悲劇の軍師 荀ケの影に隠れてしまっていることで、
ちょっぴり、……いや、かなり印象の薄い荀攸であるが。
実のところ、結構あなどれない お方であったりする。
そもそも、あの悪王 董卓に対し、暗殺計画を企てたほどの男なのだ。
ただの地味な男であるハズがない。
事実、その実力は、まさに スーパー軍師 と呼ぶに値する。
ここではそんな
一見 地味なくせに、とんでもない才能の持ち主、荀攸について掘り下げてみたい。
最初に 「荀攸と荀ケ」 両者の違いについて。
まずは、この点からハッキリとさせておいた方がいいかもしれない。
政治面で曹操を大いに支えた荀ケとは対照的に、
荀攸は多くの戦場に参軍して主君を助けている。
戦争の際には後方から的確な助言を送った荀ケ。
かたや、従軍して戦場で主君を補佐した荀攸。
『戦略の荀ケ、戦術の荀攸』 と評すべきか。
特に、
袁紹と曹操が河北の覇権を争った官渡大戦において、
荀攸が果たした役割は極めて大きい。
西暦200年、官渡の戦いにおいて。
圧倒的兵力差という『戦略的不利』をくつがえすべく、
曹操は個々の戦闘にて、『戦術的勝利』を連続的におさめ、
苦しい戦いをしのいでいったのだが。
この一連の局地的連続勝利を演出してみせたのが、ほかならぬ荀攸であったのだ。
そのあたりを踏まえて、官渡大戦における荀攸の活躍ぶりを紹介しよう。
まず、はじめに。
ここんところは 大前提として述べておきたいのだが。
官渡大戦において、曹操陣営が苦境に立たされたのは
兵力差だけが要因だったわけではない。
兵力差のみならず、袁紹陣営には曹操陣営を圧倒できる要素がいくつもあったのだ。
とくに強調したいのは、以下の2点。
1.『 袁紹陣営の、戦略的優位 』
2.『 袁紹自身が持つ、めぐまれた軍事的才能 』
まず、このあたりは袁紹陣営の方を正当に評価したい。
え?
ナニ?
『 袁紹陣営が、兵力にモノを言わせて優勢だったのは わかるけどさぁ。
袁紹に、軍事的な才能なんてあったの? ただの優柔不断なボンボンでしょ、彼は
』
……だってぇ!?
い、いや。まぁ。
確かに、そうおっしゃる人の方が大多数なんだろーけど。
んで、それが三国志における一般的な見解であることは否定できないのだが。
しかし。しかし、だ。
結果的に敗北したとは言え、官渡大戦における袁紹の戦い方を冷静に分析してみると。
戦闘指揮能力でも、袁紹が曹操を圧倒していた局面が存在するんだな、これが。
そこんとこを踏まえて、
ここでは袁紹という男を再評価する意味でも、細かいところまで解説してみたい。
……では、気を取り直して。
最初に、
『 袁紹陣営の、戦略的優位 』
ここのところから、解説していきましょう。
まず、第一に
この際、声を大にして言っておきたいのだけど。
官渡大戦において袁紹陣営は ただ単に大兵力を動員しただけじゃないのだ。
孫策に対しては同盟を結んで、
後方から曹操の本拠地 許都を急襲させ、献帝を強奪させようとしているし。
劉表に対しても同盟を結び、荊州方面から曹操を脅かしている。
キッチリと、曹操包囲網を整えた上での、戦闘開始。
もし郭嘉の予見がなければ、曹操は ただでさえ少ない兵力を さらに分断して
袁紹との戦いに挑んでいたかもしれない。
そう。
袁紹陣営の怖さとは、戦争の前段階から勝利条件を整えてしまうことなのだ。
大兵力を動員しつつも、補給面においては充分な準備を整えていること。
しかも、政治・外交能力を駆使して、揺さぶりをかけてくること。
袁紹陣営と戦うということは、単に戦場での駆け引きをするだけでは済まされない。
陳淋が文学的才能の粋を尽くして発した、
曹操一族を侮辱する内容の檄文からして、現在で言う広報戦の先駆けみたいものだ。
政治・外交・広報、その他もろもろ。
