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《 曹操と左慈 



【 一 】



曹操は思わず身を乗り出した。
「その、『接して漏らさず』というのはいかなることなのか」
 左慈はにやりと笑った。
「文字の通りでございます。女人と臥所を共にし、接し、しかして漏らさぬのでございますよ」
「ううむ、しかし接すれば漏らさずにはおられまい。それはいささか難しくはなかろうか」
「難しいことをするからこそ、寿命が延びるのでございますよ」




 左慈、字は元放というが、彼は最近ちまたで評判の方士である。
 方士にはいろいろあって、たとえば未来を予知したり見えないものを言い当てたりする者、あるいは難病を癒す者、そして左慈のように不老長生の方法を説く者などさまざま居て、有力者は彼らを招いて講義を受けるのが流行であった。
 不老長生の方法にも、体操をしたり食養生をしたりする方法、あやしげな材料で調合した薬を服用する方法などさまざまなものが説かれているが、左慈が説く方法は、ずばり「性交で不老長寿」というものであり、最も人気が高いのは無理もなかった。宦官すら千金をはたいて左慈から講義を受けているのである――男性器を失っている宦官が、どうやって左慈の術を行うのかは不明であるが。
「すべて物事は陰陽でできております。人間もまた、父の陽と母の陰が合わさってできたもの。この二つのどちらを欠いても生じませぬ」
「ふむ、それは老子が言うことであるな」
「さようでございます。陰陽は善悪や良し悪しではございません、どちらも欠かすことのできない要素であり、この二つが均衡していると病や老いを生じませぬ。そして男は常に陽の気を持っており、女人と交わることで陰の気をもらい、女人はその反対でございます。すなわち男女の交合は人間の基本なのでございます」
「しかし、それならば常に女と交われば不老長生するということではないか」
「話はそこからでございますよ」
 左慈の弁はここからさらに熱を帯びた。
「見ていて不思議に思ったことはございませんか、女は虐げられているとか申しますが、長生きするのはたいてい女でございます」
 曹操は肯いた。
「つまり、女は男と交わったとき、蔵するだけで出すことはありません。男は、女と交われば陽の気を出さねばなりませぬ。つまり出さないように交われば、長生できるということなのです!」
「なるほど」
 曹操は左慈の言葉に目をひらかれる思いがした。確かに、女の中に漏した直後の疲労感というのはかなりのものであり、それが無ければ長生きできるのかもしれなかった。
 夏の桀王、殷の紂王、秦の始皇帝など美姫を侍らして滅びた古代の為政者は、精力を蕩尽して滅びたのかもしれぬ。左慈の言うように「接して漏らさ」ないようにすれば、美女を侍らしてなおかつ滅びることは無いかも知れぬ。
「一度、実践されてみてください。また次回、首尾をお聞きして、上手くゆかなければ指導いたしますので」左慈は曹操に言った。



【 二 】

 「あら、お体が悪いのです?」
 しとねから女が上体を起こす。窓の隙間から漏れる月光に、白い背中が光って見える。
 愛妾のひとりである。昨年、夫を疫病で亡くし困っていたのであったが、曹操は彼女が美人だと言う噂を聞いて召し出したのであった。
「いや」
 もちろん、左慈の「房中術」を実践して途中で止めたなどとは言えない。
「明日は、早くから孫権の使者を引見しなければならぬのでな」寝室の中でこんなことを言うなど我ながら無粋だ、と曹操は思った。
「いつもは、そんなことの前にはいっそう激しくなさってくださるのに」
 

 
 
