泣く子も黙る合肥の武神。呉軍十万を震撼さす。
張遼 [ 文遠 ]  〜 ちょうりょう [ ぶんえん ] 〜
【 生没年 】
165年 〜 222 年
分類 武将  武力・統率 型
長所 文句なしの軍才
【 出身 】
幽州 広武
短所 問題だらけの性格
備考 魏の五将軍筆頭
列伝

 はじめに并州刺史の丁原に従ったが、董卓、ついで呂布の配下となった。
 呂布が曹操に敗れると、帰服して中部将に任じられる。

 袁譚、袁尚の討伐、華北の平定に大きな功績を挙げ、
 その後に合肥の戦いで小人数ながら孫権を追いつめ、征東将軍に昇進した。

 曹丕の代になると、軍の重鎮として前将軍となり、
 呉との前線に駐屯するが病にかかり、江都で孫権と対峙中に死去した。

 【 考察 】

 張遼は、豊富な陣容を誇る魏の中でも随一の軍才の持ち主と言える。
 それを示す最たる例が、合肥の戦いにおける華々しい活躍である。

 西暦215年における合肥の戦いは、
 籠城する魏軍七千に対し、侵攻する呉軍は十万という
 防衛側にとっては絶望的な戦力差で開始された。

 この時、圧倒的に不利な状況を打破すべく、
 張遼が取った手段は『緒戦を制する事』だった。

 呉軍十万が完全に合肥城を包囲する前に、
 決死隊八百を募り、孫権の本陣に突撃を敢行したのである。
 その勢いは、孫権になすすべもなく高台に逃げ登らせたほどであった。

 出鼻を挫かれた呉軍は、その後の攻城戦においてもなかなか成果が挙がらず、
 やむなく撤退を開始することとなる。
 その後、張遼は追撃作戦に移り、あわや孫権を討ち取る寸前まで追いつめた。

 この時の張遼の武勇は凄まじく、呉では幼児までが張遼の名を覚え、
 『遼来々』と言えば泣く子も黙ったという。


 しかしその武勇はともかく人格的には、やや問題のあった人物であったらしい。

 『演義』では、人品優れた忠義の名将として描かれているが、
 それを示すエピソードの殆どは創作。

 実際の張遼は他人との折り合いが悪かったらしく、
 同僚の胡質に戒められたりしている。

 有能で剛毅だが、同時に気難しく不遜な、典型的な武人だったと考えていいだろう。