古代の賢人 顔回にたとえられた静かなる知性。主君 孫権を支え続けた能臣 |
諸葛瑾 [ 子瑜 ] 〜 しょかつきん [ しゆ ] 〜 | |||||||
【 生没年 】 174 〜 241年 |
分類 | 文官 戦略・外交 型 | |||||
長所 | 実直な人柄・取り成し名人 | ||||||
【 出身 】 徐州 琅邪郡 |
短所 | 子育てが下手 | |||||
備考 | 顔がロバに似ている |
列伝 | ||||||||
蜀の丞相 諸葛亮の兄。孫権が呉を継いだばかりの頃から仕え、重く用いられた。呉と蜀が、荊州の所属をめぐって対立したとき、諸葛亮と荊州を分割する協定をまとめる。しかし、二人は公式の場で話をしても、兄弟で会うことは決してなかった。 孫権が皇帝となると、大将軍に任じられ、軍事・政治両面の中核となった。堂々とした容姿だが長い顔をしていたという。 一般には『諸葛亮の兄で有能ではあったが、弟には及ばない』という印象が強い諸葛瑾。しかし、史実における彼の足跡を検証してみるに、決して弟に見劣りするような人物ではなかったようだ。 というのも、諸葛亮が劉備にとってなくてはならない存在であったように、諸葛瑾もまた孫権にはなくてはならない存在であったからである。 酒が好きで、かっとなりやすい性格の持ち主である孫権が、名君であり続けることができたのは、たぶんに諸葛瑾が孫権の諌め役として傍らにあった事に拠るところが大きい。 謹直で温厚な人柄の諸葛瑾は、主君をやんわりと諌め、主君と不興を買った家臣との間を修復することにたくみであったといわれる。主君とは正反対の彼の性格が、かえってよかったのかもしれない。 そんな諸葛瑾を孫権は深く信頼しており、「孔子の弟子 顔回の徳は人々の間柄を親密にしたというが、彼は諸葛瑾のような男であったからだろう」とまで評価していた。 孫呉政権は有力豪族や知識人の発言力の強い、いわば寄り合い所帯であったため、君主として常に折衝に悩まれる立場にあった孫権には、諸葛瑾のような人物こそが必要であったのだろう。 茶目っ気のある性格の持ち主でもあった孫権が、ロバに『諸葛瑾』という札を下げて諸葛瑾の面長の顔をからかったこともあったが、それとて孫権の諸葛瑾に対する信頼を物語るようで面白い。 諸葛瑾の存在の大きさを示すのは、彼の死後、明らかに孫権に失政が目立つようになったことである。 孫権の後継者争いから起こった『二宮事件』によって、孫権は多くの人材をその手にかける。陸遜の憤死にとどまらず、吾粲・朱拠・楊竺の誅殺。それらは、諸葛瑾が生きていた頃には考えられないことであった。 なお、諸葛瑾の息子 諸葛格もまた、父親同様 大将軍となり、最終的には内外の権力を一手に掌握するが、他人の意見をまったく介しない性格と外征の失敗により、斬殺され、一門を根絶やしとしてしまう。 後世 諸葛瑾が大きく評価されないのは、彼の功績が、彼の死後に台無しにされてしまったからかもしれない。 |