸を張る資格が充分にある。
 あらゆる分野で才能を発揮した反則的マルチ野郎である曹操に見劣りしないくらいに
 曹丕も多分野で才能を発揮している
のだから。

 まず、内政手腕に関しては、先ほど詳しく述べたので省略するにして。

 詩作に関しても曹操に負けてはいない。

 曹丕の詩はのびやかな表現をしながら、
 不思議なかげりがあるという近代的な感覚をもつ。

 スケールの大きい英雄の気概に溢れた曹操の詩とは対照的な作風で興味深い。

 学者としても、曹丕は有能だ。

 『典論』という書物を著して、批評文を文学として確立させている。
 文学の一分野におけるパイオニアであったといってもいい。
 「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」という一節は有名。

 個人的武芸いたっては達人クラス。

 6歳で曹操から射術を学び、これをマスター。
 8歳で馬の上から弓を討てるようになり、11歳にして張繍征伐に従軍。
 アニキの曹昴やイトコの曹安民が戦死するなか、馬を操って脱出。
 馬術の腕前も相当だったのだろう。

 しかしもっとも凄いのが剣技。
 曹丕は剣の達人だったのだ
 多くの師について学び、曹操の部下 ケ展という武術の名人と手合わせして勝っているほど。

 おまけに得意としていたのが二刀流だったというのだから、カッコイイ
 「一刀と二刀、それぞれの流派の一長一短」
 について一席 ぶってみせたこともあったとか。
 ( ちなみに達人クラス同士の戦いとなると、一刀の方が有利だというのが曹丕の持論 )


 いやいや、まったくもってたいしたもんだ。
 ホント、戦争以外の才能はクソ親父に負けてねーよ。

 少なくとも、どっからどー見ても
 孔明の十分の一の才能の持ち主では、断じてないぞ曹丕サマ。


 もっとも、戦争に関しては、孔明と同様に
 曹丕も得意ではなかったようだ。
 呉に遠征した際にはたいした成果もあげられずに虚しく帰還してたりも、する。
 
 しかし、それはそれで

 『 ああ、長江は天下を画する所以なり 』

 なんて名セリフを残しているんだから素敵だ。

 実際、長江は大陸を南北に分ける天然の巨大な掘。
 長い中国の歴史でも、長江を渡河しての軍事行動の成功例は、本当に少ない。
 曹丕は戦争には勝てなかったけど、戦略面では かなりいい目を持っていたのだと思う。

 名セリフと言えば、グルメな一面を感じさせる言葉だって残っている。

 『夏のクソ暑い日に、酒を片手に葡萄をつまんで涼を取るのは最高だぜ』


 ……とか、言っていたりするんだ、これが。
 わざわざ葡萄なんてシャレた果物を持ち出してくるところが、いかにも曹丕らしい。
 しかし彼の場合は、そういう貴族趣味も絵になっちゃうんだよなぁ。


 なお、変わったところでは

 「おはじき」も得意だったとか。(笑)


 中央を隆起させたテーブルに布を敷いて、碁石をぶつけて落とすことを競うとゆー
 いかにも男の子らしくない遊びではあるのだが
 当時の若い貴族の間では、これがオシャレなゲームとして流行っていたらしい。

 ……まぁ、現代におけるビリヤードみたいなもんか。

 んで、普通は指で持ち玉をはじくところを
 曹丕サマは、なんとハンカチではじいて百発百中だったそうだ。

 たとえ遊びであろうと、
 優雅に決めないと気が済まない性格だったんだろーなー。

 
 こうやって見ると、なかなか粋なアンチャンだ。

 

 しかし。
 そーゆー、とっても多才で多感な青年であったゆえに
 結構 ハードな人生を送るハメになってしまったのかもしれない。


 父親との確執はあったし

 三国一の美人(しかも5歳年上の姉さん女房だ)をゲットしつつも、
 妻とは冷えた関係の夫婦生活
。結果 死を与えることになったりしたし。

 ポエムな弟 曹稙との後継者争いは熾烈を極め、どうにか皇帝となった後は、
 武闘派な弟 曹彰が攻めこんできそうになったりする。


 クソ親父が未完成のまま残した魏をいう国家を充実させるために日々、
 精力的に頑張っても、誰もがそれを当然のことだという顔をして、大して高い評価もくれない。

 それどころか、ことあるごとにクソ親父と比べられる始末。
 クソ親父に仕えた家来共、どいつもこいつもジジイのくせに、
 なかなか死なないんだよな〜、これが。

 献帝を泣かせたり、曹稙を地方に飛ばしたり、于禁を罠にはめたり、
 父親に自分がされたことを息子の曹叡にしていびったりと
 ささやかな(?)身内イジメをして憂さを晴らしつつも、それはそれで非難の対象になったりする。


 ……やってられっか、こんちきしょーッ!


