美しさと強さを兼ね備えた孫策・孫権の母。乱世に自らの運命を切り開く。 |
呉夫人 〜 ごふじん 〜 | |||||||
【 生没年 】 ? 〜 202年 |
分類 | 美女 武烈 型 | |||||
長所 | 才色兼備 | ||||||
【 出身 】 揚州 呉群 |
短所 | 男勝り、すぎる | |||||
備考 | 『 孫呉の母 』 |
列伝 | ||||||||
早くに父母をなくし、弟と二人で暮らしていた。 若い頃から才色兼備で噂に上ることが多かった。 彼女の噂を聞きつけた孫堅が求婚したとき、 呉氏の一族は成り上がり者で粗暴な孫堅を嫌い、結婚に反対した。 そのことで孫堅は大いに誇りを傷つけられ、怒ったという。 しかし、このとき彼女は 「娘一人のために一族が恨みを買ってどうするのです? この結婚によって私が不孝になったとしても、それは私の運命でしょう」 と言ったので、一族は孫堅と結婚させた。 このとき、彼女は十七歳。 後に、孫策・孫権を含む四人の男子と一人の女子を産む。 孫堅の死後は、孫策の下へと迎え入れられる。 孫策が王晟を討伐したときは、孫堅と王晟の友情を説き、孫策に王晟を見逃させた。 また、功曹(人事をつかさどる文官)の魏滕が孫策の怒りを買って処刑されようとしたときは、 周囲の誰もが魏滕を救う手立てのないことを嘆く中、彼女ひとりが 井戸の縁に寄りかかって孫策に対し抗議したという。 「いまだ江東の基盤を整えていないにもかかわらず、 むやみに人を殺して恨みをかってどうするのです。 賢者には礼を尽くし、多少の欠点に目をつぶることができなければ人はみな背くでしょう。 そのように乱れる国を見る前に、井戸に身を投げて死のうと思います」 この彼女の言葉により、孫策は魏滕の処刑を思いとどめた。 孫策の死後、19歳の孫権が跡を継ぐと、 呉夫人は政治・軍事の両面で多くの助言をして孫権を補佐している。 また、孫権に周瑜を兄として契りを結ぶように命じたのも彼女である。 その後、周瑜は終生 孫権に仕えることとなった。 江東屈指の名家の出身であった周瑜の忠誠は、 新興の勢力、ひらたく言えば『成り上がり者』にすぎなかった孫家が 他の豪族・有力者達の支持を得るうえで、極めて重要な要素だった。 孫策の死後も、周瑜の心をつなぎとめるために 彼女は心をくだいていたのである。 202年、病床のおりに張昭らを招いて後事を託し、死去。 彼女の亡骸は孫堅と同じ墓に埋葬された。 孫権が呉の帝位についたとき、『 武烈皇后 』の諡(おくりな)を与えられた。 【 考察 】 三国志演義では劉備と孫権の妹の政略結婚の際に色々と口出しする、 孫権達の母親 呉国太という女性が出てくるが、これは演義における創作の人物。 呉夫人とは別人である。 呉夫人は、その十年前の202年に死去している。 史実における呉夫人も、孫策の死後 2年ほどは呉政権で大きな立場を占めていたが、 死に臨んでは張昭に孫権の後見を託し、惜しまれつつ世を去った。 また、その張昭も幾度か君主 孫権と火花を散らしつつも、終生 孫呉政権に忠誠を尽くしている。 周瑜と張昭。 呉にはなくてはない存在だったこの二人を孫権に残した、大きな功績。 また、孫策の生前はその暴走に抑制をかけ、 孫策の死後は確かな政治手腕を発揮して国の危機を乗り越えたこと。 ……以上をかんがみるに、彼女こそは『孫呉の母』と呼ぶにふさわしい人物と言っていいだろう。 |