《 司馬懿伝 〜 策謀と礼の狭間にて幕下に降る 〜 




私は密かに“三顧の礼”に憧れていた。
そう、あの蜀の劉備が諸葛亮を幕下に入れるのに三度も足労したというあれだ。
別に劉備がどうのというわけではない。
君主がわざわざ出向くというところに、趣があるのだ。


昼下がりの陽光の中。
私は自室で香り高い宝麗茶をすすりながら読書するのが日課であり至福であった。
だが、少し前からそれを邪魔する輩が現れたのである。


「司馬懿様、本日もおみえになりましたが……」

家人が遠慮がちに伝えてきた。

私はため息をつかざるを得ない。

「いつものように、適当にあしらえ。私は病気で床に伏せているとな。
 今日は熱が40℃もあるから面会謝絶だとでも言っておけ」

片手で、小虫でも払うような仕草をして、私は書物を読みつづけた。
いちいち構ってられるか。

「それがその……。今日はいつもと様子が違うようで……」

家人は困った様子で続ける。

「何が違うというのだ?」

「使者が言うには、司馬懿様にお目通りかなわねば、
 自分の命が危ないのだと、門前で泣き崩れまして……」

「はぁ?」

そこまで聞いて、やっと私は家人の方を見た。
奴も困り果てた面持ちである。
もはや自分の力量では手のつけようがありません、と言わんばかりの表情だ。
やれやれ。敵はついに強行手段か?

「わかった。人の家の前で泣きわめかれては、体裁が悪い。中へ入れろ」

渋々承諾した。再びため息が出る。


「お目通し、ありがとうございます!!」

使者はしきりに礼を言ってきた。魏軍の甲冑をまとった中肉中背の中年男だ。

これがまだうら若き乙女くらいなら、私の心情もまた違ったのにな、
と気分が全て灰色に曇った。

「用件だけは聞いておく。話せ」

「はい!我が殿、曹操様は今も司馬懿様を切望しておられます!
 一刻も早く出仕なさり、魏国のためにその才をお遣いくださいますように、と。
 曹操様より書簡を預かってまいりました。どうぞご査収下さい」

使者から書簡を受け取り、無造作に開き見た。
それは魏王曹操の自筆と思われるもので達筆であった。

数ヶ月前より曹操は私を幕下に加えんと度々使者を送ってよこしていた。
曹操の人柄は嫌でも風の噂に乗って聞こえてくる。

全土から有能な士を集めては幕下へ加え、
天下獲りの礎(いしずえ)を築かんと必死だそうじゃないか。

確かに様々な能力、学派、自説を持つ諸侯と討論をするのは興味深いことだが、
所詮は曹操の野望の駒にされているだけのこと。
討論をするのにわざわざ命を賭けることはない。
まして私には、曹操という男に義理もなければ会ったことすらないのだからな。
そんな奴のために、青筋立てて策を練る必要性などどこにもない。

どこぞの君主を見習うが良かろう。
本来、人に頼む時は自ら頭を下げるべきであろう?
まったく礼儀を知らんな! 曹操という奴は。

不本意にも白羽の矢が立ってしまい、こちらは迷惑を被っているのだ。
再三にわたる出仕の要請も、体調不良を理由に断り続けてきたのである。

案の定、使者が持ってきた書簡には出仕要請が書かれていた。
私は静かに書かれた字を目で追った。


    度重なる要請に応じない貴公の態度に、もう痺れ(しびれ)が切れてしまった”

ふん。恋文でもあるまいし、勝手に痺れを切らしておるがいい。


“今日こそは貴公より良い返事を聞きたい”

だから断っているのがわからんのか、しつこい男だな!


“今日つかわせた使者の家族、親族郎党を捕らえた”

ん? そいつのことか?


“貴公が頑なに要請に応じないのは、
 使いの者の態度が気に入らぬからだとやっと気づいたのだ。
 もし、貴公が此度も出仕を断るのなら、その者を含め親族諸共処断するので、
 どうか無礼を許してやってほしい。”

……なっ!?

