もはや呉下の阿蒙にあらず。関羽を手玉にとる怜悧なる策謀。 |
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呂蒙 子明 〜 りょもう しめい 〜 | ||||||
【 生没年 】 178 〜 219年 |
分類 | 武将→軍師 戦術・戦略 型 | |||||
長所 | 成長速度・現実的処理能力 | ||||||
【 出身 】 豫州 汝南県 |
短所 | 病弱 | |||||
備考 | 甘寧をシメたことがある |
列伝 | ||||||||
わずか15歳の時から孫策に仕えて功績を挙げ、孫権のもとでは黄祖討伐・赤壁の戦い・曹仁との江夏争奪戦などの数々の戦いに参加し、若くして偏将軍に任じられる。 もともとは武人肌であったが孫権に忠告されて以降は、熱心に学問を修め、 やがて魯粛と対話したとき「もはや呉下の阿蒙にあらず」と感心させた。 魯粛の死後は後任として、その部隊を引き継ぐ。 合肥・濡須等の東部戦線での経験から、魏との戦争は騎馬戦において不利であると主張し、東部戦線を縮小、荊州を奪還すべく呉の戦略方針を転換させる。 関羽と対峙した際には病気に伏せっていたが、その情報をわざと蜀軍に流し、関羽の油断を誘って後方を急襲。一兵も失うことなく、関羽の家族・関羽配下の兵士達を捕虜にしてしまい、関羽を味方の中で孤立させ、討ち取ることに成功する。 この功績によって南郡太守に任じられたが、まもなく病死した。 【考察】 関羽を油断させるにあたっては、己の病気すらも策の一環として利用するほどの怜悧な策士。しかし味方や弱い立場の人間には、どこまでも温かく優しい男であった。 呉の勇将 甘寧の館で働いていた童子がささいな失敗をして甘寧の怒りを買った際には、童子を一時的に自分の屋敷にかくまい、甘寧から罰を与えられないようにとりなしている。 しかし、その後に甘寧が腹いせに童子を殺してしまったときは憤激し、私兵を率いて甘寧の館を急襲。ようやく反省して死を覚悟した甘寧の姿を確かめてから、優しい言葉をかけて許すなど、将として理想的な数々のエピソードを残している。 |
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