袁紹との戦いとは、ありとあらゆる面での総力戦を強いられるのである。
ぶっちゃけた話。
戦争なんて、敵より多くの兵士を揃えて、物資を充分に用意しておけば
それだけで、前段階において勝利している。
「寡兵をもって、大軍を討つ」
など、用兵学上では邪道もいいところ。
結果的に負けてしまったとはいえ、
官渡の戦いにおいては袁紹陣営の方こそが、まっとうな戦略を用意していたと言えるだろう。
さて、その次に。先ほど述べた、
『袁紹自身が持つ、めぐまれた軍事的才能 』について。
これも、おおいに主張させてもらいたい。
袁紹の軍事的能力は、決して低くない。
いや、場合によっては曹操を凌駕してさえいたのだ。
……いや、嘘じゃないってば。
袁紹が得意とするのは、大兵力を重厚に布陣し、正面から相手を圧殺する戦法。
要するに、正攻法中の正攻法。
事実、この戦法によって当代きっての軍略家 公孫瓚を撃破している。
そもそも、官渡大戦の中盤における曹操軍との正面決戦では、
曹操軍に約2〜3割もの兵士を戦死させるほどの、大ダメージをあたえていたりするのだ。
機動力を生かした奇襲を得意とする曹操にとって、
袁紹の正攻法はある意味で脅威だったといっていい。
大兵力で構築された重厚陣に対しては、なかなか隙を見い出すことができないからだ。
……ぶっちゃけ、
用兵家としての相性に限って言えば、曹操は袁紹に対して分が悪い。
ジャンケンで言う、グーとチョキの関係みたいなもんだ。
この辺の事情については、後ほど詳しく紹介したい。
さて。
前置きが長くなってしまったけど。
こっからが、本題。
先ほど述べたような、圧倒的不利な状況を、曹操はいかにくつがえしたのか?
結論から言ってしまえば、
「連続した戦術的勝利による、戦略的不利の打開」
で、あるのだけど。
しかし実際問題、
局地的勝利を重ねたところで、大局を覆すのはなかなか難しいものだ。
個々の戦闘に意味を与え、かつリンクさせていく
軍事的シナリオが用意されていなくては、最終的な勝利にはいたらない。
言い換えれば、官渡大戦のおける「逆転劇」の裏方には、
そのシナリオを書いた希有の脚本家がいたということ。
……では、そろそろ御登場願うとしましょうか。
幕中にて策を巡らせ、「勝利の連鎖」を演出してみせた鬼謀の士。
スーパー軍師 荀攸殿のお出ましだ!
官渡大戦において、荀攸が見せた芸当は
『戦術的勝利のスーパーコンボ』
という表現がピッタリなほどの、離れ業だったと言っていい。
以下、具体的な流れとして整理してみた。
@ 緒戦の段階で重要拠点 延津を半ば放棄するよう提案。
→ 黄河という重要な防衛ラインに固執せず、荀攸は曹操に袁紹の渡河作戦の阻止を諦めさせる。
A ただし、代替案として陽動作戦を提案。
→ 荀攸の献策により、曹操は袁紹の背後を衝く動きを見せる。
→ 誘いに乗った袁紹率いる本隊は、移動を開始。
これにより、袁紹陣営は戦力を二分化せざるを余儀なくされる。
B それに合わせて、奇襲作戦を献策。
→ いわゆる白馬の戦い。曹操率いる軽騎兵は、得意の機動作戦を開始。
張遼とともに先鋒となった関羽は、白馬包囲部隊を率いる顔良を斬り殺す。
→ 顔良を討たれ、激怒した袁紹は文醜・劉備による五千の追撃部隊を派遣。
結果、再度 兵士を分散させてしまう。
D 『 撒き餌の計 』を発動。文醜の部隊を無力化。
→ 補給部隊を囮に使い、敵軍を混乱させることで、猛将 文醜を討ち取ることに成功。
→ 顔良・文醜を討たれたことで、袁紹は総進撃の号令を出す。
袁紹軍は曹操軍の防衛ラインを突破し、官渡へと進軍。
しかし、その補給線は伸びざるをえなくなる。
→ 徐晃率いる別働隊が、袁紹軍の補給線を分断すべく、ゲリラ戦を展開。
→ やがて袁紹の幕僚 許攸が、烏巣の兵糧庫の情報をもたらす。