私は思わず、使者を見やった。

「いかがなさいましたか?」
使者は深刻な表情で不安げに私を仰ぎ見た。

「貴様、私に目通りかなわなければ命が危ういと言ったそうだな?」

「はい。貴方様をお連れしなければ、
 一族郎党皆殺しにされるのでございます!ですから何卒…!」

使者はうつむいて、肩を震わせ哀願した。


どうだろう!
この曹操という男の狡猾な手段のほどときたら!
欲しいものを手に入れるためならば、手段を選ばぬと言ったところか。
使者も自分の命が懸かるとなれば必死に説得にもあたろう。
そして、私がこの使者の身の振りを哀れんで、承諾を免れないと読んでの策略なのだ。
なんて卑劣な!!

「どうか……この身を少しでも哀れんでくださるのなら、
 お受けくださいませ!何卒!何卒〜」

私は泣きながらしきりに頭を下げる使者の様子を静かに傍観した。


    そんな時。

心の奥底に熱い何かが込み上げて来る思いがした。
思わず口の端が上に動く。この感じは決して嫌いな感覚ではなかった。
その「何か」を色でいうならば…… “黒”である。




「ふふふ。曹操は司馬懿という男を調べ上げておきながら何も理解しておらぬ様だな。
 貴様のことなど知らぬわ!! 殺されたところで私には何の影響もない!」

使者はとっさに顔を上げ、引きつった表情で私を見上げた。

「何度でも新しい使者を送ってよこすが良かろう!
 その度に本当に殺すのか、見届けてやるのも面白い!
 それが、お前達が使える王の姿、
 卑劣で残虐な“乱世の「姦」雄”だと世間は言うのだろう? はははは!」

曹操のそれは人一人のために万人を殺すと言っているのに等しいのだ。
そのような者に仕え、しかも駒のように働かされると思うと悪寒を覚える。

しかし、だ。

私は曹操という男と違った意味で、
我が道を貫くためには残虐に冷徹に“黒”くなれる人間なのだ。
それはさすがの曹操も知り得まい。

“そんな奴に仕えるくらいなら、万人が死んでも一向にかまわない” とな。
なにせ自分の身が一番かわいい。

使者は泣き崩れた。

続けて自分の身の上を語り出し、
田舎には寝たきりの母がいるとか、
生まれて間もない子供がいるとか
同情をさそわんと必死である。

案ずるな。
曹操ほどの者は寝たきりの母も生まれたての赤ん坊も皆殺しにする。
ゆえに路頭に迷う者は一族からは誰も出ない。そろってあの世行きだからな。

「どうかお考え直しを!何か手立てはありませぬか!?」

私は使者に背を向け、窓を見やり、
事を知ってか知らずかのん気に晴れ渡る空に
目を移しながらこう答えた。

「 ……三顧の礼 」

「え?」


自分でも深く考えて言った覚えはない。

「曹操殿もお忙しいだろうから、この際、三顧とは言わぬ。
 一度でも自ら私の元を訪ね、その頭を下げたなら
 言う事をきいてやってもいいだろう」


「………………」

使者は絶句した。そのような無礼極まりないことを殿にお伝えできるはずもない。
それは「無理な話」なのである。

私とて、もしこの使者が命惜しさに、
はかり間違ってそのような事を率直に曹操に伝えようものなら、まず命はない。
よって、この使者は家臣に抹殺させ、口を封じる必要がありそうだ。
なに、盗賊にでもやられたとみせかけておけ。ここは私の智謀の見せ所だな。
私は軽い推理小説でも考えるかのように一人微笑していた。

そんな時だった。

「今の言葉は本当だな?」

ハッキリした口調のよく通る成人男子の声が響いた!
聞いたこともないその声に私は驚いて振り返る。


「……!? っだ、」

「ワシの名は曹操! 字は孟徳だ!! お前が司馬懿だな!?」

誰と問う前に、いやそれを制すようにその男は自ら名乗る。

まさか!耳を疑う。なぜ曹操がここに!?
冗談だろ、と一瞬思ったが、その男の姿を見てその思いすら一瞬でかき消された。




上等な服と冠で身なりを整え、笑みを浮かべているのか端正な口ひげが動いたが、
鋭い眼光をこちらに向けている。

背はさほど大きくもないのに、
内面からかもし出す威厳が彼を大きく威圧的に見せているのだ。

部屋の空気が変わったのに気付く。まるで自分の家ではないような錯覚に陥る。
とっさに息を飲んで吐くのを忘れた自分がいる。体が次の動作を思い出せず動かない。
背筋が凍るとはこのことか?

