《 六百六十六 




司馬懿はゆるりと息を吐いた。

冷たい初秋の空に、丸みを帯びた月がぽつり、と独り浮かんでいる。

(まもなく望月か)

そんなことを考える。老人のしみを思わせる月の模様を見つめているうちに、
色の薄い唇から詩が洩れた。

「秋風蕭瑟(しゅうふうしょうひつ)として天気涼しく…か」

己の作ではない。
士大夫(したいふ)としての嗜みである詩作や楽に、
哀しいかな、司馬懿はまったくといっていいほど才能はなかった。
凡庸な詩しか吟じることができず、凡庸な楽しか奏でることができない。
しかしそれも、三国鼎立の乱世においてはどうでもいいことである。そう、割り切っていた。

しかしこんな寂しい夕刻は、どうしてもあの男を偲び、詩を吟じたくなる。
誰からも愛されながら、誰からも愛されなかった独りの男。
自ら孤独を選び……それでも愛されることを望んだ哀れな男。

「存命ならば、四十二か」

今宵で、彼が熱病で亡くなり六百と六十と六日になる。
漢詩を吟じた男を、司馬懿は偲んだ。

司馬懿が吟じたのは、「燕歌行(えんかこう)」の一節。
魏国文帝、曹丕(そうひ)が遺したものである。
冷酷とも怜悧とも冷徹ともいえる男で、辣腕の為政者であったが、文学者としての一面も持っていた。
彼の詠む詩は繊細にして技巧豊か。緻密にして哀愁漂う。胸の震えるような詩を多く遺した。

     俺の才など、子建(しけん)の才の足元にも及ばん。

澄んだ声を思い出す。
まだ若い頃。曹丕が二十三、己が三十二の頃であった。
若い頃の曹丕といえば、美貌で知られた母譲りの容貌を以て侍女や士大夫の娘たちを騒がせ、
「水月公(すいげつこう)」と誉めそやされていた。

 


水月公    
水に映る月の如く、その繊細なる美貌はけして触れることは叶わない。

美しく儚げな異名を、曹丕は知っていたのだろうか。
すっきりと通った一重の、切れ長の秀麗な目許。白くきめ細やかな肌。繊細な色に染まった唇。
しかめ面かふて腐れた表情ばかり思い出す。
晴れ晴れとした笑顔とは無縁であったが、
それがいいのだと侍女たちが浮かれていたのを、どう思っていいのか分からなかった。

司馬懿の前での曹丕は、乱暴で横暴で傍若無人で、陰湿な嫌がらせばかりしていた。
何度本気で怒ってもどこ吹く風。爽やかさとは無縁の笑みを口の端に浮かべていた。
(あれで女であれば)
今でも時折思う。初めて見たときは、てっきり男装の麗人かと思った。
しかしその手は剣の扱いに慣れており、馬を操れば風のようだった。
繊細で儚げな容貌はいつの頃からか逞しい武人へと変わり、驚きを覚えたものである。


     仲達(ちゅうたつ)、相変わらず詩は下手だな。

澄んだ声で司馬懿の字を呼ぶ。酒に……酔っていた。望月の頃だった。
暦は秋。稲を刈り終えた季節であった。

     俺の才など、子建の才の足元にも及ばん。

はき捨てるように。搾り出すように。血を吐くように。むせび哭(な)くように。

     俺に、子建の才があれば…

何度も繰り返された言葉。
憎みあっていた兄弟、曹植(そうしょく)の字(あざな)を呪うように何度も呟いていた。


今でも覚えている。
夕刻から曹丕が酒を舐めるように呑んでいた。
司馬懿は強引に付きあわされ、ほとほと呆れたものだった。

     子桓(しかん)様、また詩を吟じられたのですか?

