曹操が献帝を迎えるにあたっての最大の功労者。さらに主君を魏公へと導く。
董昭 [ 公仁 ]  〜 とうしょう [ こうじん ] 〜
【 生没年 】
? 〜 ?年
分類 文官  策謀 型
長所 詐術に関しては、超一流
【 出身 】
州   済隠郡
短所 ごますり野郎・行儀が悪い
備考 荀ケの天敵
列伝

 はじめ袁紹に仕えて功績があり、後に張楊に仕えて曹操に接近した。

 はやくから曹操の才能を見抜いており、196年に曹操が献帝を迎えるにあたっては、
 洛陽にて献帝を奉戴していた楊奉・董承らの反目につけ込む策を立案。
 曹操の手紙を偽作し、楊奉に協力をもちかけた。
 喜んだ楊奉が献帝に上奏して曹操を鎮東将軍に任じると、
 参内した曹操に策を提案して、そのまま献帝を許昌へと移させた。

 これによって楊奉は寄る辺を失って袁術のもとへと降ることとなる。

 さらに213年には、曹操の爵位を魏公に引き上げさせるべく発議した。

 これによって曹操はますます専横を募らせ、216年には魏王となり、
 皇帝とはわずか一階を隔てるのみとなった。

 なお、曹操の股肱の臣であった荀ケは、
 魏公昇進に反対して曹操の忌諱に触れ、憂悶の死を迎えたと伝えられている。

 219年の樊城攻防戦では、
 呉の孫権から「関羽の後背を我々が突く事は内密にしてほしい」という要望があったが、
 董昭はこれを逆用するべく献策した。

 樊城を守る曹仁と包囲網をしく関羽の両陣営に対し、孫権軍襲来の報を漏らさせたのである。
 これにより樊城守備兵の士気は奮い立ち、関羽軍は混乱。

 関羽の敗亡にはいくつかの理由があるが、董昭の策も一因となっていると言えよう。

 曹操の死後も曹丕に重用され、231年には三公の一つ 司徒にまで昇りつめている。
 81歳の長寿を保って死去。


 【 考察 】

 正史における董昭は、
 ある種の寄生植物のような恐ろしさを感じさせる男である。

 彼が巧みに身を処し、高位につく過程においては、
 楊奉・荀ケ・関羽などが犠牲になっているからだ。

 董昭は戦争手腕にも優れていたらしいが、
 やはりその真骨頂は戦略的な献策にあったと言えるだろう。

 また、非常に現実的で冷めた目の持ち主でもあったゆえに、人物鑑定眼も確かなものだったようだ。
 早くから曹操の可能性に着眼し、劉備一党に対しても郭嘉・程cらと共に警戒を唱えている。

 しかし、その知謀はともかく、人物的には問題があり、
 礼節を重んじる人物からは嫌われていたようだ。

 同僚の蘇則の膝を枕にしてごろりと横になった際、
 「私の膝を、ごますり男の枕に貸す気はないぞ」と言われて押しのけられてしまったという、
 笑うに笑えないエピソードの持ち主でもある。