 女の手が、あらぬところに伸びてくる。
「まだ元気じゃない」
「こら、やめろ」
「お年なのかと心配したわ」
「そんなことあるわけないだろう」
 女の愛撫に、思わず身をゆだねそうになる。
 もともと曹操は、床上手な女が好みであった。
 男の中には、他の男を知らない十四、五の生娘を自分の色に染め上げるのが好きな者もいるが、曹操は逆に、むしろある程度年齢がいって男を識っている女が好みであった。儒教の言う「二夫にまみえず」などというのは、大変もったいないことであると曹操は常日頃思っていた。
 夫を持ち、男を識って、夜の事が分かってきた女がよい。美人であれば、一人や二人子供を産んでいてもよい。胸や腰まわりの肉づきが豊かで、悋気病みではない女がよい。
 女の愛撫はさらに執拗になった。曹操の足元に座ると豊かな胸で曹操自身を挟んだ。曹操は覚えずうめき声をあげた。
 今の、実質上の正妻は卞氏であった。卞氏はもともと芸子で、自分の知らない前はきっと体を売ったこともあるに違いない。しかし彼女は玄人女のように思われたくないためなのであろう、あまりそういう技を使ってはこなかった。むしろ曹操が教えたことを従順に受け入れる女であった。そんな卞氏を曹操は可愛く思いまた最も大切にしていたが、反面、こういう積極的で淫乱な女も好かった。
 女は十四のときに嫁して、曹操に出会うまで夫以外の男を識らなかったと言っているが、嘘か本当かはわからない。本当ならばもともとそういう素質があるのか、それとも前夫がいろいろ教えたのか。
 以前に夫を持っていた女を得るというのは、以前に他の主に仕えていた将を用いるというのに似ていた。つまり、最初から自分だけに仕えてきた者とは違うやり方を知っている、ということである。
 挙兵したときから付き従ってきた、たとえば夏侯惇や夏侯淵、楽進や李典といった将たちも大切な将であるが、以前に別の主を持っていた将を、曹操はとても大事にしていた。
 たとえば、鮑信に仕えていた于禁は、とても謹厳な男であった。呂布に仕えていた張遼の、その類まれなる武勇は誰も真似することはできない。最近、袁紹を破った際に降りてきた張儁艾は、さすがに教養豊かである。みな、元の主に似た面を持っていた。
 曹操は、自分が完璧な人間であるなどと自惚れては居なかった。
 自分の子飼いの将だけであれば、自分はこれほど大きくなることはできなかった、と曹操は思っていた。ひとつのやり方ではいつか行き詰ることがある。自分と違うやり方を知っている人間を受け入れ、その人間から教わることでさらに伸びていけたと思っていた。
 女の、乱れた髪が下腹をくすぐる。
 この女がするやり方を、卞氏に教えてやらせてみようか、と曹操は思った。そう思うと勃然と力がみなぎってきた。
 いかん。
 房中術を実行しているのであった。ここで身をゆだねてしまっては修行にならぬ。
 女を、突き飛ばすように引き離した。
「どうなさったの? わたくしのことがお嫌いになったの?」
 女の声音には、自尊心を傷つけられた怒りがあった。
「あ、いや、違うんだ……その」
 自分と、女の間に、張り詰めた嫌な雰囲気が流れた。
 普段であれば女の機嫌など構うことはない。しかし、今回は曹操にうしろめたい思いがあった。
「すまん、これは……おまえが嫌いになったのではない、修行なのだ、長生きのための」
 突然、女がぷっと吹き出した。
「まさか、最近はやりの、房中術?」
「ち、ちがうぞ」
 房中術などという男しか興味を抱かないであろうものを、女が知っていて、曹操は慌てた。
「姉や妹、女友達がこぞって、最近夫がこんなものに凝りだして困っていると話すのです、わたくしだけは、殿が賢い方で良かったと安心しておりましたのに」
「いや、だから、そうではなくて……」
 女は曹操の言うことにはまるで構わず、まだくすくす笑いながら言った。
「そんな、自然に反する無理をなさって、長生きできるわけがありませんでしょう? ほら、ここ、こんなに我慢してかわいそうね」
 暗闇の中、曹操は女が舌なめずりをしたのがわかった。次の瞬間、女が曹操自身を口に含んできた。
 今まで堪えてきた曹操は、女の前に敗北した。