司馬懿は曹丕の字を呼び、詩を記した木の札(さつ)をいくつか手に取った。
司馬懿が呼ばれる前に吟じたものだった。

   東河濟越水  東して河済の水を越ゆるとき
   遥望大海涯  遥かに望む大海の涯(ほとり)
   釣竿何珊珊  釣竿(ちょうかん)何ぞ珊珊
   魚尾何從從  魚尾何ぞ従従たる
   行路之好者  行路の好者
   芳餌欲何爲  芳餌何か為さんと欲する

一番上の木片には、無造作に「釣竿(ちょうかん)」と繊細な字体で記されていた。
かなり簡単に訳すと、

「東に行けば黄河や済水(わいすい)を越えて海をのぞむ。
そんな場所で釣り人は腰にいい音のする玉をつけ、魚の尾が美しい。
ちょいとそこゆくお嬢さん、貴女を得るには何をあげればいいのかな?」

となる。

ようするにナンパの詩である。
一読しただけでは戯れに書かれた奔放な詩にしか思えないが、しかしその本質は緻密で繊細。
曹丕は時折そういった詩を吟じた。

     これは…また、見事な詩ですね。

そうとしかいえなかった。詩の造詣に深くない司馬懿には、それだけしか言えなかった。

 ──お前に褒められても嬉しくない。

澄んだ声が潤んでいる。酔っていることはすぐに分かった。

切れ長の眼は据わっていて、白い頬が紅く色づいている。
頭はふらふらと揺れ、足はだらしなく投げ出されていた。
曹丕は酒を呑んでもけして酔う程呑むような男ではなかった。
着衣どころか髷(まげ)すら乱れない。
夏の暑い盛りに頭から水を被っても、その涼しげな立ち姿が乱れることはなかった。
それほどの男が、泥酔していた。

……曹丕の同腹の弟、曹植が甄(しん)夫人に恋慕していると噂が立った頃だった。
荒れていたのだろう。

     では、甄夫人に褒めていただきましょうか。

甄夫人とは、曹丕の正妻である。
没落した河北一の家の娘で、かつては名門、袁(えん)家に嫁いでいた。



曹丕の初陣で、略奪するように娶った夫人である。
一度他人が手垢をつけたものに食指を伸ばす辺り、彼の父、曹操とよく似ていた。

     佳(か)に褒められても、イヤになるだけだ。

甄夫人の名を吐き捨て、杯の酒を呷る。白い喉に一筋、酒が流れた。
酒に濡れた息を吐けば、花街一の歌妓(かぎ)より艶かしい。
かつてはそう謳われたが、流石に二十を過ぎた男にそんな言葉はもう似合わない。

     では、誰に褒められたいのですか?

答えは知っていた。けれども問わずにはいられなかった。

彼がその賛辞を欲してやまない……愛してやまない……

     お前には関係ない。

澄んだ声は答えを拒む。答えを聞く事は一度もなかった。

ふら、と曹丕は危うい所作で立ち上がり、すいと手が伸ばした。
酔った末の戯れに過ぎないのだろうか。
それでも鍛錬を極めたしなやかな腕や脚が夏の宵に移ろう蛍を思わせる儚げな動きに、
司馬懿は思わずため息をついた。

曹丕はただただゆるり、ゆるりと腕が動かし、首を傾げ、視線を移す。
舞というものは、躍動するような速いものよりゆったりとした舞の方が難しい。
腕を動かすだけで哀愁を語らねばならない。
視線を流すだけで胸中を見せねばならない。
衣擦れの音に息吹を感じさせねばならない。
曹丕はただ無言で、優雅に首を動かし、撫ぜるように腕を滑らせ、ふわりと音もなく袖を翻した。
音曲のない、静かな舞。

実母から教わったのだろうか。酒場の女が舞うような踊りであった。
けして、士大夫が嗜みとして舞うようなものではない。
男が女の舞を舞うというのは、普通ならば滑稽でしかない。

だがその時の曹丕は、男でも女でも、精霊でも幽鬼でもない、
またそのすべてに当てはまるような不思議な存在に思えてならなかった。
何を思い、何を憂い、何を慕っているのか。
司馬懿はその腕の動き一つ、衣の翻り一つ、瞼の動き一つにすべてを見た。


かつて、若い宦官の孫の前で美しい妓女が舞ったのであろうその舞を、
司馬懿はただ無言で見つめた。



     子桓様。そろそろ冷えます。お戻りを……

酒に濡れた目が、悪戯っぽく光ったのを覚えている。
剣や弓矢を扱う無骨な手が、するりと首に絡んできた。

     子桓様、甘える相手が違いますぞ。

ぷんと酒の匂いが強く香った。

     仲達。お前は、俺を裏切るか?

