封印した十二の奇略。主君の覇業に大きく貢献するも、みずからの才を憂う。
荀攸 [ 公達 ]  〜 じゅんゆう [ こうたつ ] 〜
【 生没年 】
157年 〜 214年
分類 軍師  戦術 型
長所 戦場にて計略を連発する
【 出身 】
豫州   潁川郡
短所 策を出し惜しみする
備考 見た目はパッとしない
列伝

 荀ケよりも六歳 年上の甥。
 主君 曹操の評によると 『 一見 愚鈍そうであるが、
 孔子の弟子 顔回にもまさる人物 』であったという。

 早くから世に知られ、大将軍 何進が召し寄せた二十人の名士の中にも名を連ねており、
 何進の求めに応じて出仕し、黄門侍朗に任じられた。
 何進の死後は、暴虐をつくす董卓を憎み、暗殺を計画。
 計画が発覚して投獄されるが、死は免れた。

 曹操に仕えてからは、主に戦場に従軍して活躍する。

 呂布戦での水攻め。
 袁紹との戦いでは陽動作戦と奇襲作戦を並行し、白馬の戦いで顔良を撃破。
 文醜を葬った『撒き餌の計』。
 烏巣兵糧庫の焼き討ち。

 このように、彼の献策はことごとく的中した。

 荀ケの死後に魏が建国されると、尚書令の地位に就いた。曹操の下で常に計略を考え、
 秘密は誰にも漏らさなかったので、魏の陣営では重んじられている。
 214年、曹操が孫権征伐に出陣したときにも従軍したが、徐中の地にて発病して死去した。

 【 考察 】

 荀攸は生涯 多くの戦争に参加し、幕営にて無数の計略を張り巡らせたが、
 その全てを公表したわけではなかった。
 荀攸が死に際に、親友の鐘繇に託す形で、残した奇策は十二あったといわれているが、
 結局、鐘繇もそれらの計略を発表することはなかったため、
 三国志に注をつけた輩松之もこのことを残念がっている。

 しかし、荀攸が己の才能を完全に解放しなかったことは、致し方ないコトだったのかもしれない。
 荀攸の主君 曹操とは、才能ある者を求めると同時に、才気に走る者を忌み嫌うところがある。
 
 主君を、荀攸はよく理解していたのである。
 
 史実における荀攸は、演義の記述とは異なり、
 叔父の荀ケのように曹操から疎まれることなく天寿を全うしている。

 だが、最期まで自分の才能を律しなければならなかった荀攸の生き方には、
 どこか陰が付きまとっていたような印象を受けるのだ。