 むう、左慈にはどう言おうか。
 ほとぼりが冷めて、曹操は悩んだ。



【 三 】

 翌日、曹操は、孫権からの朝貢の使者を迎え入れた。
 孫権に対し、かねてから息子の孫登を人質によこすよう要求していたが、孫権はそれを拒絶し、代わりに数々の珍宝を贈ってきたのであった。
 昨年、官渡で袁紹を破り、天下の趨勢はぐんと曹操に傾いていた。
 しかしまだ、袁紹との戦いが続いているので、約束不履行の孫権を討伐することはできなかった。
 どれ、今はまずこの貢物を受け入れておこうか。
 曹操は座から立ち上がった。
 一分の隙もなく正装した彼は、他を圧する存在感を放っていた。昨夜のふやけた姿はみじんもなかった。人々が、乱世を統一するのはこの男だと目する、天才的な将軍がそのものであった。
 曹操はゆったりと力強く歩み、貢物を納めた部屋を見回った。
 孫権からの贈り物は、南海の真珠、七色の羽毛を持つ鸚鵡のつがい、南蛮の奴隷など、北国では見られない珍しいものばかりであった。
 しかしもっと驚くべき贈り物が、宮殿の外の広場にあった。
 それは、一頭の象であった。
「これは、大きいな」
 曹操すら、今まで実物を見たことはなかった。
 高さは人の背丈の倍ほどもあり、人がその背中に数人も載れそうなほど大きい。
 贈答品の目録には、この象の重さが明記されていた。曹操は、ひとつ良いことを思いついた。
 臨席していた息子たちを呼び、自分の前に並ばせ、問うた。
「目録には、象の重さが書いている。どのようにして計ったか判るか。判るものは答えてみよ」
 卞夫人の生んだ、丕、彰、植、熊の四人の息子たちにまず顔を向けた。
 もっとも年長で十五歳の丕は、確かに文武に秀で実務的な才能もある息子であったが、こういう質問は苦手らしい、答えはやってこなかった。
 その下の息子彰は、武芸に秀でていたが、頭をつかうことはからきしだめで、もちろん答えることなどできない。
 彰の弟の植は、まだ十歳ながら天才的な文才を見せていたが、こういう科学的なものは苦手である。植は、頼りなさげに後ろをちらりと振りかえり、友人であり知恵袋である楊修のほうを見た。助け舟が欲しいらしい。
 曹操はにやりとした。息子たち自身の知恵を測るために、誰か側近が知恵をつけないように前に引き出したのだ。まあもっとも植と同様の文人である楊修では答えはわかるまいが。
 末子の熊は、病弱なおどおどした子供で、これも答えは返ってこなかった。
 そのほかの息子たちも、同様に首をひねっているところに、甲高い声が父を呼んだ。
「父上、沖が答えてよろしいでしょうか」
 進み出たのは、今年六歳になる曹沖、字は倉舒である。丕や彰や植とは母親が違う。
 愛らしい容姿に優しい心根を持った子供で、曹操が最も気にいっている息子であった。
「倉舒、おまえは分かるというのか」
「はい」曹沖はきらきらした目を父親に向け、言った。
「この象を載せられる船を造ります。そして水に浮かべて象を載せます。そうすると船が沈むので、沈んだところまで、船腹に印をつけます。次に、象を降ろし、今度は、印のところまで沈むまで石を積みます。最後にその石をひとつずつ計って合計すれば、それが象の重さと同じになります」
 そのとき曹操は悟った。
 左慈の房中術を行えば、確かに長生するかもしれない。
 しかし、倉舒のようなすぐれた子供を得ることもまたできないのである。
「父上?」
 いきなり黙ってしまった父親に、曹沖はけげんな声でたずねた。
「答えは間違っておりましたでしょうか」
「いや倉舒、おまえが正解だ」
 そう、倉舒こそ正しい答えなのだ。それが、左慈に対する答えだ。



【 四 】

 数日後、左慈がまた曹操の元へやってきた。
「首尾はいかがでしたか」
「元放、私はもう房中術はやらぬ」
「私の言うことが嘘だとお思いなのですか」左慈は意外そうに問うた。
「いや」
 曹操は首を振った。
「おまえの言うことは本当だと解った。房中術を行えば、確実に長生できよう。不死になるやもしれぬ」
「ならば、なぜ行わないのです」
 曹操は、数日前の出来事を左慈に語った。
「倉舒のような優れた者を創ることができる力、それを体に留めておけば、確かに長生きできるであろう。ただ、それで長生きしてどうなるというのだ? 私とて完璧ではない。時代や状況が変われば、またそれに合わせて処していく人間が必要となる。私だけが生き続けてどうなるというのだ? 始皇帝は不老不死を求め、かえって自らの命と国の命を縮めた。私はその轍は踏まぬ」
 左慈は曹操を見つめ、言った。
「悟り、でございますな。すばらしい悟りでございます」
「いや、悟りなどとそんなすごいものではない」曹操は笑って続けた。
「女と寝て最後までやらぬのがつまらないので、理屈を見つけただけだ。私はそんな、普通の男にすぎぬ」
 それ以来、曹操は左慈を敬って大切に扱ったが、二度と房中術を学ぼうとはしなかった。



―了―