早熟の才児、されど大器にあらず。やがて一門は根絶やしに
諸葛格 元遜  〜 しょかつかく げんそん 〜
【 生没年 】

203 〜 253 年
分類 文官  破滅 型
長所 頭の回転が速い
【 出身 】

揚州 ?
短所 挫折の反動が大きい
備考 とんちが得意
列伝

 呉の諸葛瑾の長男。

 若いころから才名が高く、才知あふれた言葉遣いと臨機応変な弁論に対して、うまく応酬できるものがいなかったと伝えられている。

 孫権が諸葛瑾の面長の顔を驢馬に見立ててからかったときは、驢馬にぶら下げられた「諸葛子瑜」の文字に「之驢」の二文字を加え、驢馬を父に下賜させたエピソードは有名。

 孫権の息子に「馬の糞でも食ったらどうだ?」とからかわれたときには、すかさず「では太子様は鶏卵を召し上がってはいかが?」と応酬し、首をかしげる孫権に対して「どちらも出どころは同じです」と種明かしをしてみせるなど、その才で孫権を感嘆させ、愛されていたという。

 呉の重鎮 張昭すらも返答に詰まらせるほどの利発な少年であったが、父親の諸葛瑾は実直な人柄であり、才気はじける息子の様子を見て常々苦にしていた。

 「我が家を大いに盛んにするのもこの子なら、我が家を根絶やしにするのもこの子だろう」

 諸葛瑾はこのように懸念していたと伝えられているが、やがてそれは不幸な形で的中する。


 245年に死去した陸遜の後を継いで大将軍となった諸葛格だったが、孫権の死後はさらに大傅(太子の指導役)をも兼任し、内外の権力を一手に掌握。…事実上の呉の最高権力者となる。

 未納の税金を帳消しにしたり、関税を廃止するなど、当初の彼による施策は好評をもって迎え入れられていた。しかし、魏からの侵攻に対して大勝利を収めたことで、諸葛格は欲を出す。

 周囲の反対を押し切って合肥新城に攻撃を仕掛けるも、今度は逆に大敗を喫し、その失敗を徐州・青州への攻撃をもって取り返そうしたことで、諸葛格は呉にとって極めて危険な存在となっていった。

 あくまで他者の意見を無視する諸葛格は、やがて宴席の場で惨殺されるという運命を辿る。彼の子供達も誅殺され、呉における諸葛一族は完全に根絶やしとされてしまったのである。