諸葛亮と並び称された才能の持ち主、惜しくも流れ矢に散る |
龐統 士元 〜 ほうとう しげん 〜 | |||||||
【 生没年 】 178 〜 214 年 |
分類 | 軍師 策謀 ・戦略 型 | |||||
長所 | 頭がいい | ||||||
【 出身 】 荊州 襄陽群 |
短所 | 顔が悪い | |||||
備考 | 劉備を怒らせたり泣かせたりする |
列伝 | ||||||||
はじめは周瑜に仕えていたが、周瑜の死後に劉備のもとへ移った。劉備が荊州を領有すると、県令の任を与えられたが、さっぱり業績が挙がらず、いったん免官される。 これを聞いた呉の魯粛は手紙で「龐統は県を治めるような小さな才能ではなく、治中のような州都の長官になってこそ才能を発揮する」と忠告。 また、諸葛亮も同じように取りなしたため、劉備は龐統にじかに会って才能を確かめたところ、言われたとおりの大才であった。再度、登用された龐統は間もなく孔明と並ぶ軍師中朗将に任じられる。 その後 龐統は本領を発揮。劉備の入蜀にあたり、もっとも強く勧めたのが龐統であった。しかし、彼の進言に対し、劉備はたびたび逡巡している。 劉璋との会見との会見にあたっては、ここで捕らえてしまうよう進言したが、聞き入られなかった。 また、成都攻略においても、急襲・迂回・撤退の、上・中・下の計略を立てたが、ここでも劉備は上計を取らず、中計を取っている。 その進撃作戦の途上で、敵の矢を受けて戦死した。 劉備はその後、龐統の名を口にするたびに涙したという。 ……劉備の流した涙は、龐統の才能を充分に生かすことのできなかった己に対する、自責の涙であったのかもしれない。 【 考察 】 若い頃は地味で鈍そうに見えたため、評価する人がいなかったという龐統だが、軍師としては非常に有能である。冷徹に現実を見つめ、策を図る龐統がいてこそ、劉備は蜀を取ることが出来たといっても過言ではない。 成都攻略の最中、宴席で「今日の集まりは楽しい」という劉備に対して、「他人の国を討っては、仁者の兵ではない」と答えて劉備を怒らせたこともあったが、これもまた浮かれる主君を戒めようとしたからであろう。 怜悧な計算が出来る軍師として、龐統の存在は大きかった。それゆえに、その死は蜀陣営にとって非常に大きな痛手だったのである。 |