 そんなこんなで。二代目のボンボンにあるまじき起伏に富んだ人生を送った曹丕でしたが、
 さすがにストレスを溜めこんでいたのでしょう。むしろ、病気にならない方が不思議です。

 西暦226年、曹丕は40年の短い生涯を閉じる事になったのでした。

 
 

 【 総括 】

 ……以上。
 こーやって、足跡を追ってみると。

 曹丕の生涯って、ただの二代目ではなかったと思えます。

 少なくとも、拡張路線をひた走る父親とは違うタイプの、内政充実型の君主でした。


 真面目な話。
 偉大な創業者を父に持つ二代目って、かなり損な役回りを演じる事が多いのです。
 日本で言えば、徳川家康の息子 秀忠もそうでしょう。

 どれほど有能な人物で、どれほど勤勉な人物であったとしても。
 それが、当然のコトのように思われてしまいますし
 また 二代目の業績が、初代の業績と混同されることも非常に多いのです。
 特に、父親が在命中に二代目が頑張った仕事は、まず間違いなく父親の手柄になります。
 あくまで、父親が生きている間は、親子といえど主君と部下、みたいな関係ですから。


 ようするに、曹丕ってのは典型的な 『二代目が損をしている例』だったりします。


 曹丕自身は、おそらく父親を尊敬しつつも憎んでもいたのでしょう。
 ハッキリと見える形で、父とは違う道を選びました。

 皇帝としての道。

 内政家しての道。

 確かに内政的業績の中に画期的なものはなかったのですが、わずか6年の間で
 あれだけ国力を充実させる政策を次々と実行に移していったのは、やはり凄い事だと思うのです。

 少なくとも、魏が国家として成立するために曹丕が大きな役割を果たしたのは事実。

 結果的に『優秀な二代目』として枠におさまる形となった曹丕ですが、
 父親とは違う何かを見ていたのでしょう。
 すべての面で父を越えられなくとも、父ができなかったことができれば、
 そこでは父を越えたことになるのではないか、と。


 肉親や身内との愛憎が、曹丕自身を苦しめる事があっても、
 そこから生まれる怒りのエネルギーの多くは、父を越えるために、
 すなわち『 国を充実させる治世の皇帝』となるために使われたのではないでしょうか?

 確かに、曹丕自身にも押さえる事ができない負の感情が、形となって吹き出すことはありました。
 しかし、
 曹丕の冷酷性は常に身内か近臣に向けられ、
 決して民衆に向く事はなかったのです。

 魏の国民にとっては、曹丕は理想の皇帝だったかと思われます。



 曹丕は確かに三国一の陰湿野郎です。冷血トカゲです。
 
 人間としては、けっして誉められたタイプではないでしょう。
 ……しかし、為政者として評価すれば、どうでしょうか。


 負の感情を、おのれが果たすべき仕事に使うエネルギーへと変えた、
 ある意味でポジティブな姿勢。

 自分の立場を認識し、そこから大きく逸脱することはしないという自律性。

 為政者として見ると、
 曹丕は それなりに美学を持っていた人物として
 評価してもいいのではないでしょうか?






 ……余談になりますが。
 曹丕が詩人として、天才詩人であった弟の曹稙に対して
 嫉妬の念を持っていた事は間違いないのですけど。
 しかし、どうやら曹稙もまた 曹丕に嫉妬や羨望を感じていたと思われるのです。

 曹稙は詩人として卓越した才能を持ちつつも、本人はあまり詩というものに価値を感じておらず、行政官、
 すなわち為政者として名を残したがっていたらしいのです。
 そのことを示す事例としては、曹丕によって何度も国替えをさせられていた、いわば流浪の身になっていた時代に、
 中央に送った手紙の内容から推測できます。いわく、

 『 自分は心を入れ替えました。今となっては、決して玉座を望む事はありません。
  ただ、ささやかな形で結構ですので、政治にたずさわる仕事を与えてください。
  自分は、きっとお役にたてることでしょう』

 ……といった内容。

 曹稙は曹丕の死後も、曹叡に願い出をしつづけましたが、結局 彼の願いは叶えられる事はありませんでした。

 『曹丕は曹稙の詩才を妬み、曹稙は曹丕の内政家としての業績にたまらない羨望を感じていた』

 ……こう考えると、つくづく相容れない兄弟だったのだと、居たたまれない気持ちになりますねぇ……。