ただ一度の不覚で全てを失った、悲劇の剛将。 |
于禁 【 文則 】 〜 うきん 【 ぶんそく 】 〜 | |||||||
【 生没年 】 ? 〜 221 年 |
分類 | 武将 悲劇 型 | |||||
長所 | 剛毅 ・ 冷静 | ||||||
【 出身 】 兗州 泰山郡 |
短所 | 頑固者 | |||||
備考 | 晩年は、いじめられっ子 |
列伝 | ||||||||
済北の相、鮑信のもとで黄巾賊討伐に従ったが、 曹操の配下となって軍司馬に任じられる。 呂布・張繍・袁紹らとの戦いで功績をあげ、左将軍に昇進した。 しかし、関羽と戦ったとき、漢水の洪水にあって投降。 その後、孫権によって救出され、曹丕が魏の皇帝となると送還される。 曹丕は于禁を安遠将軍に任じ、曹操の墓を崇拝させたが、 そこには于禁の投降の絵が描かれており、屈辱で憤死した。 【 考察 】 武将としての于禁は極めて有能であり、そのことを示す逸話は少なくない。 特に、197年の張繍戦で曹操が敗北した際の 彼の活躍は高く評価されていい。 諸将が算を乱して敗走する中、于禁ひとり数百の兵を指揮して平然と退却し、 かつ途中 味方の兵に火事場泥棒を働いた青州兵を討伐して曹操に称賛されたことは 『冷静にして剛胆』な、彼の指揮官としての適性をよく示すものである。 官渡の戦いでも先陣を願い出て、延津の渡しを固め、 曹操が徐州で反乱を起こした劉備を討伐する間、 袁紹軍の猛攻を耐え抜くなど数々の功績を挙げている。 張遼・楽進・張郤・徐晃とともに、 曹操が献帝に功績を称えるよう上奏したエピソードからも知れるように、 十分な実績の持ち主であり、その力量にともなう評価を受けていた人物だった。 しかしながら。 「魏の五将軍」の一人として、誉れを受けたにもかかわらず、 関羽に降伏したことで、その後は不遇の道を歩むこととなった、悲劇の武将でもある。 |