関羽を欺き、夷陵にて蜀軍を焼き尽くし、石亭では魏を翻弄。戦場で発揮する天賦の才 |
陸遜 [ 伯言 ] 〜 りくそん [ はくげん ] 〜 | |||||||
【 生没年 】 183 〜 245年 |
分類 | 武将→軍師 策謀・統率型 | |||||
長所 | 戦場での謀略は悪魔的な成功率 | ||||||
【 出身 】 揚州 呉郡 |
短所 | 宮廷での謀略には致命的に弱い | |||||
備考 | 妻は孫策の娘 |
列伝 | ||||||||
幼くして父を失い、一族の陸康のもとに身を寄せた。孫権に仕えて数々の山賊・反乱軍を鎮定するなどの功績をあげ、孫策の娘を妻に娶った。 呂蒙のもとで関羽と対峙したときは無名だったが、関羽にへりくだった手紙を送るなどで相手を油断させて、関羽が兵力を樊城に集中させた隙を突いて関羽を斬った。そのまま荊州を取って鎮西将軍に昇進する。 劉備が関羽の仇討ちに侵攻してくると、持久戦にもちこんで防衛を固めた。蜀軍の軍営が伸びきったところを火攻めにかけ、壊滅的な損害を与えて劉備を白帝城にて悶死させる。その功により輔国将軍となった。 228年には魏の大司馬 曹休を、偽りの離間策でおびき寄せ、石亭にて完膚なきまで打ち破り、曹休もまた憂悶の死を迎えることとなる。 その後は上大将軍に任命され、魏に対する防衛と蜀との外交を担当。 数々の功績から244年には荊州駐屯のまま丞相に任命される。 しかし、呉の後継者争いに巻きこまれたことで、陸遜の運命は一転することとなった。 呉が二分される後継皇帝問題を憂いた陸遜は、度々に渡って孫権に嫡子相続の正統性を説いたが聞き入れられず、逆に反陸遜派の謀略にさらされる。 「陸遜に関する二十ヶ条の罪状」というでっちあげを信じた孫権から何度にもわたり問責の使者を送られ、陸遜は失意のあまり憤死。ときに陸遜 63歳、後に無実を知った孫権は深く後悔したという。 謀略によって宿敵を悶死させてきた陸遜が、味方の謀略によって憂悶の死を迎えることになったのもまた、運命の皮肉というべきなのかもしれない。 |