退路を断ち関羽を捕らえた男。蛮勇・不法・強奪すら、帳消しにしてしまう軍才
潘璋 文珪  〜 はんしょう ぶんけい 〜
【 生没年 】

? 〜 234 年
分類 武将  統率 型
長所 文句がつけられない指揮能力
【 出身 】

州 東群
短所 贅沢が大好き・略奪も平気
備考 無銭飲食までやらかす
列伝
若い頃から気ままな性格で、酒を好み、いつもツケで酒を買っては「将来 金持ちになってから払う」と言い張り、取り立て人を煙に巻いていたという。

そんな潘璋を見所があるとした孫権は、彼に兵士を募集させ、百余人が集まると彼を部将とした。
やがて潘璋はめきめきと頭角を現す。市場の取締官となると担当地区から盗難事件はなくなり、建昌にて住民叛乱が起これば、一ヶ月の間に全てを平定。

さらに合肥の戦いでは、その指揮官としての能力を如何なく発揮。
張遼の急襲によって孫権の陣が大混乱に陥ったとき、後方から駆けつけて馬を横様に乗り入れ、逃走する兵士二人を切り捨てたという。これを見た兵士達は潘璋を恐れ、再び張遼に反撃を開始。戦後、その働きをとりわけ高く評価され、偏将軍に任じられた。

関羽との荊州争奪戦では、麦城から逃走する関羽の退路を遮断。固陵太守に任じられ、同時に振威将軍に昇進。

222年の夷陵の戦いでは、陸遜と協力し、蜀軍の多くの兵士を殺傷。劉備の部将 馮習を斬ったのは、潘璋の率いる兵士達であった。その功績により、平北将軍・襄陽太守となる。

 さらにこの年、魏の曹真 率いる軍勢を南群にて迎撃。苦戦する諸葛瑾の救援として上流から筏を使用した火計を立案。曹真はやがて潘璋の意図を悟り、退却した。


234年に病死するまで、敗北らしい敗北は喫していない。軍人としての潘璋は、極めて有能な男であったと言えよう。

しかし、人格的には大いに問題のある人物であった。

普段から贅沢を愛し、豪華な服を身につけることを好んでいたらしい。晩年にはその傾向がさらに募り、役人や兵士の中に豊かな者がいれば、殺害して財貨を没収した。
だが、潘璋の功績と才能を惜しむ孫権は、しばしば不法を犯す潘璋に対して、あえて罪を問うことはなかったという。