人を見てこんな感覚に陥ったのは生まれて初めてだった。
…………これが、曹操!?


「部屋の外で一部始終を聞いておったぞ。お前と言う奴は……」

殺される!
この男が世間で言われるあの曹操その人ならば、
先ほどの暴言を無礼として私を処断するに違いない。


「…まったく期待通りであった!」

何!?

「ワシが求めていたのは、冷徹な策にもはまらぬ強靭な意志の持ち主、
 そして自らも冷徹になれる策師。お前はそれに適っておる!」

一体何を言っているのかわからなかった。 


「先ほどの言葉は本当だな?司馬懿よ」

私は微動だにできず、半開きにした口もそのままに、
曹操から目をそむけることすらかなわない。

「なんだ、そんなことで意地を張っておったのか? 
 案外子供のような奴だな。はっはっは」

曹操という男は、いきなり笑い出した。

そして……。

「では司馬懿よ! この曹操、直々に頼む。我が元へ来てくれぬか!」

大きな声、怒鳴り声ともとれそうな声でそう言うと、私に向かって頭を下げた。

「これで良いな?」

そして何事もなかったかのように顔をあげる。

「……ッ、なっ……!?」

曹操の思いもよらぬ行動に私は後ろに仰け反り返りそうになる。
そこで後ろから誰かに支えられたのだ。

「良かったなぁ〜。そーそーサマぁ〜〜♪」

曹操とは打って変わって間の抜けた声。
今度は誰かと顔を見やると、私の3倍はあろう
とにかくやたらとデカイ男が私の両肩を持って支えていた。

「よし!では引き上げるとするか! 許楮よ、司馬懿を頼むぞ!」

「お〜う♪」

許楮と呼ばれた巨漢は私を軽々と持ち上げ左肩に担いだ!

「な、なな何をする!!はなせ!!」
とっさの出来事に状況を把握しきれていなかった思考回路が、
我に返りはじめてやっと体を抵抗させた。

だが、大男は蹴ろうが殴ろうが、ニヤニヤ笑っているだけで全く効いてないし、聞いてない。
そのまま曹操の後に続いて我が家から出ようとする。

「司馬懿よ、約束ではないか。
 ワシが目の前で頭を下げたら良いとお前は言っただろう?」

「…………!?」

我が家の回廊には曹操兵が至る所に並列していた。
あまりの威圧ぶりに家人も誰一人抵抗する者はいない。

主人を助ける気もないのか、この恩知らずどもめ!
と罵ったところで、彼らの中に曹操の恐怖に打ち勝つ者などいるはずもないと悟った。
我が家はいつの間にか曹軍に完全包囲されていたのである。

門前には曹操の親衛隊と立派な馬車が用意されており、
待ってましたとばかり馬車の扉は開かれる。


これでは、まるで拉致ではないかーーー!!


「書簡を読んだであろう? ワシは痺れを切らしたのだ」

謀ったな! 曹操!!
もとより、これが最後の猶予と見込んで曹操自身がここに来ていたのだ。
はじめから私を連れて行くつもりで。

そして先に悟られて身を隠されぬようにと、普段と変わらぬ様子で使者を先に送る。
私が使者と悶着している間に家を包囲し、曹操自身も家人を脅して侵入していたのだ。
多分、あの使者は利用されただけで、何も知らなかったのだろう。
奴も策に乗じていたとなれば、あの迫真の名演技ぶりを賞賛してくれるわ!

しかし、曹操という男…… 一体何を考えているのか?
覇者として乱世に君臨する立場にありながら、いとも簡単に頭を下げやがるとは。
意外であった。まったくの私の誤算。
曹操という男…… 目的のためには手段を選ばぬ、恐ろしい男。
わかってはいたが、こんなかたちで身をもって知るはめになろうとは……。


「うわーーー! やめろーーー……」

私は無理矢理、馬車に押し込められ、我が家を後にした。



以来、あの家には戻っていない……。


=終=