唐突な詰問。逃げることを許さない強い響き。

     何を仰いますか。私は貴方に仕える身。他に行くあてなどございませぬ。

真実を口にしたまで。

曹操に半ば拉致に近い形で仕えさせられ、そのくせ疎まれた。
厄介払いに近い形で曹丕の学友となり、曹丕と出会った。
夏の、セミのうるさい季節だった。


     子桓様。

聞いていた字を読んだ。呼ぶなり木の上から無造作に飛び降りてきた、秀麗な美貌の少年。
美しい顔を見たとき、やんちゃな令嬢なのかと思った。

だが、彼が持っていたのは『論語』で、
その手は爪こそ桜色ではあるが節々は張り、予想外に大きな手をしていた。
涼しげな眼でまず顔を見つめ、体を見つめ、手を見てからふん、と舐めるような顔になったのを、
今でも鮮明に覚えている。
最初の美しい少年という印象は吹き飛び、生意気そうな小僧というものに変換された。

     お前が司馬家の次男坊か。噂に聞くとおり、抜け目なさそうなヤツだな。

そして変声期を終えたばかりの、まだ甘さを残す声で彼はきっぱりと言った。
そして『論語』の束をつきつけ、お前の解釈を聞かせろと命令に慣れた口ぶりで言った。
もし希代の姦雄、曹操の嫡子でなければぶん殴っていたことだろう。
あれから何年の付き合いになるのか、考えたこともない。
年齢を重ね、主従の関係となり、お互いそれを受け入れた。
司馬懿は、曹丕以外の主君など考えたこともない。
己が主君にのし上がることも考えたことはない。


左の首筋に、刺すような痛みを覚えた。
曹丕が噛んだのだと理解したとき、曹丕は暗い目でじっと司馬懿を見つめていた。
切れ長の秀麗な目許。初めて会った頃から、変わっていない。
繊細で……清らかな眼差し。一体いつから、暗く閉じこもったものになったのか。




     お前は、俺を裏切るな。もし裏切れば…

今度は喉元。酔いからの悪戯にしては、酷い痛みを覚えた。
歯を食いしばり、拳を握って耐えた。それほどの痛みだった。
それが曹丕の心の痛みかと思えば、甘んじて受けるしかなかった。

     喉笛を噛み裂く。

冷たい声。
思えばあの頃から冷徹な一面と孤独な帝王の影があった。

     御心のままに。

二筋の血を流しながら、そう答えることしかできなかった。

喉の傷に指を添えた。
曹丕が噛んだ跡は、今も消えない。一体どれほど強く噛まれたのか、想像するだに恐ろしい。

     お前は俺を裏切るな。

血を吐くような氷の命。永遠に守るしかない呪い。愛らしい願い。
今もこうして守っている。なのに命じた主はもういない。それでも愚直に守り続けている。
理由などとうに失われた。それでも守っている。


暗くなった庭園を静かに歩く。
知り抜いた庭園だが、冷たい風が庭を渡ると
まるで知らない場所に抜けてしまったような錯覚に落ちた。
どこかで蟋蟀(こおろぎ)が鳴いている。

月は初めに見た場所より天頂に向かって動き、
そっと添えられた星が月に遠慮するように、控えめに瞬いていた。
ざわざわと茂みが風に鳴る。

曹丕なら、この物憂げで優しい季節をどう詩にするだろう。
曹操の詩が一代の英傑らしい豪壮なものなら、曹丕の詩は繊細で情緒豊かであった。
すっかり落ちぶれている曹植の筆にかかれば、おそらく千年の後も残るような詩を詠むだろう。
詩に疎くても、それくらいなら理解できる。
あの二人が存命していれば、この情景をどう吟じるだろう。
三人に詩を吟じさせ比べてみるのも、おもしろいかもしれない。
もっとも、詩に疎い司馬懿が比べようとすれば、三人から反対されるに決まっているが。


「秋になりますぞ、子桓様」

呼んだところで、答えはない。

「詩を、ご教授くださいませ。
 この情景を詩に託そうにも、仲達はいまだ上達いたしませぬ」



     いい加減、士大夫として満足のいく詩を詠め。俺が教えてやるから。

揶揄(やゆ)するような声。
あの後、司馬懿の詠んだ詩を見ての一言だった。

     貴方ほどのお方にご教授願えるとは、恐れ多い…

褒め言葉のつもりだった。

しかし曹丕は陰湿な笑みを浮かべ、べろりと自分がつけた噛み傷を舐めた。
さすがの司馬懿も、動揺を隠せなかった。


 
 
