誰よりも呉の天下を夢見た、稀代の戦略家 |
魯粛 子敬 〜 ろしゅく しけい 〜 | |||||||
【 生没年 】 172 〜 217年 |
分類 | 軍師 外交・戦略型 | |||||
長所 | 壮大な野心・現実的な戦略眼 | ||||||
【 出身 】 揚州 建業 |
短所 | 独断専行・傲岸不遜 | |||||
備考 | すげぇ金持ち |
列伝 | ||||||||
生後すぐに父を失い祖母に育てられたが、巨万の遺産を広く施して郷党の歓心を買った。 幼い頃から、儒学・礼法よりも兵法・騎射・剣術などを好み、地元の長老から 「あのような狂児が跡取りでは、魯家も終わりだ」 と、嘆かれるほど一風変わった存在であった。 22歳の時、数百人の部下をかかえた周瑜から食料の提供を求められ、二つある倉の一つ、三千石分を与えて感動させる。 周瑜の推挙によって孫権に仕えた後は、いち早く「天下二分の計」を唱え、荊州方面への侵攻という呉の戦略方針を決定づけた。 魯粛の倣岸不遜な性格を嫌い、長老の張昭がしばしば孫権に諫言したが、孫権の魯粛に対する信頼はいささかも揺るがなかったという。 劉表の死後は、混乱する荊州へ偵察に行き、劉備と会見して諸葛亮と親交を結んだ。 さらにその場で、曹操の侵攻に対応策を打つべく、独断で劉備陣営と同盟を結ぶ。 やがて曹操の大軍が南下すると、降伏論が大勢を占める中、ただ一人 反対して主戦論を展開。 軍事訓練中の周瑜を都に呼び戻し、周瑜に勝算を語らせた上で、再び孫権に対し開戦を要求した。 「私をはじめ臣下の多くは豪族の出身なので曹操の下でも相応の知遇は得られます。しかし孫権殿は代々の地磐を持っていません。降伏すれば、身の置き場がなくなるでしょうな」 魯粛のこの言葉で、ついに孫権は開戦を決断することとなる。 赤壁の戦いの勝利後は、独自の観点から、戦略方針を「天下三分の計」へと転換。 病死した周瑜の軍勢を引き継ぎ、横江将軍として荊州に駐留する。蜀と呉の間でもめていた荊州の問題を処理し、同盟の維持に務めたが、46歳で病死した。 【考察】 史実における魯粛は、大胆の一言に尽きる人物である。 赤壁の戦いの後、孫権が凱旋した魯粛を迎えるにあたり、馬から降りて礼を尽くしたときに、 「あなたが天下を統一した時に、礼を尽くしていただけたなら満足するのですが」 と気宇壮大な言葉を返して孫権を喜ばせたエピソードは有名。 孫権を喜ばせた理由は、それが単なる夢想家の言葉でなかったことであろう。 事実、魯粛は現実的な処理能力にも優れており、大きな業績を残している。 長きに渡る孫呉の荊州攻撃による民衆の反感を考慮し、にわかに荊州を収めることができないと判断したために劉備に同地を委ね、その間に江東に強力な独立政権の基盤を築くなど、「親劉備派」の裏にも怜悧な計算を働かせていたこと。 結果的には関羽から荊州を分割させる条約をもぎ取ったこと。 一般に「親劉備派」と言われる魯粛であるが、あくまでそれは「反曹操」という前提においてのスタンスであり、実際には孫呉陣営に対してこそ、多大な貢献をしていると言っていい。 劉備陣営と荊州の領有をめぐって争った時期においては、孫呉陣営の総司令官として一歩も譲らない姿勢を見せた。事実、軍事面においては関羽が率いる部隊を釘づけにし、外交の場においても容赦なく関羽を論破している。 演義では、周瑜と孔明の間を右往左往するお人好しとして描かれているが、実際の魯粛は壮大な野心と現実的な大局眼を両立させた戦略家であり、孔明・周瑜に勝るとも劣らない逸材と言える。 |