数々の武勲を立てた曹一族の若き勇将。虎豹騎を率いて縦横無尽の活躍。 |
曹純 [ 子和 ] 〜 そうじゅん [ しわ ] 〜 | |||||||
【 生没年 】 174 〜 210 年 |
分類 | 武将 統率型 | |||||
長所 | 戦術眼・統率力に優れる | ||||||
【 出身 】 ? |
短所 | 短命 | |||||
備考 | 曹仁の異母弟 |
列伝 | |||||||
193年、20歳のときに曹操の袁術討伐に随行。 それ以後、常に曹操の征伐に参加するようになった。 205年の袁譚討伐では、的確な進言をして勝利に大きく貢献している。 南皮における袁譚包囲戦では、袁譚が必死になって打って出たため、 曹操軍の死者が多くなる局面があった。 攻撃の手を緩めようとする曹操に対し、曹純は積極策を進言。 「千里の道を踏んでやってきたにもかかわらず、 進んで勝てずに退くとなれば、必ずや威光を失うことになりましょう。 また、我ら遠征軍にとって、ここは敵地。久しく留まれるものでもないのです。 しかしながら。 今、敵は勝って驕り、味方は敗れて警戒を強めています。 この兵をもって驕った敵を討てば、きっと勝利を収められるでしょう。」 曹操はその言葉を良しとして、激しく攻め立てた。 袁譚は敗れ、曹純旗下の騎兵がその首を奪った、という。 207年、曹操は袁氏を支持する異民族 烏丸の征伐に着手。 柳城の烏丸を討ち、白狼山で勝利を収めた。 このとき、異民族の首領を虜としたのも、曹純の騎兵隊だった。 208年には、曹操の荊州攻略に加わり、軽騎兵を率いて劉備を追撃。 当陽の長坂において劉備の娘二人を捕らえ、さらに物資を獲得し、 敗残兵を吸収している。 このように多くの武勲を立てた彼だったが、210年に若くして世を去った。 享年37歳。 曹丕が帝位につくと、威侯と追諡された。 なお、曹純は武勇に秀でただけでなく、人格的にも優れた人物であったらしい。 14歳のときに父を失い、異母兄の曹仁とは別に暮らしていたが、 父の財産を受け継いで、数百人の食客や奴僕を規律正しく監督し、 郷里の人々から有能を認められていた。 また、学問を好み、学者を敬愛したため、多くの学者が彼のもとに集まり、 遠近の人はこぞって彼を称賛したという。 そんな彼を、曹操は得難い人物として高く評価していたようだ。 曹純の死後、彼が指揮していた精鋭騎兵部隊 『虎豹騎』の後任者は、 ついに選ばれることがなかった。 後任者を選ぶよう進言する者に、曹操は言ったという。 「曹純ほどの者を、どうしてまた得られるというのか。 今後、虎豹騎は私が指揮する。 私が指揮官として適当ではない、とは言わせない」 曹操の故人に対する、深い哀惜の意を感じ取れる言葉である。 【考察】 曹操陣営において、早世が惜しまれる人物は数多い。 曹純もまた、その一人だと言える。 彼は、赤壁の戦いから2年後の時期に、37歳の若さで死去している。 しかし、もしも彼にあと20年の時間が与えられていたなら。 異母兄の曹仁にも匹敵する活躍ができたかもしれない。 『日頃より部下をよくかわいがり、その心を得た』 と史書に記される曹純と、その傘下に置かれた虎豹騎ならば、 対蜀・対呉戦線のどちらでも相応の働きができたと思われるからだ。 なお、虎豹騎とは戦場において曹操の身辺を守る事を任務とした 精鋭の騎兵部隊である。 部隊に所属する兵はみな天下の精鋭の士であり、 時には百人を率いる部将の中から選ばれることもあったという。 虎豹騎は宿衛の任にも当たるため、 曹操は気心が知れている一族を登用して、その督とした。 有能な親族武将と、その指揮下におかれた精鋭中の精鋭達。 まさに、曹操陣営においては『武のエリート集団』ともいうべき存在であったと言えよう。 その虎豹騎が、もっとも輝いていたのは 曹純が指揮を取っていた時期ではなかったか。 若き勇将 曹純が颯爽と采配を振るい、 その指揮のもと原野を駆ける屈強の戦士達。 その勇壮なる絵図は、曹操ならずとも感嘆させられるものであったに違いない。 |