若死にが惜しまれる、冷静沈着の戦術家。張遼を補佐し合肥を死守す。 |
李典 [ 曼成 ] 〜 りてん [ まんせい ] 〜 | |||||||
【 生没年 】 ? 〜 216年頃? |
分類 | 武将 補佐 型 | |||||
長所 | 戦術眼・学問好き・人格者 | ||||||
【 出身 】 兗州 山陽郡 |
短所 | 戦争上手のくせに、戦争嫌い | |||||
備考 | 実は大豪族の当主 |
列伝 | ||||||||
一族で曹操に従った李乾の甥。 若いころは軍事を好まず民政にあたっていたが、 官渡の戦いで一族を率いて補給に協力し、武将としての才覚を曹操によって見出された。 202年の袁尚追撃戦・203年の劉備迎撃戦・206年の袁氏残党討伐戦などで、 堅実に功績をあげ続け、捕虜将軍に昇進。 その後、一族郎党 一万三千人と共に曹操に帰属し、破慮将軍に任命された。 215年、合肥の戦いでは、張遼・楽進とともに呉軍を迎撃した。 しかし三人は平素 不仲であったため、戦いに先立って張遼は 李典達が自分に協力しないのではないかと懸念していた。しかし、李典は 「これは国家の大事。私の個人的な感情で、どうして公の道義を忘れられましょうか」 といい、張遼の提案した奇襲作戦を支持。 わずか八百の兵で十万の敵軍に奇襲をかけ、敵の士気を大いに挫くことに成功した。 冷静沈着に戦況を判断する智将であったが、惜しくも36歳の若さでこの世を去った。 謙虚な性格で、学問を好み、 諸将と功を競わなかったため、軍中では誰もが彼の長者ぶりを讃えていたという。 |