     そのくらいの傷なら舐めれば治るであろう? 
     この子桓様直々に舐めてやったのだからたちまちのうちに治るぞ。

     この傷、妻にどう説明すればよいのやら……

     町で囲った女につけられたとでも言えばいい。
     そうだ、お前の妻に書を贈ろう。
     お前が女を囲っていると思わせるような詩でも贈れば面白いであろうな。

くつくつと咽喉の奥で笑った。あれは本気だった。
悋気(りんき)の強い司馬懿の妻がそんな思わせぶりな詩を見ればどうなるのか……。
司馬懿はぶるぶると首を振った。もう彼はいないのだ。

目敏く見つけた妻にしらを切りとおしたこの傷が
誰に、何故ついたのか、知るのは司馬懿ただ一人。

     では、この傷を妻に謝るような詩を書きとうございます。
     子桓様の才を、司馬懿にも分けてくださりませ。

ふん、と曹丕は面白くなさそうに鼻を鳴らした。

     俺の才など、子建の才の足元にも及ばぬ。

何度も吐き捨てられた、言葉。



(もう……呪詛すら吐かれぬのか)

歌うように詩を詠み、朗々と詩を吟じ、
己を揶揄し、父を敬愛し、妻を疎んじ、呪うように弟を呼んだ声。
司馬懿はあの声が好きだった。清流のごとく透き通り、清らかでお美しい。
本人に言えば、まっかになって何倍もの嫌味を返しただろう。
それとも、度の過ぎる嫌がらせを受けるか。
想像してしまい、司馬懿は苦笑する。

「仁者寿なりと曰うも、なんぞ是れ保せさる……」


「『仁者は長く生きる』と『論語』ではいうが、
 どうして貴方はこのとおりにならなかったのだろうか」
曹丕の詠んだ「短歌行(たんかこう)」の最後の句である。父、曹操を偲ぶ詩だった。
何故……これを詠んだ貴方がすぐに逝かねばならなかったのか。
天に問うても、答えなど与えられぬのだが。それでも問わずにいられない。

「天に彼の君の魂を問う……おもしろくないな」

少し、詩を吟じる。凡庸だ。やはり曹丕には遥か及ばない。

一筋の川に月が移っている。すくっても手に入れることの出来ぬ、清らかで繊細な月。
漆黒の闇にあっても、その清さは失われない。

(水月より、むしろ……)

闇に流れる清流のようなお人であった。
眼差しは暗く冷たいものであったが、けして淀んだものではなかった。
澄み渡り、清らかで…だからこそ儚げな眼差しであった。
眼裏(まなうら)に曹丕の瞳を思い起こす。切れ長の秀麗な瞳。黒い眼。長い睫。
いつからか玉の輝きは失せ、暗い光しか宿さなくなった。
亡くなったと聞いたとき、涙はなかった。ただ、生涯埋めることのできない穴が胸に開いた。
乱世ということで喪は短く、司馬懿は軍務に忙殺された。
こうして曹丕を偲ぶことなど一度もなかった。偲べば、認めてしまう。
あの暗く清らかな瞳を失ったことを。
澄んだ声を二度と聞けぬことを。
度を越えたからかいを受けぬ事を。


けれどこうして偲んでいる。もう、潮時なのかもしれない。

もう二度と振り返ることはしない。そんな暇など、どこにもない。
乱世のこの時代、故人を懐かしむよりも先に、今の安寧を求めねばならない。

彼なら、そういうであろう。
誰よりも厳しく、誰よりも優しく、そして誰よりも戦のない世を願っていた人だから。

曹丕の悪戯小僧そのものの瞳も苦笑とともに好ましく思っていたが、
司馬懿は未来を語るときの清らかに輝いた瞳を一番好いていた。

一度も言葉に移さなかった。
だがそれでいいのだろう。主君と家臣。旧知の友。それ以上でもそれ以下でもない。
けして移ろうことのない、確かな間柄。
確かめたのは、あの宵の一度きり。



侍従が己を呼ぶ。
水面(みなも)を叩き、立ち上がる。流れが乱れ、月が揺れた。

「ここに」

司馬懿は足早に侍従に近づいた。

行かねばならない。

主君から与えられた命を守るために。