幾度にわたり曹操の危機を救った功臣、吝嗇が災いして晩節を汚す。 |
曹洪 [ 子廉 ] 〜 そうこう [ しれん ] 〜 | |||||||
【 生没年 】 ? 〜 231 年 |
分類 | 武将 統率 型 | |||||
長所 | 守備が堅い | ||||||
【 出身 】 豫州 沛国 |
短所 | 財布のヒモも、堅い | |||||
備考 | 曹操よりも、お金持ち |
列伝 | ||||||||
曹操の従弟。 190年、曹操の挙兵に参加し、対董卓との戦いでは 曹操が董卓の武将 徐栄の待ち伏せにあって大敗した際に、窮地を救った。 流矢にあたって負傷し、愛馬も傷ついてしまった曹操に自分の馬を与え、 「天下に私がいなくても差し支えがないが、貴方がいないわけには参りません」 と言い、自らは徒歩で敵中を切り抜けた。 さらに、河のほとりで立ち往生した際にも岸辺をめぐり、舟を探し出してきたという。 また、この敗戦の後、失った兵を補充するべく、揚州へと渡り、 廬江にて二千、さらに丹楊にて数千の兵を徴兵し、曹操と合流。 初期の曹操軍団の再起および強化に、曹洪は大きく貢献している。 その後も曹操を助けて各地を転戦。 194年の対呂布戦においては、本軍に先行して部隊を指揮し、食料を調達。 呂布の敗走後は、叛乱に与した十余県を攻撃し、すべて陥落させた。 袁紹との天下分け目の戦いであった官渡大戦では、 曹操が烏巣に出撃している間、敵将 張郤・高覧の攻撃から本営を守り通している。 この時の曹洪の働きがなければ、 曹操の乾坤一擲の賭は無惨な結果に終わっていたかもしれない。 そう考えると、彼は「二度にわたって主君の命を救った人物」ということになる。 208年の南征作戦では先鋒として博望の戦いなどに参加。 劉表の部将を撃破し、昇進。国明亭侯に任ぜられた。 217年には、対蜀戦線にて馬超・張飛と対峙。 敵の態勢が整わないうちに部将 呉蘭の首を斬り、馬超らを敗走させている。 220年、曹丕が帝位につくと衛将軍となり、領邑 千戸を加増され、計 二千百戸となった。 武将としては極めて有能な人物あり、また、危機的局面においても 力を発揮する得難い人材であった、と言えるだろう。 しかしながら、 生来、吝嗇な性格の持ち主であり、その事が災いして 曹操の死後、思わぬ憂き目にあうこととなる。 かつて、若き日の曹丕が曹洪に借財を申し込んだときに、 これを拒んで貸し与えなかった事があり、 その事を曹丕によって恨まれていたのである。 曹丕は曹洪の食客が法を犯したことを口実に、曹洪を捕らえ、死罪を宣告。 このとき、たまたま曹丕の横で、 『曹洪逮捕』の報告を受ける形となった曹真が、 「ここで陛下が曹洪殿を誅殺したならば、 彼は私が陛下に良からぬ事を吹き込んだと考えるでしょう」 と、助命を請うている。 しかし、曹丕の答えは 「これは私が自分で始末をつける事であって、卿に何の関係があろうか」 という、とりつく島もないものであったという。 結局、卞太后(曹丕の生母)の取りなしによって、ようやく死刑は免れたものの、 曹洪は官職は剥奪され、領地も没収されてしまう。 先帝の功臣に対してあんまりだ、と当時の人々は釈然としなかった。 なお、曹丕の死後、 曹叡(明帝)の即位とともに名誉を回復。 千戸の領邑を与えられ、次いで特進(三公なみの待遇)を加えられる。 231年に死去。諡(おくりな)は『 恭侯 』。 【 考察 】 曹洪といえば、 若き日に曹操の窮地を救い、そのときに 「天下に我がなくも可なるも、君がなくては不可なり」という 名言を口にしたエピソードが有名である。 しかし、これだけではただの美談に過ぎず、 さほど彼の価値を高くするものではないだろう。 彼の真価は、その後にある。 失った兵を補強するべく、揚州へと渡り、兵を集め、 主君の再起に大きく貢献した事。 官渡の戦いにて本営を守り抜き、 対蜀戦線では馬超・張飛を相手に一歩も引かぬ戦いぶりを見せた事。 武将としても、その働きぶりで 主君 曹操を幾度にわたって救っているのである。 しかし、『将』としては申し分ない人物であったが、 『臣』としてはいささか問題のある人物であったようだ。 吝嗇、ひらたく言えば「ケチ」であり、 蓄財に励むことにも労力を惜しまなかったらしい。 曹操が司空(蔵相)となって諸人の本籍地の資産を調べたとき、 台帳を作成した県令から「曹洪殿の財産は、曹操様に匹敵します」と 報告を受けた事があった。 このとき、曹操はにわかに信じられない様子だったそうである。 「匹敵? まさか。 絶対、あいつの方が持っておる」 おそらく、このとき曹洪は財産税の徴募を嫌い、 実際よりも少ない数字で、資産の報告をしたものと思われる。 後年、曹丕が曹洪に対しておこなった仕打ちに対しては、 卞太后と曹真をはじめ、多くの人達が心を痛めている。 しかし、他方で 「陛下の気持ちも、わからぬでもない」 と思う人達も、多かったのではないだろうか。 |