圧倒的不利を覆すは、獅子の胆力。偽城を構えて曹丕を笑う |
徐盛 文嚮 〜 じょせい ぶんきょう 〜 | |||||||
【 生没年 】 ? 〜 ? 年 |
分類 | 武将 武力 型 | |||||
長所 | 大胆不敵で、とっても強い | ||||||
【 出身 】 徐州 琅邪国 |
短所 | 自尊心も、すっごく強い | |||||
備考 | 周泰との相性はイマイチ |
列伝 | ||||||||
戦乱の故郷を捨て、呉群に流れてきて住みついた。 やがて男気をもって知られるようになり、孫権の目にとまって用いられた。 勇猛果敢な戦い振りをする人物であり、200年に黄祖の息子 黄射が数千の兵を率いて侵攻してきた際には、わずか二百の兵をもって撃退している。 千余名の兵士を傷つけられ、さらに追撃まで受けた黄射は、二度と攻めてこなくなったという。 曹操と孫権の間で展開された、濡須の攻防戦でも目覚しい活躍を示す。 強風にあおられ、船が敵の陣地に乗り上げてしまうといった窮地に陥いることもあったが、狼狽する同僚達に構わず、一人 兵を率いて上陸し、多数の敵兵を殺傷した。 風がやんだ後、悠々と帰還した徐盛の豪胆ぶりに、孫権も舌をまいたと伝えられる。 224年、魏の文帝 曹丕が侵攻してきた際は、長江沿いに偽の城塞を構えて、敵軍の目を欺く。 徐盛の奇計の前に、戦わずして曹丕は撤退を開始。 呉の諸将は、徐盛の知略を認めたという。 黄武年間(222〜228年)に死去。 【 考察 】 偽城をもって曹丕を撤退させたことから、『知将』というイメージが強い徐盛であるが。 215年の合肥の戦いにおいては、張遼の奇襲の前に、兵が混乱し、部隊を瓦解させてしまっている。 どちらかと言えば、守りよりも攻めにおいて力を発揮する武将であったようだ。 性格的にも、攻撃的で自尊心の強い人物であったらしい。 貧しい家柄の出身だった周泰の統率下に入ることを潔しとしなかったこと。 あるいは、孫権が一時的に魏に臣従していた際に、魏の使者の前で悔し涙を流したこと。 曹丕を撤退させた偽城の計からして、周囲の反対意見に耳を貸さなかったというから、なかなかに我の強い人物であったと言えよう。 |