『馬氏の五常、白眉もっとも良し』 と評された、若き俊才 |
馬良 季常 〜 ばりょう きじょう 〜 | |||||||
【 生没年 】 185 〜 223年 |
分類 | 文官 政治型 | |||||
長所 | お手紙を書くのが得意 | ||||||
【 出身 】 荊州 襄陽郡 |
短所 | 死に場所は、いまいち | |||||
備考 | 諸葛亮とはお友達 |
列伝 | ||||||||
荊州における名士の一人。兄弟五人は皆、字(あざな)に『常』の文字をもちいていたが、皆が優秀であったため、、「馬氏の五常」と呼ばれていた。その中でも、特に傑出した存在として知られていた馬良は、若いにもかかわらず眉毛が白かったので「白眉」と称えられていた。 豊富な知識の持ち主で、孫権を感心させるほどの名文家。蜀と呉を結ぶ外交官としても活躍した。また、諸葛亮とは互いに尊敬しあう仲でもあったと言われている。 夷陵の戦いの際、別働隊を率いて少数民族の慰撫・招降に向かったが、殺害された。 今日でも、多くの集団の中で特に優れる者を『白眉』と呼ぶのは、馬良のエピソードが語源である。 一般には、『白眉』として有名なわりに、あまり目立たない存在として認識される馬良であるが、その実は劉備が蜀政権を成立させるにあたって欠かせない重要な人物であった。 蜀建国において、劉備が最初に荊州で基盤を築くことができたのは、諸葛亮や馬良などを代表とする『荊州名士』の協力が不可欠であったからである。 三国時代とは『名士と豪族』の時代であったといっていい。群雄が勢力地にてしっかりした地盤を築くにあたっては、名の知れた知識人、すなわち『名士』を幕下に加え、土地の有力者達から協力を仰がなければならなかった。 そのあたりの事情を考えれば、『伏龍』孔明と共に『白眉』馬良の果たした役割も決して小さくはない。 また、正史における馬良は夷陵の戦いにおいて、劉備の無謀な遠征のわりを食う形で戦死しているが、これもあまり知られてはいない。 その理由としては、演義では馬良の最期は病死という扱いになっているからであろう。とかく演義では、正史で地味な死を遂げた人物の最期を物語の演出のために脚色し、派手な死に書き変える手法が多いにもかかわらず、馬良の死に限っては例外的に逆の手法がとられている。 劉備が夷陵にて戦死を免れたのは、諸葛亮の『石兵八陣』の計略のためというフィクションを際立たせるためと考えられるが、これは38歳という若さで戦死した馬良にとってはやや不公平な話かもしれない。 実際の馬良は、生前の働きやその悲劇的な最期をかんがみても、『白眉』の名にふさわしい人物であったと言っていいだろう。 |