圧倒的なスピードで領土を拡大し、呉を築いた『 江東の小覇王 』 |
孫策 [ 伯符 ] 〜 そんさく [ はくふ ] 〜 | |||||||
【 生没年 】 175 〜 200年 |
分類 | 君主 武力・勢力拡大型 | |||||
長所 | 戦争の天才・明るい性格 | ||||||
【 出身 】 揚州 富春? |
短所 | 軽率 | |||||
備考 | 奥さんは美人で有名 |
列伝 | ||||||||
孫堅の子で孫権の兄。孫堅が挙兵すると、母とともに移住した先で、同い年の周瑜と親交を結ぶ。父の死後、袁術の下について各地を転戦し功績を挙げたが、孫策を警戒する袁術は、重く用いなかった。 袁術に反感を抱きつつも、揚州刺史として袁術と対立していた劉繇を追出し、その本拠地を奪うなどの活躍を見せたが、やがて袁術から独立し、自身の勢力を築くべく快進撃を開始した。 194年、袁術から独立。劉鷂を倒し、剛勇 太史慈を配下とする。 195年、呉郡刺史 許貢を攻略。その周辺を傘下にする。 196年、会稽郡刺史 王朗を追放。 197年、袁術が皇帝を自称すると絶縁し、袁術の領土に侵攻を開始。 198年、長江中流域に勢力に進出し、盧江・豫章郡を占領。 眼を見張るような速度で周辺勢力を併呑した孫策は曹操からも恐れられ、官渡大戦の前には曹操から孫策へ婚姻関係を結ぶ申し出があるほどであった。 しかし曹操の思惑とは反して、孫策は官渡大戦時には袁紹と同盟。曹操が許都を留守にした隙を狙っての「献帝強奪計画」を立てるが、決行にうつす直前に暗殺された。 死の床で弟の孫権に 「天下分け目の勝負を挑むなら自分だが、賢臣を用いて江東を守るならおまえが上だ」 と言い残して、この世を去る。わずか26歳の早すぎる死であった。 |