全身に刻まれた傷痕は忠義の証。主君 孫権に愛された勇将 |
周泰 幼平 〜 しゅうたい ようへい 〜 | |||||||
【 生没年 】 ? 〜 ? 年 |
分類 | 武将 武力 型 | |||||
長所 | 身を挺して主君を救う忠誠心 | ||||||
【 出身 】 揚州 九江群 |
短所 | 部下にナメられがち | |||||
備考 | 実家は貧乏 |
列伝 | ||||||||
孫策が袁術のもとに身を寄せていた時代から、孫策に付き従って各地を転戦し、戦功を挙げた。 孫策が会稽太守であったころ、周泰のひととなりを愛した孫権に請われて彼の部下となった。 孫策が異民族 山越の討伐のため六県に向かったとき、留守を守っていた孫権が山越の別働隊に襲撃されて危機に陥ったことがあったが、このとき孫権を救ったのが周泰である。 数千を超える敵に対し、守備兵は千に満たず、孫権は乗っていた馬の鞍まで斬りつけられる有様であったが、周泰の奮闘により、混乱する味方達も徐々に勢いを取り戻し、敵を撃退できたという。 この時、周泰は全身に十二の傷を受けて昏倒し、しばらくしてようやく息を吹き返す有様だったと伝えられている。実に壮絶な激闘であったのだろう。 その後も黄祖討伐・赤壁の戦いなどで功を重ね、212年の濡須の戦いの後は平虜将軍に昇進し、そのまま濡須にとどまって督となった。 しかし、貧しい家柄の出身であったことから部下に侮られることも多く、周泰の統率下にあった徐盛・朱然らはたびたび彼の命令に従わなかったという。 それを聞いた孫権は、周泰の任地であった濡須まで出向き、宴席の場で周泰に上着を脱がせ、彼の傷痕を示して功績をたたえ、命令に服させるように働きかけている。 『江表伝』では、孫権はこのとき周泰の肘を掴んで涙を流し、 「卿は我ら 兄弟のために熊や虎のように勇敢に戦い、数十の傷を負った。卿は私にとって肉親同様であり、栄辱を共にし、喜びも悲しみも同じくしたいと思う。出身を気にして遠慮することはない」 と彼の武勇と功績を称え、帽子と絹傘を与えたと記述されている。 ……このエピソードは、周泰の武勇と共に孫権の人心掌握術も物語っていて興味深い。 なお、周泰は黄武年間(222〜228)に死去している。 孫策の存命中から孫権の直属の武将として活躍するといった具合に、誰よりも早く孫権に仕えた周泰であったが、主君が帝位にのぼる姿を見ることはできなかった。 それをもっとも残念に思っていたのは、ほかならぬ孫権であったかもしれない。 |