E 賈詡と共に、許攸の情報を信用するよう曹操に進言。烏巣焼き討ち作戦に賛同。
→ 烏巣の兵糧を焼かれ、袁紹軍の指揮系統は混乱。
結果、袁紹軍は死者 約八万を出して惨敗。河北へと撤退する。
以上。
……うーん、すげぇ。
まさに「勝利の連鎖反応」
郭嘉の予言やら、荀ケの激励の言葉も、かすんで見えるくらいだ。
少なくとも、官渡大戦を制するにあたっての働きを見る限り、
荀攸の貢献度は、荀ケに見劣りするものではないと言えよう。
何度も繰り返すようで悪いが、
このとき曹操陣営が相手にしていた敵は、ただ単に数が多いだけの無能な連中ではない。
官渡の戦いにおける袁紹陣営とは、実に強大な存在だったのである。
特に、戦闘の前に勝利条件を整えていた戦略的手腕は、もっと高く評価されるべきだ。
確かに袁紹は、いくつかの局面で好機を逃しているが、
それでも戦略的に有利な条件をしっかり整えていたゆえに、
曹操陣営を絶体絶命の窮地まで追い込んでいったのである。
戦略的有利の前では、多少の戦術的敗北など封殺できる。
司馬懿が諸葛亮の北伐にて、終始 余裕の姿勢を見せたことなど、特に顕著な例だと思う。
そして、袁紹もまた、そのことをよく理解していたようだ。
公孫瓚との戦いでは、何度も戦場で手痛い敗北をかさねつつも、
政治・外交面にて公孫瓚を追いつめていき、ついには滅亡させている。
『 徹底的な正攻法 』
これこそが、袁紹陣営の強さであり、怖さであると言ってもいいだろう。
ちょっとやそっとの奇策など、
正面から粉砕し、叩き潰してしまうのである。
……ならば。
これに対し、どうやって勝利をおさめればいいか?
ちょっとやそっとではない奇策を連発し、
一気に相手の息の根を止めるしかない。
そう。
それをやってのけたことこそ、荀攸のスーパー軍師たるゆえん。
官渡の戦いでは、烏巣における奇跡の逆転劇 が目を引くけれど、
この戦いの真の本質とは、そこにいたるまでの数々の駆け引きの妙だと思う。
数々の奇策を連発し、袁紹軍を官渡まで引きずり出した荀攸の存在なくして、
曹操陣営に勝利はなかったと、言えるのではあるまいか。
もし、荀攸が奇策を連発しなければ。
袁紹陣営は、顔良・文醜の二枚看板を失うことはなかったであろうし、
それが原因で足並みを乱すこともなかっただろう。
袁紹は、自軍の持ち味を生かした重厚布陣による
『 正面圧殺戦法 』を、終始 展開したに違いない。
何層もの陣営を築き防備を固めながら ゆっくりと前進するという、袁紹の得意技。
言うなれば、触れるモノ全てを粉砕する『 最強の盾 』だ。
速度にこそ欠けるが、しかし確実に目の前の敵を粉砕し、
踏み潰していく暴虐なまでの堅実性。
事実、この正面圧殺戦法を使ったときの袁紹は、曹操を完全に圧倒している。
顔良・文醜を失った直後(200年8月)、
ようやく袁紹も従来の必勝パターンを思い出したのか、
この正面圧殺戦法に移行し、
なんと ほぼ一撃で
曹操軍の約2〜3割もの兵士を葬り去ってしまっているのだ。
当時の戦いにおいては、兵士の2割も死滅させられるなど、ほとんど致命傷。
この状況から、なんとか兵士の士気を回復させ、
態勢を立て直した曹操は、確かに見事ではある。
しかし。
もしも、最初から袁紹が本来の戦い方を展開していれば、
どうにもならなかっただろう。
荀攸がおこなった
『 数々の戦術的勝利を連鎖させることで、終始 陽動と挑発を繰り返し、
相手に、本来の戦い方をさせなかったこと 』
……これって、本当にスゴイことなのである。
だいたい、敵の持ち味を封殺する策を連発するあたりからして、ポイントが高い。
『 全力を出した相手を、叩きのめしてこそ価値がある! 』
なーんて言うのは、格闘漫画の世界で充分。
戦争は、とにかく勝たないと意味がない。
『 相手に実力を出させず、叩きのめしてこそ価値がある!』
