「暗愚」の代名詞となった、蜀の後主。あるいはひそかな名君か?
劉禅 [ 公嗣 ]  〜 りゅうぜん [ こうし ] 〜
【 生没年 】

207 〜 271年
分類 君主  天然 型
長所 おおらか
【 出身 】

荊州 南陽郡新野
短所 お気楽すぎる
備考 嫁サンは張飛の娘
列伝

 蜀の後主。諸葛亮が後見を任され、その死後も蒋[王苑](ショウエン)・費ら有能な家臣が補佐したが、彼らが亡くなると軍事の全権を姜維に渡し、宦官の黄皓を寵愛して国政を堕落させた。
 魏軍が蜀に侵入し、成都を包囲されると、ほとんど無抵抗で降伏する。身柄を洛陽に移され、魏から安楽公として領地を与えられた。司馬昭は宴会での劉禅が楽しそうなのを見て、部下に「こんな人物では諸葛亮が生きていてもダメだ。まして姜維ごときでは」と言ったという。


 中国では、「小説」三国志演義の影響か、劉禅の評価は極めて悪い。彼の幼名「阿斗」は暗愚の代名詞として後世に伝えられていることはあまりにも有名。
 しかし、17歳で即位してから41年にわたる在位期間の殆どは真面目な皇帝として勤めており、宦官に権力をあたえた期間もわずか5年である。また、劉禅自身が民衆を苦しめたという具体的なエピソードはまったく残っていない。
 蜀の滅亡は、無用の流血を避け魏に降伏したからという見解もある。……あるいはひそかな名君であったのかもしれない。