受けた恩義は血よりも濃く。生涯を曹一族に捧げた誠実なる名将。
曹真 子丹  〜 そうしん [ したん ] 〜
【 生没年 】
? 〜 230年頃?
分類 武将  統率 型
長所 有能で誠実
【 出身 】
豫州? 沛国?
短所 不肖の息子を持つ
備考 曹丕 四友の一人
列伝
 
 
諸葛亮の第1次・第2次北伐を迎撃した魏の総司令官。
 自身も、振り向きざまに虎を射殺すほどの武勇の持ち主であったという。

 第1次北伐では、街亭に張郤を派遣して馬謖を大敗させ、
 自らは漢中方面に出撃し趙雲の侵攻を食い止めている。

 また、第2次北伐では蜀軍の再侵攻を事前に予見し、
 陳倉にを配備して諸葛亮を撤退させることに成功した。

 230年には、度重なる蜀軍の侵攻に対し攻勢に転ずることを提案。
 いくつかの街道から一斉に漢中に侵攻する大規模な作戦を立案し実行に移したが、
 不幸にも長雨に悩まされ、一戦も交えることなく撤退することになる。

 失意のうちに病を得て、洛陽に帰還して間もなく死去した。


 【 考察 】

 演義では司馬懿に対抗心を燃やし、手柄を一人占めさせないよう小細工を弄して失敗したり、
 諸葛亮の作戦に裏をかかれて敗退し、諸葛亮から手紙で失敗を辱められて憤死するといった
 無能そのものの人物として描かれているが、実際には曹操・曹丕亡き後の魏を支えた屈指の名将。

 222年には老齢の曹仁の後を継ぎ、上軍大将軍・都督中外諸軍事に任命され、
 内外の兵権を掌握したほどである。

 曹休・陳羣・司馬懿と共に、
 曹丕の四友として曹叡の後見を任されたほど信頼されていた曹真であるが、
 実のところは曹一族の血を引いてはいない。

 幼い頃、父親の秦伯南が曹操の身代わりとなって袁術の配下に殺されたことで孤児となり、
 それを哀れんだ曹操に引き取られて曹丕と共に養育されたのである。

 若い頃は虎豹騎と名づけられた近衛隊の隊長に任命されるほどの勇猛な働きを見せ、
 長じて魏の大将軍となるほどの人物に成長した曹真を支えていたのは、
 曹操に対する恩義の情だったのかもしれない。

 苦労しただけに他人の痛みがわかる人物だったらしく、
 同郷の朱讃が若死にした際は自身の領地をその子に分け与えたり、
 遠征した兵士に支給される賞与が足りない場合は自らの財産の中から分かち与えたという。

 史書に記述される彼の人柄は誠実そのものであり、
 実績的にも第1次・第2次北伐をしのいでいることから、
 名将と呼ばれるにふさわしい人物と言える。

 しかし、曹真の子 曹爽は、後に司馬懿と覇権を争って敗れ、
 魏が短命王朝となる原因の一つを作っている。
 親の評価を下げた不肖の息子というべきであろう。