軍師たるもの、こうでなきゃ。
曹操陣営には、多くの謀臣がひしめいているが
この手の「相手の持ち味を封殺する策謀」にかけては、
荀攸が特に抜きんでている。
事実、
対袁紹戦だけではなく、対呂布戦においても
その才能はおおいに発揮されているのだ。
官渡の戦いの前年に展開された
「対呂布 最終局面」 下ヒの戦いにおいては、
郭嘉と共に水攻めを進言。
呂布陣営に籠城戦を強い、その結束を崩すことで、
敵の内部分裂を誘い、結果的に呂布を降伏させてしまっている。
水攻めとは、敵の居住空間や食料・物資に打撃を与える戦法であるが、
これを対呂布戦に用いたところに、荀攸のセンスが光る。
戦闘士気能力には優れつつも、組織の管理能力に欠けていた呂布にとっては
実に痛いところをつかれる思いであったに違いない。
このように、
呂布と袁紹という、曹操の生涯でもっとも手強かった敵二人を
戦場にて封殺しているあたり
こと 戦術的才能に限って言えば、
曹操陣営でも1、2を争う軍師として評価できると思う。
しかしながら。
戦場では、情け容赦ない策を連発しつつも。
荀攸自身の人となりは極めて真面目で、仁徳を感じさせるものであったようだ。
そんな荀攸を曹操も高く評価しており、
「荀攸は見てくれは愚かに見えるが、中身は賢い。
臆病に見えて勇気がある。弱そうでいて、実は強靱である。
賢者であることは真似できても、愚者ように振る舞うことは難しいものだ。
古の賢人 顔回でさえ、荀攸には及ばないであろうよ」
「荀攸こそ、人の師として仰ぐべき見本のような男だ。よく礼節を尽くすように」
と、ことあるごとに息子の曹丕に言い含めていたという。
しかし、このエピソードからは、荀攸の賢才を知れると同時に、
どことなく彼が漂わせていた哀しみも感じ取れるのだ。
荀攸は、そのあまりある才能ゆえに、
主君 曹操を恐れ、愚者を振る舞っていたのではないだろうか?
彼が死に臨んで、親友の鐘繇に託す形で残した、未公表の奇策は十二あったといわれている。
鐘繇は荀攸の死後、彼の著作集を編纂しているが、結局 それを完成させずに死去。
『正史』三国志に注訳を記した、歴史家の輩松之も、
「荀攸の死後、16年もたったにかかわらず、その著作集が完成せず、
奇策が世に伝わらなかったのは残念だ」
とコメントしているが、逆に言えば、死後 16年たったにも関わらず、
公表するのが はばかられるような内容であったのかもしれない。
生前、曹操の征伐に随行していた際も、計略は本営にてめぐらし、
極力 その内容が世に知れ渡ることのないよう、つとめていたという荀攸。
しかし、もし荀攸が惜しむことなく、それらの奇策を全て公表していたら。
あるいは、魏に有利な方向で歴史が変わっていたかもしれない。
輩松之のコメントじゃないけど、確かに 荀攸の奇策が公表されなかったのは残念だ。
封印しなければならなかったほどの奇策というのは、
それはそれで非常に興味をそそられるもの。
そういう意味でも。
叔父の荀ケと同様、
荀攸もまた謎を残したまま世を去ったミステリアスな人物と言えるのではなかろうか?
以下、蛇足。
「どーしても、荀攸の残した奇策の内容が知りたい!」 という人へ。
あくまで想像でしかありませんが、
それらの奇策がひそかに鐘繇から彼の息子 鐘会に託されていた可能性はあります。
蜀を滅ぼしたことで有名な鐘会は、
三方面以上の同時侵攻や州単位に広がる包囲作戦などを得意とするなど、
戦争そのものをデザインできた希有の戦略家でした。
荀攸の軍事的構想力が鐘会へと受け継がれていたのではないか、と
大胆に想像してみるのも楽しいかもしれませんね。(笑)
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